教育のジェンダー平等って俺にも理解・賛同できるが・・・
ニューズウィーク日本版に
男女別学は時代遅れか?―イスラームを通して教育のジェンダー平等を考えると題して小野仁美(神戸市外国語大学客員研究員)が以下:
共学化は「ジェンダー平等」の名のもとに語られる。しかし、教育におけるジェンダー平等とは何か。そもそも、何をもってその実現が可能となるのか。
この問いを考えるうえで、イスラーム諸国の男女別学と共学のあり方は重要な視点を与えてくれる。(略)
イランでは、1979年の革命後にイスラーム化政策が進められ、小学校から高校までは完全に男女別学、大学のみが共学になっている。それでも女性の大学進学率は男性を上回るほどで、理系分野に進む女性が多い。
女性には女医が必要となり、女子校には女性教員が必要といったイスラームの教えにもとづいた社会的背景もあり、専門職に就く女性が多いのだ。
一方で、トルコでは1923年の建国以来、政教分離が掲げられ、男女平等と近代的市民の育成の理念のもとに、学校は基本的には共学とされている。ただし、形式としては共学であっても、教育現場でジェンダー平等が自動的に実現するわけではない。
男子には積極性やリーダーシップが期待され、女子には従順さや礼儀正しさを求める空気が残れば、性別役割規範が再生産されてしまう。つまり、共学か別学かという制度の形だけでは、教育の平等は測ることはできない。
(略)
すでに日本では、男女が等しく教育を受ける権利については、異論はない。だが、教育現場でジェンダー問題に正面から向き合っている学校がどれくらいあるだろうか。共学化は進んだものの、そこで男性がリーダーで女性が補佐といった慣習が温存されるのであれば、意味はない。(略)
必要なのは、どのような学校制度が、生徒一人ひとりの学びと選択を広げるのかを問い続けることではないだろうか。男女別学と共学をめぐる議論は、私たち自身の教育のあり方を見直すための鏡でもある。
>>タイトルからしてガチガチのベンダー平等論かな?と身構えたが、以下の通り、俺でも理解・賛同できるごく当たり前の話。力が抜けたのは、こんな普遍的なことは、別段イスラム教の国や埼玉の男女共学論争なんてものとは無関係に、当たり前に理解できるだろう、ということ。特に最後の「一人ひとりの学びと選択を広げる」のくだりは、別に教育だけでなく、人間が生きて行く上でごくごく当たり前の「自由」のこと。こんなことを否定するのはジェンダー不平等以前の、人間が生きることの否定だ。
男子には積極性やリーダーシップが期待され、女子には従順さや礼儀正しさを求める空気が残れば、性別役割規範が再生産されてしまう。つまり、共学か別学かという制度の形だけでは、教育の平等は測ることはできない。
共学化は進んだものの、そこで男性がリーダーで女性が補佐といった慣習が温存されるのであれば、意味はない。
必要なのは、どのような学校制度が、生徒一人ひとりの学びと選択を広げるのかを問い続けることではないだろうか。
>>理解できないのは、こんな当たり前のことが、学校・教育関係者の間では当たり前でないのか?ということだ。だとすれば「ヤバイネーッ」だ。それとも、筆者は、男女別学論者かな?
イランのくだりは、高橋和夫先生の、「イランは教育が進んでいて科学技術が発達してるから、アメリカにも簡単に屈しない。ただし、戦争が収まれば教育レベルの高い若者がイランの政治に不満を抱いくようになって不安定化する」というお話と平仄が合う。
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