読む筋トレ
朝日に以下:
非読社会で問い直したい「読む筋トレ」 AI時代に広がる格差とは?
Re:Ron特集「AI時代に何を読む?」稲田豊史さん
>>この「ポイント」ってのは非読な人(あるいはタイパ人)用?こんな親切ごかし、やめた方がいいんじゃあないか?以下で「読む」ってのは「タイパに逆らう営みだ」と主張するんだから・・・
■「ラテン語化」「貴族化」する読書
――『本を読めなくなった人たち』では、本が一部の人の贅沢(ぜいたく)品となって、読書については、日常言語としては消滅し、教育を受けた者のみが読み書きできる特権言語となった「ラテン語」のようになる、と指摘していますね。
大学生の書籍費が月1千円を下回りました。今は新書も1千円を超えるものがあるので買えない。そもそも地方に住む人にとって身近な書店はほとんどない。そういう中で贅沢品としか言いようがありません。
歌舞伎やオペラも元々はもう少し大衆的なものでしたが、入場料も高いし、立地的に都心部にしかない。かなり遠い未来かもしれませんが、読書もそうなっていくのでは。でも、もし書籍文化を保存すると考えると、それぐらいのことを考えないと。もう本ってもうかる商売ではないので。文化事業としてとか、国の助成を得るとか、特殊なスキームを組まないと出版社が成立しない。そういった意味で、「ラテン語化」「貴族化」すると思っています。
正直、僕はこの本を書いていてつらかったんです。「お前の職業はどんどんオワコンになっていく」と証明し続けている内容ですから。2022年に『映画を早送りで観る人たち』を出版して多くの反響をいただきました。その後、「ニュースを無料で読む人たち」というテーマで深掘りできないかと、大学生を中心に若者たちにグループインタビューを重ね、生の声に耳を傾けてきました。
>>ラテン語も、歌舞伎もオペラも全滅してはいない。それでいいんじゃあないか?栄枯盛衰は世の常。全てのものがオワコンになる。滅び行くものと一緒に死んで行く・・・それも格好いい。問題は「オワコン(=売れない)は嫌だ、俺はオワコンを捨てて売れるモノを追っかけるんだ」となるかどうかだ。
■非読社会…読むことは合理的じゃない?
――新聞も同様ですが、そうした現実も受け止めつつ、AI時代に「読む」ことがどう変わるのか、考えたいと思います。著書で指摘した「非読社会」とは?
ネットの短文やSNS、動画などが増え、元々読めていた人もその筋肉を使わなくなって衰えていくように長文を読めなくなっている。そんななかで、たとえばマスコミも動画のほうが見られるからどんどん動画にシフトし、長文より短文のほうが読まれるから短くする。そういう設計の中で、長文を読む人のほうがむしろ肩身が狭くなっている。
結果として、「読むことはそんなに合理的じゃない」という空気が、読まない人からだけでなく、メディア側からも発せられている。誰がというより、長い文章を読むことがあまり推奨されなくなった社会を指して「非読社会」と表現しました。
――SNSやネットを通じて、テキストに触れる機会自体は増えているようにも感じます。AIでもテキストに触れることは少なくありません。
あれは「読む」というより、「見る」に近いと思います。
幼稚園の保護者が配布プリントを読めない、大学でゼミ募集の案内を読めない、という話も聞きました。ネットの短文やポストに慣れていると、本のように長い文章の塊みたいなものを与えて「しっかり読んで」と言ったらスイッチを入れて読むけれど、掲示物や案内文のような必要事項が書いてある文章は、文章ではなくサインのように把握してしまう。インフォグラフィックスや箇条書きなど分かりやすい表現に慣れていて、大きな文字だけ見る、隅々まで読まないなど、癖として見落としてしまう。
昔よりずっと文字には触れている。けれど、見てはいるけど読んではいない。
そもそも「読む」の定義を考え直さないといけないのかもしれません。
>>読むという行為以前に、読まれるものは、紙に書かれたものであること。(スマホやPC画面のように数行しか一度に目に入らないことが「読む」ことを阻害している。)紙でなくてもいいかもしれないが、数十行分がいっぺんに見渡せることが「読む」の大前提。そして付箋を貼ったり、書き込みができること・・・これがじじいの読む作法だ。
「読むことはそんなに合理的じゃない」・・・合理的という言葉で誤魔化しているが、売れるか、読まれるかだ。最大の問題はここにあるんじゃあないか?古今東西、書く人、書いた者を提供する人は売れること、読まれることを欲す。
■さび付いたギア 「ながら」の影響も
――「見る」との違いをふまえて「読む」というときには、やはり長文で、解釈する、論理的に理解する、考える、みたいなイメージなのかな、と思いますが。
はい、僕の本でも問題にしているのは長文で、少なくとも数千字以上のものを指しています。長い文章を読むには100字、200字とは違うギアを入れなきゃいけない。でも今は、そのギアがさび付いている。
その一つとして、スマホ時代の「ながら」も大きいと思います。スマホで文字を追いかけているときにテレビやPCがついていたり、音楽が流れていたり、別のことをしながらだったり、僕もだけど集中できていないことが多い。これに慣れてしまうと、文章だけに集中することもしにくい。だから特にスマホで長い論考みたいなものは読みにくい。個人的にも気持ちを切り替えるのが大変で、せめてPCで読むとか、今日はこれから30分は読むぞ!とかしないと、頭に入らないんです。
――改めて「読む」とはどういうことだと思いますか?
読むというのは、膨大な情報を自分の中で再構成することだと思います。
本はすごく緻密(ちみつ)に組み上げられた論理の塊。全部は理解できないかもしれないけれど、知識をただ追加するのではなく、元々ある知識体系と結びつけたり、組み替えたりして、自分の知性そのものを変えていく。
PCで言えば、ハードディスクにファイルを増やすことではなく、CPUそのものをアップグレードするようなこと。それができていなければ、読んでいるのではなく見ているだけ、情報をただ取り込んでいるだけだと思います。
>>読むことは知性の涵養に役立つと。ここは賛同できる。
■インプットは短縮できない「近道はない」
――その「読む」はいま、なぜ必要なのでしょうか。
たとえば、外国人ヘイトで「迷惑だから帰れ」とか、過疎地域で災害が起こったときに「都会に引っ越せばいい」といった意見がSNSでたびたび上がる。けれど、物事はそれほど単純ではなく、そこにある背景を考えるのが知性ではないでしょうか。
自分以外の人がどういう考えをもってこうなったのかを知るには、時間がかかる。書物の形で表されているものも、当事者の語りも、状況をリポートしたものもある。それは3行とか100字、200字では書けない。事情が込み入っているからこそ相応の時間をかける必要がある。ここにはコスパやタイパは適用できない。
>>背景を考えるのが知性であり、その涵養には時間がかかる。
僕の持論ですが、「アウトプットは短縮できるけど、インプットは短縮できない」。自分の何かを文字で表す、動画にする、それこそAIもあるから効率化も短縮化もできると思う。けれど、自分のなかに入れ込む行為は短縮化できないと思います。
>>ここは賛同できない。どういう風にアウトプットするか?その工夫・推敲には非常に時間ががかる。10行の文章を1行に圧縮するには時間がかかる。
だから読書って「筋トレ」だと思う。肉体を作るための努力に近道はない。
今はインスタントにパッと得られる「わかりみ」的な知識ばかり求められていますが、それだけでは筋肉にならない。食事は食べればすぐエネルギーになる。もちろんそれも大事だけれど、でも長期的に見て、どんな場面でも俊敏に動けるようにするには筋肉も必要です。筋トレは「持続的思考力」みたいなもので、知識がないと思考ができないし、知識だけあっても思考する筋肉がなければ単発で終わってしまう。
>>このあたりからこの人の言いたいことが分からなくなる。(朝日風に捻じ曲げられてくる)俺は「読む筋トレ」ってとってもいいコピーだと思うし、大切なものだと思う。ただ、同時に一方で、全員筋トレしなくっちゃいけないの?と思う。筋トレに拘る人、ハマる人と全く筋トレしない人・・・それでいいじゃあないか。それから、俺自身は「思考=人間の生きる価値」と信じているが、思考なんて面倒なことはやめて生きようぜ、という人がどんどん増えているんじゃあないか?そういう人達を俺は「馬鹿」と言い、嘆くが、彼らを抹殺しようとは思わないし、彼らに「筋トレしろ」とも言わない。
――「読む筋トレ」が足りていないと?
本を読む、読まないで言うと、読まない人たちの知識の仕入れ元は食事的なものが多い。ただ、それで生活はできるので、特に「非読社会」においては、別に困らない。社会全体も変わっているので、余計なお世話なのかもしれない。時代に合わせて、読むとは別の能力を得ている部分もあると思うので。
ただ、今後AIの進展によって本当にそれでいいのか、という部分はあります。一問一答的なものは全てAIが代替できてしまうから。
■AIで二極化「書ける人」「書けない人」
――生成AIは非読社会をさらに加速させるのでしょうか?
一概には言えませんが、AIによって二極化は進むと思っています。
実際に若い世代を見ていると、生成AIを使って学習や調査を深める子もいれば、簡単な答えだけを出させる子もいる。
「α世代」と呼ばれる、2010年代以降に生まれた高校生以下のリサーチに関わったことがあるのですが、いまは小学校高学年くらいから生成AIを使い始めるんです。しかもその使い方は二分化していて、学習面ではもちろんですが、たとえば、コスメを買うときに自分の肌質や予算感を入れ、「おすすめの化粧品をこの近くで買える店があるか」を聞く、電子機器を買うときに「スペックと値段のバランスを考えておすすめを三つ教えて」と聞く、といった使い方をしている子がいる。一方で、宿題の写真を送って答えを見るだけの子も。前者はAIによって考える材料を増やし、知性をさらに伸ばしていく。一方で後者は、考えることそのものを放棄してしまう。
これまでは親の経済状況や文化資本による格差が指摘されてきたけれど、AIは基本的に無料でもかなり使える部分が大きい。同じツールを与えられても、得られるものが人によって全く変わってくる。だからこそ、能力格差のようなものが広がる可能性がある。
>>「格差が広がる」ことを肯定する人と否定する人・・・俺は格差結構派だ。朝日その他のリベラルな皆さんは民主と平和の次に平等が好き。格差なんて決してゼロにはならないんだけど。幸か不幸か、この人が「格差ゼロ」派かどうかは分からない。単にこの人の「こうなるだろう」という憶測を述べているに過ぎないから。
それに生成AIはプロンプト主義。良い質問をすると良い答えが返ってくる。だから文章を読める人、問いを立てられる人のほうが圧倒的に有利になります。その意味では、読める人と読めない人、書ける人と書けない人の格差は生成AIによって広がっていくのではないでしょうか。
>>ここも理解不能。良い質問をするのに文章を読める人(=知性のある人)が圧倒的に有利、と決めつけられても飛躍があって、「そうだ」、と素直に賛成しかねる。知性がある人がいい質問をできるんだ、ということには賛成する。一方で、知性がない人にはいい質問ができないのか?・・・分からない。「読める人は書ける人」も理解できる。しからば、読めない人は書けないのか?・・・分からない。
閑話休題:
読める人と読めない人、書ける人と書けない人の格差が広がってもいいじゃん…読めない人は知性の要らない、分野・仕事で能力を発揮すればよい。これが朝日の好きな多様性でしょ。朝日は「これからはこれが流行りますよ。乗り遅れますよ」と脅かして多様性を否定して読者を皆そっちに誘導しようとする。コンサルと同じマッチポンプ。つまり、売れればいいんだ。この記事がこの人の本の宣伝だ。
そう考えると、片一方で、朝日がオワコンの民主主義にこだわるのはいいことだ。そうか、朝日はラテン語、歌舞伎、オペラなんだ。朝日を読むのは結構贅沢なことなんだ。朝日が民主主義と共に滅ぶのを見届けよう。朝日がある日突然「民主主義はオワコンです」なんて言い出さないことを望む。
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