與那覇潤の語る「日本の起源」

 與那覇潤が東島誠と対談した「日本の起源」、面白く読んだ。3.11が起こり、民主党が政権を失った直後の対談。「やっぱり、日本には二大政党制なんて無理だ」という與那覇の失望感が伝わってくる。『起源』と言っても、始まりのことではない。「”日本らしさ”がいつ頃どんな事情で成立したのか?」を二人で詮索する話であり、日本人論だ。

面白いのは「日本人の心のふるさと」が存在し得たのは鎖国時代と1970,80年代だけだ、という指摘。支えられるべき人口と経済力がバランスしていて安定してた、ということらしい。

俺は1970,80年代、10代後半から30代だった。いわば青春時代だ。誰にとっても青春時代を送った時期は眩しく懐かしく思い出すものだ、と思ってきたが、実は俺の世代の青春時代は日本にとっても特別に恵まれた20年間だったのか???確かに日本の将来について暗いイメージはなかった。それまで通り、成長して豊かになるだろう、と夢想していた。そんな幸せな時代は例外なんだそうだ。

結局、「何故日本人は天皇に還るの?」の答えは分かったような分からないような・・・

以下、與那覇の発言を中心に抜粋:

摂関政治の末期に、実に25年間にわたって関白左大臣、右大臣、内大臣、権代納言と、公卿のトップが入れ代わらなかったときがありました。何が問題かと言うと、この間、天皇は、御一条、御朱雀、御冷泉と変わるわけですね。この時代の天皇は若死にが多かったせいもありますが、天皇は世代交代するけれど、大臣たちは変わらない。だとすると、もうほとんど象徴天皇制ですよね。天皇は「虚器」であって実権を持った君主ではない。天皇が「空虚な中心」と言われることの起源はそこまで遡るかもしれないと。一方で、役職についていた貴族の面子がずっと変わらないのは。まだイエ制度が生まれていないので、隠居しなかったからだ、という理解でよいのでしょうか?

>>すでに天皇家や藤原家はあった。しかし、長男が全てを相続するというイエ制度はなかった。そして天皇は自身で後継を決めることができなかった。逆に言えば、まだ余分な土地があって、パイ(領土)が大きくなったから、次男以降の領土が増える可能性があった。(後年、領土拡大が望めなくなると、たくさんの兄弟に領土を小分けしたら、全員小さく弱くなってしまうから長男独り占めに換えざるを得なかった)

摂関政治とは、藤原氏としては自分の娘が生んだ子を天皇にしたいから、なるだけ天皇を世代交代させずに、兄弟の間で皇位を回させる。そうして、同世代の天皇たちはバタバタ死んで入れ替わっても外戚である藤原家の方は、寿命の続く限り、何時までも権力者であり続ける、と言う仕組みだったんですね。だとすると、隠居というものは天皇家にとって、一つの知恵ですよね。母方の親戚(藤原氏)とは関係なく、父から子へと継承されていく家長の地位こそが重要なのだというラディカルな発想の転換のもとに、「死ぬ前に息子に譲位しちゃって、ただし実権は確保する」という手法の発明だった。その知恵の最初のピークが院政期ということになるでしょうね。摂関家スパイラルからある程度自由になって特定の血筋との婚姻から解放されると、不思議と言うか当然というか、比較的長寿命の天皇が出てくるんですね。でもって退位して太上天皇となってのちも、「治天の君」の地位を確保した状態で権力を握るというのは、おっしゃる通り発明だったでしょうね。権力の源泉が家父長権にあるというのは、まさにイエの問題です。

>>院政は天皇が死ぬ前に家長を後継に選ぶ(=藤原氏に選ばせない)ためのものだった。イエ制度の始まり。

道鏡や吉備真備のような「天皇のお気に入りで、いつもお側にいるから偉い人」のポストが、子孫に世襲されていくだけと言う感じがする。だから科挙が入ってこなかったのかもしれない。唐に倣って律令による国家を作り官僚制を導入したけれど法や機構・制度と言った、ヴェーバーの言う所のインパーソナル(非人格的)な支配と言うのは、どうも日本社会では動かしづらいところがあって、君主によるパーソナル(人格的)な支配は残さざるを得なかった。

近代社会を生きる我々としては法令(当時は律令)の定めによってこれこれの権限を与えられているという形で、誰にどこまで権力があるのかが明示されているのが、公的機構だと思っている。しかしそうではなく、「俺とお前の仲じゃあないか」というプライベートな紐帯が権力の源泉で、そういう人脈関係が切れるところでおのずと権力の適用範囲もきれるのだ、と。ヴェーバーの中国論である「儒教と道教」では「人間関係優先主義」と呼ばれるもので、今日の中国研究に言う、法治社会ならぬ、「人知社会」ですが。そのパーソナルな関係を強化する一番確実な方法は何かと言えば、それこそ「俺とお前の仲じゃないか」、つまりは男色関係ということになる。院政期の貴族社会を理解するには、男色を抜きにしては考えられない。

>>一神教国は「神」が支配者も支配の根拠(=法)も決める。中国では「天」が”徳”をものさしに、支配者も支配の根拠(=法)も決める。日本では日本特有の人間関係という本音の上に中国から輸入した法(律令)という建前をかぶせた。

令外官(りょうげかん)にしても、律令自体を新時代に合わせて書き換えるのではなく、外側に新しいものを作って切り抜けようとする。温泉旅館形式と言いますか、萎びた本館を建替えずににわか作りの「新館」「別館」ばかりが次々できる。

日本史においては制度を作り変えることで時代に適応するのでなく、人脈の力で動かせる部分をアドホックに作って対応する。律令制で行き詰まったら令外官を作る。

本当にそれで従ってくれるかどうかはおくとしても、従わざるを得ない雰囲気を持った文書が出せるような統治技術の習熟が必要になってくる。それは重要ですね、中島敦の「文字禍」の世界ではないですが、文字と言うものにあたかも霊力があるかのように、文書を握って操れる人間だけが同時に政治的な権力をもコントロールできる。

>>ここは「日本人は文書軽視主義」と考える俺とは違う。少なくとも契約と法律に関しては読む人は少ないし、読まなくても99%困らない・・・下々では・・・役人の作る訳の分からぬ文書は、残りの1%のいざという時、力を発揮するよう慎重に考えて作文した結果か?

天皇さえ最初は有力豪族の輪番制だったとみられる通り、人間が権力集中を嫌うことの表れかもしれない。いきなり一人が全部独占すると反発が来るので、二人で分掌して相互に牽制しているから大丈夫ですよというかたちでごまかして、だましだまし統合しつつ最後は片方を切り捨てる。そういうタイプのバッファー機能もあるように思います。中国であれば儒教の理念と科挙の競争原理で徹底的なアカウンタビリティを構築しているから、皇帝単独支配でも問題ないのですが、日本ではそうはいきません。「なぜ武家政権ができても天皇家は滅ぼされないのか」という定番の疑問も同様の角度から考えられるのではないでしょうか。いわば天皇そのものがずっと日本の社会制度の中でバッファー状態になっていると。

>>なのに、なぜ、日本ではアカウンタビリティなんて言い出したんだろう。なぜ?と説明できないことを基点にしてるのに、説明責任て。逆に言えば説明できることを基点としたって日本人はろくなことはできない。天皇が滅ぼされないのも説明不可能だ、とあきらめるか?

イエ制度の根幹にあるのは、自分はやがて消えるけれども、自分が属するイエが世代を超えて続いて行くことに価値を見出す。柳田国男が「家永続の願い」と呼んだ発想です。しかし、それは古代から日本にあったわけではなく、中世への過渡期において途中から作り出されたということになりますね。中世の武家のイエでも、はじめは分割相続だったのが長子単独相続になって行く、というのはおなじみの議論ですね。

イスラーム圏でも、自分が王様になったら兄弟を皆殺しにするといった話があると言われていますね。中国だと、皇帝は別でしょうが、一般庶民は兄弟均等に財産を分けてそれぞれに競争させて、一番成功したやつにみんな頼れよ、という生き方です。これに対して江戸時代あたりの日本で確立された長男が直系で家督を継いで財産を丸どりし、それに従うことを最初から次男三男も納得しているというのは、かなり不思議な環境だとも見えるのですね。その違いが何に起因するかと言ったら、社会に無限のフロンティアが見えているのか、見えていないのかの違いではないでしょうか。まさしく江戸時代のように長期安定社会で全体の富はこれ以上拡大しないと思ったら、後継者はひとりに決めざるを得ない。

>>本郷和人「天皇はなぜ万世一系か」に”インドのハヌマンラングール”という猿は、新しいボスが先代のボスの血を引く子猿を皆殺しにする、という話しが紹介されている。中国人はこれに近い。やっぱり日本は土地が貧弱だから無限のフロンティアは頭に浮かびにくい。これがアメリカ人との最大の違いではないか?これ以上地球上を西に行ってもフロンティアはなさそうだ、と悟ったアメリカ人は宇宙を目指す。日本人は、逆にこれ以上拡大するのはやめようぜ、と別の道を行くってのはどうかね?アメリカ人の後を追いかけて宇宙に出て行くべきかね?ちんまりと不拡大・・・正しく鎖国の思想。

歴史的に見ると日本をひとつに統合するのは無理だという感覚がまずある。古代の、いわゆる大化の改新のときに東国国司を派遣して以来、ずっと東国をどうするかという問題がありました。

武士で軍隊を作るには、主従的、つまり主人と従者のパーソナルな関係によって組織すればよい。では農民で軍隊を作るには?それにはインパーソナルなしくみ、つまり制度によって徴兵して訓練するしかないわけです。その制度とは戸籍です。

北条氏は主従制の頂点に立てない。(血統重視の社会であるため将軍にはなれない)からこそ、統治権の分野(御家人の合議に基づく執権政治)で活躍したわけです。>>アメリカで生まれてないから大統領になれないイーロンマスクやピーターティールとの類似

日本や中国の場合、いかに統治権力的支配といっても、どこかで人格的なものが入ってきてしまうのではないか。徳治による裁定とはまさにその典型で時の高い天皇や皇帝だからこそ、その裁きに正統性が生まれるという理屈になる。「あの人のお裁きだから」判決を受け容れるのであって、別の人ではだめと言うのでは結局、法ではなく人に従っていることになる。

今も日本人にはどこか、法で守ってもらえるのは「どうせ一部の有力者の既得権のみだ」と思っている節があります。まあ実際「安堵」というのは既得権そのものだし、そもそも西欧でも法の支配はそこにルーツがあります。ところが、日本の場合、そういう既得権や既存の法令の積み重ねを超越して「法外」なかたちで普遍的な正義を執行してくれる救済者を待望するところがあって、戦前の天皇幻想もその表れですよね。

>>だから、日本では「法治」は成り立たない。法治は「法は(便宜上の)絶対神の代わり」と信じられて成り立つ。

「江湖」とは、唐代の禅僧が江西の馬祖道一と湖南の石頭希遷と言う二人の師のあいだを往来して学んだことにちなむ言葉です。14世紀、16世紀、19世紀後半はいずれも変革期にあたり、戦争による人と物質の往来が盛んな時代です。社会は流動化し、14世紀と16世紀の流行した下剋上の語がそうであるように、強固な身分秩序ですらも、才覚次第でリセット可能でした。可能性に富むと言いますかまさに柔らかい粘度のように、何とでもなる時代です。その時代を象徴するがごとく、「江湖」は、それまでの日本にはない自由で「開かれた」社会を指す新しい思潮として歴史上、3度のせり上がりを見せます。しかしいずれの場合も、社会変革は未完のまま退潮していくわけです。この言葉が最初に流行したのは14世紀(南北時代)の禅林においてです。次いで16世紀(戦国時代)には、地域を超え共同体から自由に「処々方々を歩き回る」ことで生計を立てる新興の移動民が「江湖散人」と呼ばれました。江湖の三度目の浮上は、19世紀後半(幕末~明治)であり、「江湖」をその名に冠する新聞や文藝・政治雑誌が相次いで創刊。

>>1333年、鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、討幕に貢献した足利尊氏を裏切って南朝を始める。天皇史上最高の嘘つき、あるいは妄想の持ち主(トランプみたいな)。本能寺の変に乗じて天下を統一し、部落民出身とも言われる卑しい身分から1585年に関白まで上り詰めた豊臣秀吉。外圧を利用し天皇を祀り上げて1867年江戸幕府に大政奉還をさせた明治維新。日本人が例外的に「自分の頭で考え」、好戦的・実力主義になった時期。いずれも「社会変革は未完」に終わる・・・実権のない天皇を担ぐ体制は維持されてきた。

放っておけば「俺の基準ではこうだ」「いや、それはお前の価値観に過ぎない。正しくはこうだ」と永遠に論争が続くのを、これが「第三者」の裁定だから従いなさいという形で調停しないと秩序が生まれない。だから神様が必要とされるという議論。西洋的な近代化の場合は神様をクビにして政治的な判断の場合は「法」を、経済的な価値づけの場合は「貨幣」を、その第三者の地位に載せて行くと。いずれにしても、確固たる第三者がどこかにいる、というふうに少なくとも観念はされている。しかし日本の場合はもともと第三者がいるのかいないのか分からない気がします。強いて言えば、「みんな」ですね。でも、みんなで傘状にサインしたから連判状ができただけで、みんなが別様の振る舞いをすれば、そもそもそんなものは成立しなかったことを「みんな」が知っている。空虚な中心とはそういうものではないか?とはいえ傘連判状は起請文の形式をとっていて、罰文、つまり破ったら神罰を受けることが明記されていますから、「みんな」の外部に第三者は一応想定されているはずですね。ただし唯一神ではない。

>>日本に唯一神はいない。「みんな」一人一人それぞれ神を抱えている。それを分かっているから他人の神様に忖度し、遠慮もする。唯一神がいれば、人間同士は忖度なしに、言いたいことを言い、したいことをする。(子供の喧嘩)・・・法や金が唯一神の代わりになる。遠慮なく、A winner takes all.となる。 

山賊は「山落」と言われたように、まず狙った相手の所有物を地面に落すわけです。地面に落ちたものはもはや「あなたのモノ」ではないし、「誰のモノ」でもない。「誰のモノ」でもないものはすなわち「神のモノ」であり、従って山の民である山賊が取ることができる、というわけです。「第三者がいないから空虚」なのではなく、「特定の個人に帰さない状態を作り出してくれるから空虚」なのですね。ちょっとブラックホールのようです。

>>所有権も責任も独り占めしない。「誰のものでもない」。先の大戦における日本の戦争遂行体制は正しく「責任者不在」。「金は天下の回り物」も同根か。

ちなみに「みんなの党」の「みんな」というのは一人称と思いきや、実は二人称なんですね。英称がyour  partyですから。「こんな風になってしまったのはみんなのせいだ」というときの「みんな」ですね。だから、「みんな」と言う言い方は責任を他人になすりつけてはいるけど、山賊の話のように人称が滅却されているわけではない。

>>「だって、みんなそうしてるんだもん」「みんなで渡れば怖くない」・・・「みんな」が免罪符=神になる。

古代でも、唐朝成立(618年)の衝撃があったからこそ大化の改新(645年)が起きて、最後は朝鮮半島を巡って白村江の戦い(663年)にまで至るように、中国大陸と日本列島の動乱はいつもリンクしていると見るべきではないか。近現代に入っても同様で、たとえば朝鮮戦争が起きると日本でも共産党が暴力革命に走って革命しようとするわけです。勝ち目があるわけじゃあない。と後から見たら絶対思うのですが、それでも半島で金日成同志が民族統一のために戦っているのであれば、日本でも米帝に対する革命を起こして支援しなければ、という話しになる。

幕府が今の支配を「継承」させようと考えると、将軍が将軍である理由が必要になってくるわけです。戦国時代は戦争に勝って強さを示すことで天下人になることができました。ところが平和な時代になると、そうはいかない。そういう時代において何が正統性を証明し得るかというと、取りあえず血統しかない。

一方、継承できないことがわかると今度は政治の中身で勝負しようとする人間が現れるのも歴史のおもしろいところです。鎌倉時代の北条家がその典型です。科挙を実施していない、すなわち政権が道徳主義ないし能力主義でアカウンタビリティを作り出せない体制だから、日本社会の権力構造はどこかすっきりしない。「一番実力あるやつがトップ、文句あるか」ではなく、「血統的にトップになれないからこそ、実力で勝負」という形になる。

>>鎌倉時代までは血統が正統性を担保した。14世紀、血統で言えば最上の後醍醐天皇は嘘をつき、裏切りもして武士に対抗したが、長持ちしなかった。後醍醐は鎌倉幕府もぶっ潰したが、天皇をトップとする血統信仰もぶっ潰した・・・武士から見れば天皇は「担ぐふりをして利用する」ものに成り下がった。

軍隊組織がきちんと官僚制に徹するのであれば左遷や更迭があろうと「現在の上官のポジション」から発せられる命令に従うのが軍人だとなるはずなのに、組織の内部に私的な主従関係が残っていた。それが統制派と皇道派の血みどろの争いを呼んで下剋上の気風が蔓延した結果、最後は自滅して行く。

>>建前の官僚制+本音の私的な主従関係=テロ・下剋上・自滅・・・官僚制なんて日本人には不向き。

江戸時代の場合は、身分制でイエごとに家職が割り当てられているからそれさえしっかり勤めていれば「食える」ことが前提なわけです。だから、困窮者の面倒を見るのは何よりもまず家だという話しになるし、実際に人返し令を発して都市移住者を「家」のある農村へ戻そうとする。家に関わりなく、人は「個人」として救われるべきだという発想は、そこからは出てこない。今も、日本の福祉行政は「雇用の維持」に重きを置いていて、正社員のサラリーマンが「家職」を失わないようにと言う配慮はしてくれるけど、そもそも家や職がない人に対して、直接給付で支援するという発想は乏しい。生活保護バッシングもつねに「国に頼る前に家族に頼れ」「なんで働いてない奴がもらうんだ」というロジックを取る。要するに憲法の社会権なんて幻想で、いまも家職制で福祉国家が運営されている。

>>正社員にするって、会社というムラに入れてあげ、イエを構えることを許すということ。村八分にされずムラに居続け、みんなと同じように働くフリをしてイエを守れば、食いっぱぐれはない。会社は納税や福祉・秩序維持などを国から請け負った・・・村請制。史上例外的に幸せだった1970,80年代の日本の会社はそうだった。非正規社員=被生活保護者。非正規社員・被生活保護者は自分からムラを拒絶した、と見なされる。

自分がホームレス支援団体に所属している旨を名乗ったら「口元をにやりと緩めた世話方の人があった。あのような人々(ホームレス)と今の私たちの置かれた状況とは全く違う、自己責任と天災で家を失ったのは別もの。

「人別帳外」の人、つまりは「まっとうな人」にカウントされない人々。それは被差別民だけではありません。カウントされない最たるものは天皇です。システムの上方に排除された天皇と下方に排除された被差別民というものがリンクしているというのが、「無縁・公界・楽」の基本的なテーゼです。天皇制は何故続いたのかと言う疑問に対する回答として、天皇制を支えたのは非農業民であったと。農業民を中心とする均質的なイメージの人間集団を安定した中間層として社会秩序の中核部分に創出して行く過程で、その上方と下方に「特殊」とされる身分が括り出されている。江戸時代の本質が良く見えてきますね。戦後日本の「一億総中流」神話が、半ば実態として分厚い中間層を作り出すと同時に、半面では周辺部に存在した格差や貧困にスティグマを押し付けて行くような、ある種のコンフォーミズム(集団同調主義、画一主義)として機能したことも相似形でしょう。日本が均質な社会だという幻想と、その裏側としての多様性ファビア(嫌悪症)の風潮も、やはりそこまで遡らないと期限は見えてこないのではないか。

>>天皇も差別されているとは、その通り。だから人権もない。

調べれば調べるほど日本の民衆は結局、「江戸時代」のままで、やっぱり市民社会を担うとか無理なんじゃないかと言う気がしてくる。「悪代官」(岸信介)の首だけすげかえれば終わってしまった安保闘争とは、「よりよいお上」を期待するばかりで自分自身が主権者になる気のない百姓一揆と何も変わらなかった。(「お代官様お願えでございますだ」)被治者根性、ないし「客分意識」ですね。聡明な政府がご飯を食べさせてくれればOKで、国民主権だからこの国の秩序は我々が担う!なんて高尚なことは民衆は考えない。いまでも自分が投票して選んでおきながら「最近の政治家は・・・」と文句ばかり言うように、政治が他人事のほうが楽ちんなわけです。

>>被治者根性、中国人も同じ。ただし、日本人は陰口聞くか、せいぜいデモするだけ。中国人の凄いのは「これじゃあ飯が食えない」となれば、暴動を起こし、政権転覆をはかる。転覆できたのは「徳」があると天が認めたから、となる。だから共産党も戦々恐々だ。

「天皇をひたすら礼賛し、善政を期待する」という亜インテリ御用達のルートがあって、じつはこれが一番動員力が高い。天皇が空虚な中心だという元老クラブ限定の了解事項なんか知らないで、暗唱させられた教育勅語を素朴に信じている一般民衆でも入ってこられる路線だから。だから、大衆化の進展とともに昭和初期にはそちらが二大政党制を駆逐して無産政党の一部も飲み込んで大政翼賛会になった。

>>大正デモクラシーに絶望したのは一部の高級インテリであって、亜インテリ以下の大衆はハナからデモクラシーになんて期待していなかった、ということか。

聖人=為政者を試験で選ぶ科挙に対して日本は血統で選ぶようにした。イエ制度が一般庶民をあまねく覆うのも地域ごとの完結性が高いムラ社会ができるのも江戸時代の家職制と村請制によって作為されたものなのに、それを自然だと思いたがる。

>>村請制とは年貢に関する村全体の連帯責任。ダメや奴も見捨てずに「みんな」から排除しない。一方で、結果が悪かった場合、真因にたどりつけない。真因にたどり着くためには、責任の所在を明らかにするということになる。連帯責任=みんなの責任=無責任

自民党の総務会と言えば、全会一致の慣行を取ることで知られますが、これもまた丸一日だらだら雑談しながら擬似的な全会一致で物事をきめる寄合システムの水脈を引いている。リーダーによる作為ではなく、あたかもおのずから自然と決まった「かのように」村落の意思決定を擬装する技術ですよね。一揆の首謀者を隠すためと言われてきた傘連判状も機能的には同じでしょう。つまり、「自然であるかのように見える秩序を作為して、しかしそれが作為であることは忘れて自然だと思い込む」という、すごくねじれたことを、日本人はやりたがる。

>>リーダーや首謀者だって意思をはっきり口にすることは憚る。「腹芸」で察してもらう。

民主党政権とは理念的には、二大政党による政権交代という「あからさまな作為」を持ち込んで、その系譜を断ち切ろうとした試みだったのでしょうが、劇症アレルギーのような拒否反応が猛烈に起こって、結局弾かれてしまった。「さも自然に見える」と言う点が日本社会の暗黙の掟で、露骨に自然に見えないことをやると嫌われる。これは政党政治以外の問題でも、今日も続いていることだと思います。東日本大震災の被害は津波を始め山とあるのに、原発問題だけがいつまでもクローズアップされるのも、津波と違って原発が「見るからに作為」の産物だからですね。津波は自然だからあきらめのつけようもあるけど、原発だけは作為しなければそもそも存在しなかったのだから絶対許せない、というのが多くの日本人の想いではないでしょうか。だから、「これは天災ではない、人災だ」という言い方がいつも飛び交う。実は両者の境界は曖昧なんです。津波だって「高さ30mの堤防を作っておけば防げた。だから自然災害ではなく人災だ」と言ってしまえば人災となる。近代社会にはもはや純粋な自然などというものは存在しない。われわれが「これは”自然”に起きたことだから仕方ないと見なそう」と人為的に定義したものしか、今日の世界には残っていない。つまり、「自然とされるものも含めてすべては畢竟”作為”だ」というのが西洋近代のコアにある発想なのですが、日本人はそれとは180度逆のことを信じている。助手論文で徂徠学に仮託して以来、丸山が伝えたかったのは、日本人もいい加減「社会の秩序は、作為の産物であるということ」に合意しようよ、と言うメッセージだったと思います。それが、西洋的な社会契約論への憧れにもなっていた。

>>自然と戦い、克服するのが西洋近代。自然を神とし、その言うことに耳を傾け、従うのが日本人(ポリネシア人)。

60年安保は日本人が初めて天皇抜きで、いわば一君ならぬ、「立憲万民」の人民戦線を作り上げた空前絶後の体験だったからその高揚を記念日として残そうとした。しかし安保は収束してしまい、市民派の運動がグダグダになったあたりから、丸山も「天皇には勝てない」と弱気になったと言われます。しかし、70年安保で戦後民主主義なる「欺瞞」の象徴として全共闘に吊るし上げられたショックもあって東大を退官してから書いた「歴史意識の古層」では結局日本人は記紀神話の時代以来まさしく自然そのものというべき「つぎつぎに・なりゆく・いきほひ」に従うことでしか秩序をイメージしない、という諦観を吐露している。
>>自然にも天皇にも頼らず自分の頭で考えた60年安保。70年安保は毛沢東の真似だろう。

いずれにせよ、この「本当は作為なのだけど、一見自然に見せかけることで、社会秩序に対する不満を起こさせず、みんなで共存する仕組み」こそが、権力集中を生み出さない日本社会の起源にあるのだと考えると「中国化する日本」では江戸時代のイエ・ムラ・イネにその原点を求めたのですが、むしろ丸山が言う所の「古層」や古代の豪族連合まで遡れるのかもしれません。日本人論や日本文化批判とはほぼすべて同じことを主張してきたのだと思います。作為ではなく自然のように見えているがゆえに日本人全員が拘束されてしまう何かがあるのだけれど、しかしあまりにも自然すぎるせいで、その正体がわからなくて居心地が悪い。丸山の場合は徂徠学なり、武士道なり、記紀神話なり、手を変え品を変えてその実像に迫ろうとして1980年の「闇斎学と闇斎学派」では「オーソドックスなき正統」としてのアプローチも試みています。「儒教やキリスト教みたいに明文化された教義がないから何が正統性の根源かがつねに曖昧なのだけれど、でも何かはある」ということですね。そういう融通無碍で軟体動物のようにネトネトした社会規範を、ルース。ベネディクトは「恥の文化」と言い、山本七平は「空気の支配」と言い、中根千枝は「場の論理」と言い、土井健郎は「甘えの構造」と言い、河合隼雄は「母性社会」と言い、阿部謹也は「世間の原理」と言った。

>>強い者による独り占めを許さない「談合」。そのために裏では作為が溢れるが表では自然に。

国民の多くは脱原発を望んでいるのに代議士に任せていたら党利党略や業界団体の圧力と言った「不純物」が混じり込んで、原発維持派が勝ってしまうと。だから原発の是非は議会の採決ではなく国民投票で決めようとか、デモで大挙して国会を取り巻いて社会を変えようとかいやむしろデモという祝祭空間のなかにすでにアナーキーかつ自発的な新たな秩序の芽が生まれているとか、さまざまな夢が語られたわけです。しかし、じつはそれらは大正期に一度、すでに問われた問題ではなかったか?「今の議会や内閣が民意を反映しないのは参政権が一部の金持ちに限られているからだ。普通選挙が実現すれば私たちの声は政治に届く」と言う議論はあり得た。その方向に民意を誘導しようとしたのが、吉野作造の民本主義です。これを一般に「大正デモクラシー」と呼ぶわけですが、しかしその輝きが徐々に薄れて行くのが戦前の政治史です。最初は北一輝でさえ同じ路線だったのですね。ところが、男子限定とはいえ、実際に1925年に普通選挙法ができちゃうわけです。それなのに、当初は無産政党がわずか数議席しか取れない。こりゃだめだ、ということで北の場合はクーデターによる国家改造に望みを託す。

>>北一輝の普通選挙に対する絶望を表す笑い話「東郷元帥もそこらの兄ちゃんも同じ一票だ」

ゼネラルストライキで国の経済を全部止めて「今俺たちはひとつになって闘っている」みたいな実感を共有しようにも、その担い手がいない。これが共産主義が失敗した理由だから野坂参三は戦後帰国してまず「天皇制打倒」の要求を緩和した。とにかく亜インテリ以下は全員、民主主義と一君万民の区別がないのだから。天皇幻想を取り込まないと日本では「人民戦線」が組めない。

1930年にできた愛国勤労党という右翼政党は、なんと選挙の方針に「原則として落選主義」を掲げていた。議会で代表されるのは多数の意志であって全体の意志ではなく、さらに人々を心服させる天皇による徳治と異なり、もっぱら権力による威嚇で秩序を維持する仕組みだからそもそも間接民主主義自体が欺瞞だという信念がある。

>>日中とも神様みたいに徳がある人の政治が理想。権力による威嚇、多数の意志でなく、全体が心服する徳に従う。多数は一人一人バラバラの個人が前提。全体は一人一人バラバラととらえず、まとめてひと固まりと考える。

あらゆる民主体制は可能性としてのみすべての民意を公平に糾合しえるのであって現実態となったら、当然どこかで歪められる議論や排除される意見は必ず出てくる。それに対して「いや、あくまで理念としてはパーフェクトな民主政がありえるはずなんだ」というビジョンでわれわれはやっていくしかないのですが、その理想的な秩序イメージの根幹に天皇を置いて思考する人のことを日本では一般に右翼と呼ぶのですね。実際、二大政党の公約を読み比べて合理的に選択するよりも、とにかく陛下の聖徳をお慕い申し上げるという方が有権者にとってはハードルが低かった。少なくとも国会で泥試合を繰り返す政友会や民政党よりは多くの日本人にとって天皇の方が一般意志に近そうに見えたんでしょう。

大澤真幸さんが「第三の審級」などと呼んでいたものが、日本近代史の文脈のなかではなんで天皇に収斂して行くのか?前近代史をやっていれば「第三の審級」に相当するものは、それこそ八百万とありうるということいぶつからざるを得なかった。おそらく天皇以外の信仰がすべて世俗化したのに、天皇にだけ宗教性が残っていた(ないし新たに作り出された)時代が日本の近代だったのでしょう。だから、戦前の間だけ、天皇が第三の審級の独り占めした。

>>しからば戦後日本において第三の審級は?一時マッカーサーだった。マッカーサーなきあとは彼の置き土産、憲法にしようとした人たちはいたが、うまくはいっていない。終身雇用する会社は第三の審級だった時期はあったが終身雇用を捨ててからはダメだ。

ツイッターやニコニコ動画のコメント画面で流れる民意の勢いこそが一般意志だ、と見なしてしまえば天皇やロベスピエールのような「立法者」がいなくてもそれを政治に反映していく仕組みを作れるというアイデア。いわば「君主なき一君万民」の体制をソーシャルメディアで設計できないか?

>>AI独裁は一君万民になるか?

中国共産党もプロレタリア政党というより皇帝専制の継承者で一君ならぬ「一党万民」の体制でしょう。

日本は原理原則なく、なんでも「足して二で割る」なぁなぁ政治の国だというイメージがある一方、なぜか「絶対の真理」のような発想を括弧に入れて、手探りで相互に妥協しながら他者との合意を見出そうというプラグマティズムが根付かない。これが不思議で仕方なかったのですが、どうもその理由が見えてきましたね。プラグマティックな政治には、「あくまでこれは理念で現実とは違うのだけれども・・・」という割り切りが必要です。たとえばアメリカ独立宣言やフランス人権宣言に記された「あるべき姿」に現実のアメリカやヨーロッパはまだ追いついていない、という自覚を持つことですね。

東アジアは中国皇帝にせよ、天皇にせよ、あまりにベタに「一君万民そのもの」な人格が存在してしまう。これではプラグマティズムにならない。「単に理念ではない。現にいる!」と言われてしまうと不敬罪を覚悟しないと反論できない。今の中国で言えば、「人民の党として共産党がすでにある。だから、あらゆる問題は党を通じて解決できる」という公式見解を否定しいたら監獄送りになるのと同じです。だから、議会制に代表される妥協としての政治のほうを理念として掲げてやってゆくことは中国のみならず日本でも難しい。もちろん、日本には古代以来、権力集中がいつも未完成に終わる伝統はあって複数勢力間での妥協が実態として成立することはある、というかむしろそれが常態です。しかしそれは単に、放っておいたら「自然に」そうなったというかたちだから「作為」して自覚的に妥協しての政治で行こうという合意を作ったわけではない。となると、二大政党制という最も日本人の「古層」に反するかたちで政党政治を進展させた、教科書的な意味での大正デモクラシーにも、初めから成算はなかった。

>>俺の仮説:世界中の人間の分類 1.ハワイ~インドネシア・東南アジア~日本にいたる「ポリネシアン」・・・豊かな自然に恵まれた島に住み、自給自足で満足し、のんびりして平和的。自然を神とし、豊作や安寧を自然に託す。(人間のはからいや浅知恵では豊作や安寧は得られない)ただし、外国からの圧力を受けたとき、あるいは自然の恵みが減るかまたは人口が増え過ぎるかしてバランスが崩れると、短期的・例外的に緊張し、好戦的になる。2.その他の人種は自然は克服すべきものであり、地続きの土地に住む他部族と戦った。A winner takes all.が徹底。2ー①キリスト教・ユダヤ教徒:単純に強いからwinnerとなる。敗者は強くなればwinnerになれる。winnerは神に代わって(神同様)やりたい放題するが、もっと強い者が現れて敗者になる。圧倒的に数の多い敗者がwinnerのやりたい放題を規制する方法として憲法や民主主義(多数決・選挙)を編み出した。2-②イスラム教徒:winnerは神に代わって(神同様)敗者に施しを与える2-③:中国人:winnerがwinnerになれたのは、徳があると天が認めたから。徳とは敗者を食わせるという事。winnerに徳がない、となれば徳のある者が革命を起こさせる。

日本が朝鮮半島、やがては中国大陸で向き合ったのは、「儒教化の後進国が先進国を統治する矛盾」だった。

儒教的な徳治主義とは本来、天子をはじめとする治者の側に道徳を求めるもので、だから宋朝以降の科挙制度も「官吏になりたいなら道徳を身につけろ、そうでないやつは知らんけど」という仕組みだった。一般民衆は被治者のままでいるなら、道徳的な修養なんてしなくても放っておいてくれたのです。ところが明治日本の場合は、西洋から輸入した国民皆教育とセットで儒教化しているから、「上から下まで国民みんなが徳を備えて美しい国を作りましょう」という話になって行く。この全員に有徳者であることが要請(強要)される空気が、明治末から広がる閉塞感の源泉だった。

儒教的な天譴論(てんけんろん)は本来治者の側に道徳を求めるものだから、もし天罰が下るなら為政者の不徳に対して下る。ところがそれを「都市化による繁栄と享楽に浮かれていた庶民への警鐘、神罰だ」という人々が大正時代にわらわら湧いてきた。そこから芥川龍之介の「ただぼんやりとした不安」まではあと一歩です。

>>豊かな自然の恵み(=神)を捨てることに対する不安。豊かな自然の恵みをひたすら祈る天皇と自然を克服しようという西洋近代技術とは相いれない。

統制派は「日本だって背伸びすれば総力戦体制を作れる」と考え、皇道派は「いや、日本の国力ではそんな背伸びは無理だ」とした。1928年、皇道派が「統制綱領」を改定して、物質的な資源ではなく「精神要素」の力で一気に包囲殲滅せよ、と書いたのも「総力戦はしない」という前提だった。日本は資源のない国なのだからそもそも総力戦になった時点で負けは見えている。だから長期戦に持ち込ませないためにこそ、死に物狂いで短期決戦でケリをつけろ、という含意でした。しかし皇道派が権力闘争に敗れる一方、ヘゲモニーを握った統制派の方も司令塔の永田鉄山が35年に斬殺されて合理的な計画を立てられる人材がいない。そこにこの「資源より気合いだ」がマニュアルとして引き継がれた結果、本来は「総力戦にさせないためには気合で短期決戦だ」という主旨が「気合いと根性で最後まで総力戦を勝ちぬけ」に変換されてしまった。こうして東条英機のような現状追認しかできないタイプがトップに立つと、資源に補給もなく「皇国精神で頑張れ」だけで場当たり的に前線に兵隊を送り込むから。餓死者(140万人)が戦死者(90万人)を上回るめちゃくちゃなことになる。これに対し、特攻死は実は4千人だった。

>>東条首相誕生の経緯:東条の前任者・近衛首相は中国からの撤兵を東条陸相に断られ、「自ら総辞職し、東久邇内閣へバトンタッチする」と木戸幸一内大臣、天皇に打診するが、木戸から「戦争になったとき皇族に責任を負わせることになり、結果によっては皇室が国民の怨府となる恐れがある」と一蹴され、陸軍内部の管理能力と天皇への忠心から東条が選ばれた、と言われる・・・どうすれば負けると分かっている戦争を回避できるか、ではなく「どうせ負けると分っている戦争を始めるんだから・・・」と諦め、「負けても天皇に傷をつけずに済ますには・・・」と考えるおぞましさ。こんな、無力で空虚な天皇というポジションにこだわり続けるのは何故か?皇祖皇宗(祖先)がそんなに大事か?あるいは、この時点で天皇が殺されることを覚悟して「戦争回避」の聖断をくだすことはできなかったのか?言い方を変えれば、天皇は、国民が何百万人も殺されて「これなら国民も敗戦に反対しないだろう」と判断して”聖断”したのか?

自分が食べるものは自分で作り分をわきまえて大きすぎる夢は見ない。江戸時代の鎖国体制や農本主義的な儒教解釈がエートスはたしかにつつましやかなんですよね。しかし、それは時と場合によっては非常に狂暴になる。絶対に自給自足をして他人に頼らない、妨害するやつは実力排除する、そういう戦略が長期的に不利だというなら一撃で倒してやる、俺が俺自身の信念で生きて行くと言ってるんだから邪魔するな!という。

>>ポリネシア人種は例外的、短期的に狂暴化する。

江戸時代といっても安定していたのは18世紀の100年間くらいでこの期間は全国人口も3000万人くらいで横ばい。つまり、ある程度本当に自給自足できていれば、つつましやかなまま平和でいられる。厳密にはとくに大都市には喰いつめた層が結構いたわけですけど、それも松平定信が手当てしたりしてどうにかごまかせた。しかし19世紀に入ると、再度人口が増加に転じて均衡が破れる。するとヤクザものに煽られて武器の携行や放火を伴う過激な一揆が暴発してこれが維新の混乱を経て自由民権運動末期の「激化事件」まで続く。あれも、博徒や侠客がやってました。つまり「こんなに我慢してつつましくしているのに、それでも食えないってどういうことだ」となった時が怖くて都市部での対外硬派の暴徒化や昭和初期のテロリズムまで、その水脈が流れているように思います。ヤクザ映画で高倉健さんがギリギリ限界まで忍耐を重ねて、それでも許せなくなった瞬間、一気に爆発するじゃあないですか。あれが日本人の「つつましさと裏腹の狂暴さ」だと思います。

中国から撤兵さえすれば対米戦争は回避できた。ところが、海軍が「撤兵しても面子がつぶれるのは陸軍だけだもんね」とヘラヘラしている反面、陸軍は「対米開戦でいいじゃあないかやるのは海軍なんだから」とか思ってる。どちらもあいてにババを引かせようというするのですが、対等だから完全には引かせられなくて決定を先送りするうちに状況がどんどん悪くなってゆく。最後は「お前らは対米戦のためだと言ってウチの予算をさんざんかすめとったじゃないか」という明治以来の貸し借り表を持ち出されたのと、臥薪嘗胆して一般国民みんなに罵倒されるという「確実な損」よりは先行き不明な開戦の方がまだましという理由で海軍が折れて、あっさり破滅した。権力集中を阻むバッファーが豊富なために、絶対権力者を欠く双頭体制や談合政治が常態化している社会はそれが機能しているあいだは和やかに過ごせるのですが、機能しないと本当にどうしようもなくなっていく。戦時体制以前から「一人のトップに全てを担わせる代わりに失敗したらそのトップがきちんと責任を取る」政治体制が確立したことは日本史上で一度もない。

末端には「プチ独裁者」が結構いるのに、国家全体の中枢がいつもバッファーだらけなのは、なんだかんだで平和な時代が長かったということになりそうですね。権力を集中させなくてもそこそこうまく行く状態が前提で、今風に言えば「強いリーダーがいなくても何とかなくなるのが、日本の強み」みたいな話というか、不思議なかたちで根拠なく現状への自信を持っている。

「独裁者はいずれ腐敗する。そうなったら都度取り換えて行こう」というドライな感覚がない。日本人は甘いというか、「みんな仲間なんだから、誰が責任者とかとやかく言うなよ。みんなが対等、みんなの責任でいいじゃん」という感覚だ。「みんなの責任」とは、誰の責任でもないということ・・・つまり、主体が空虚であること、天皇制に回帰して行く。

昭和天皇でさえ自分の責任で主体的に作為して開戦を決めたのではなく「皇祖皇宗の遺訓に従ってやっただけです」ということになる。同じ構造が「あの時は上官の命令で・・・」「だって社会の雰囲気が・・・」という形で社会のあらゆる場所に蔓延しているので、こうなると天皇だけ取り除いたって多分何も変わらない。まさしく中世以来百姓の傘連判状に至るまで、空虚な中心が一貫していたことの遺産です。

空虚であるということは、コンテクストによって取り換えがきくということ。仮に現在の皇室が途絶えるようなことがあっても、別の天皇が登場するんじゃないか?

天皇ではなく平和憲法という理念を君主の地位に置いたって我々はやっていけるのではないか。それが戦後の左翼やリベラルの夢だった。「対日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」という丸山真男の有名な啖呵も、そういうことが言いたかったのかもしれない。

なんでもかんでも「日本精神」の名のもとに無限抱擁してゆく。いまだと、「さまざまな外来文化を巧みに取り込むのが日本の個性だ」という、よく聞く物言いが典型的です。芯のある理念を掲げて融通無碍な人格に対抗するはずだったのが、理念の方も中身がくるくる代わっちゃってはお話にならない。

昭和天皇は敗戦も平和の神である天照大神に戦時中、戦勝を祈るという過ちを犯したことへの神罰ととらえた節があって、だから戦後も一貫して国民よりも神への負い目を感じ続けたようなのですが、その天皇が占領期、カトリックに非常に関心を示したという。

やはり、空虚であるということそれ自体が力なのでしょうね。治天の君として諸権門の上に乗っかてるだけだから武家政権が成立しても、新興勢力が京都に乗り込んできても、決して天皇家はつぶさない。むしろ、「ぼくも担いで利用すればいいや」と考える。薩摩や長州の田舎侍が、「俺たちにもあいつを担いでうまい汁を吸わせろ」と言って作った明治憲法体制がその最終形態だと思っていたのに、アメリカ軍のようば超弩級の化外の民まで、日本にやってきたら天皇を担いでしまった。

東日本大震災は期せずして、天皇は「空虚だからいい」という感覚を多くの日本人に思い出させた。菅直人首相が被災地に行くと評判が悪い。彼には実権があって政治的な問題の当事者だから「支持率を上げる打算で来たんだろう」「そもそもこんなったのもお前が悪いからだ」という反感が先に立つ。ところが、天皇陛下が行くとそういうことは感じない。象徴天皇は「空虚な中心」の最高度の形態だから、本当かなんて誰も分からないけれど、とにかくこの方は一切の私心なく、純粋に国民を哀れんで来てくださった、と感じる。

>>必ず批判・非難される行政実務遂行者(首相)と実務から切り離された無力な天皇。両方とも廃止して”トップレス”って不可能か?自然の恵みが与えてくれるものだけで生存できる頭数の人間しかいなければトップ不要ではないのか??これが「動物としての人間」にとって一番幸せなんじゃないか?

天皇制は衰微しているからこそ、生き残れる王権だった。この点、中国皇帝との決定的な違いですね。圧倒的な富と権威があるからみんなが従うわけではない。毛沢東は紫禁城を博物館にして使ってしまう。対して天皇は幕末の内戦以来、江戸城の焼け跡に天皇家が住んでいて、太平洋戦争後も生き残った。

>>立派な宮殿を作りたがるトランプ大統領と、「お古」の家に住み続ける天皇。

第一次世界大戦でロシア、ドイツ、オーストリアーハンガリーと実権を持った王権は皆崩壊して、昭和天皇は、この皇太子時代のロシア革命のトラウマがあったから戦後も共産革命を真剣に恐れたと言われますね。それが、吉田茂以上に過度のGHQへの譲歩、すなわち対米依存に舵を切らせた。沖縄の事実上の恒久基地化については、たしかにここに起源がある。しかし本来はそこまで恐れる必要はなかった。ロシアのツァーリのように繁栄によって成り立つのではなく、衰微によって維持される王権なのだから。日本国民全体を武装解除するうえでこれ以上に強力なツールがほかにあったか?「天皇の物語」の訴求力に勝てる代替物が見つからない。

>>昭和天皇と吉田との最大の共通点は軍隊(陸軍)嫌いだと思う。再び軍部に支配されるくらいなら、アメリカ軍の方がまし、という。

今でも自民党の政治家から女は生む機械だとか、生活保護受給者はタカリだといった発言が出るのは、「イエという単位でなら、おまえら自給自足できるはずだろ」という発想が根底にあるからでしょう。そして実際にイエが中途半端に強力なせいで、「それなしでやっていける社会を作るべきだ」という意識がいつまでも、日本では広がりを持てずにいる。

>>土地なり権力なり財産なりを獲得してイエを始めた偉大なる祖先を神とし、それを次代につないでゆく・・・血のつながりには関係なくそれが「イエ」だ。逆に言えばイエとは「俺の代では潰したくない」もの。会社や組織も「食わせる力」を維持している限り、イエであり続ける。ITやSNSやAIがイエを破壊する可能性はある。(あるいは「古いイエを破壊し、AIが新しいイエになる」のか?)

1970年の転換は、「日本的なものが終わった」という三島の主張とは逆に、「日本的な状態に戻った」というべきか。高度成長の結果として労働力不足に陥ったために、大企業で臨時工の正社員化が進んで、終身雇用制が定着するのもこの頃です。東芝の例だと60年代初頭は30%強だった臨時従業員が、70年代に入ると1%を切ってほぼ消滅する。本物の江戸時代なら村社会は安定していても都市部では結構カオス的な状況があったのに、もはや都市でも会社というムラに包摂してもらえる国になった。いわば「江戸より江戸時代的な」時代の始まりです。

>>2つの日本。三島の日本:天皇が象徴より実体があった時代の日本。一方で、拡大しないが安定していたポリネシア的な鎖国時代の日本。前者はお上(自然)の恵みだけでは食って行けず、自分の頭で考える必要がある、という例外的な時期、後者はお上(自然)の恵みをありがたくいただいておけば食っていける幸福で平和な(=安定した停滞の)時代。

江戸時代的な、豊富なバッファーによる「安定した停滞」を好む性向は、遡ろうと思えば古代にまで遡れる日本人の原像だから、そう安易には変わりませんよ、ということ。たしかに明治維新で一度、日本人は江戸時代的な停滞をやめたわけですが、そこから「もう一度安心して停滞できる」ようになるために、ものすごい勢いで物語を大量生産して人々を引っ張って、世界大戦や戦時変革から高度成長まで全部やった。その意味では明治維新から1970年代までは日本史上の一大例外期だったのですが、そこまでやっても再びの、安定した停滞に還ってしまう。それが政権交代やデモの一つや二つで変わるはずがない。しかし一方で、もう一つ重要なのは、そのように日本人がつねに回帰しようとする江戸時代的な安定が、持続した期間は必ずしも長くないという事です。徳川幕府自体は1603年にできても、1680年ぐらいまでは中世的な諸要素がごちゃごちゃ残ってる状態だった。逆に1792年にロシア船でラクスマンが来航してからは、鎖国体制もろとも幕府の安定が崩れて行く過程ですから、じつは100年くらいしか「江戸時代らしい江戸時代」はない。

日本史のなかで本当に日本人の心のふるさとを作れたと言える時代は、18世紀の江戸盛期と1970~80年代とを合わせて、せいぜい120年強だけだということになります。残りは常に大変な思いをしながら何かを生み出そうとしている過渡期でしかない。

>>古代から見通せば、日本史は平和で安定しているのが常態で、例外が①6世紀頃天皇が天皇家の世襲となるまで②12世紀、武士(平家)が台頭してきた時期③14世紀、後醍醐が武士に逆らった南北朝時代~16世紀の戦国時代④19世紀の明治維新・・・が、上述の「大変な思いをしながら何かを生み出そうとしている過渡期(変革期)」だ。③の時代に後醍醐が天皇親政を目指して失敗してから天皇は権威を失い、影が薄くなり、足利義満は天皇になろうとしたことが疑われたりする。そこまで落ちた天皇が明治維新で復古するのが不思議と言えば不思議。江戸幕府(家光)が東照宮を伊勢神宮に見立てて天皇に似た権威・正統性を真似たのを逆手にとって、徳川幕府をひっくり返すには天皇を持ち出すのがバズる、と考えたのか???

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