山極寿一さん、惜しい!

日本の風土、支配ではなく自然との融合が未来ひらくと題して 山極寿一さんが朝日に以下:

やまぎわ・じゅいち 1952年生まれ。霊長類学者。京都大学前総長。総合地球環境学研究所所長

3月末にパリへ弾丸出張した。地理学者で思想家のオギュスタン・ベルク博士にインタビューをするためだ。ベルク博士は1969年に初来日されてから、何度も日本を訪問して日本の地理や文化を研究し、十数年にわたる滞在経験がある。その間、日仏会館学長を務め、東北大、北海道大、宮城大などで教壇に立たれた。

 私が所長を務める総合地球環境学研究所では2年前に上廣(うえひろ)環境日本学センターを立ち上げ、日本に根付く環境思想やその実践例を探ってきた。ベルク博士が哲学者・和辻哲郎の「風土」に強い関心を示し、自ら風土学(メゾロジー)を提唱しており、今回は、その内容を詳しく聞きたいと考えた。

 ベルク博士は日本人の自然観を西洋と比べてきた。モンスーン気候の日本は高温多湿で、比較的涼しく乾燥した西洋とは異なる。しかし、風土は自然環境だけに根差すのではなく、自然と社会との関係をコード化してきた歴史が強く関わる。日本人は極度に繊細な心配りによって、例えば和歌のように、その記号学的装置を作り上げ、それを美的な創造物として表現してきたという。和辻が風土とは「単なる自然環境ではなくして人間の精神構造の中に刻みこまれた自己了解の仕方」と見なした理由がここにある。日本の風土には日本人の自然観、社会観、そして世界観が映し出されているのだ。

 その典型が歳時記だ。春夏秋冬と新年の五つの季節からなり、それぞれの季節特有の季語が並んでいる。日本の風土現象の全体認識であるとともに、千数百年にわたって日本人が築き上げてきた一つの美的創造物であるとベルク博士は言う。しかし、近年の気候変動で季語と環境の変化がずれを起こしている。この4月も例年より高い気温によって、すでに初夏のような風景が表れている。海水温の急上昇によって海産物のとれ方に大きな変化が起こっているし、温室栽培などの季節に左右されない農法によって旬の食物という感覚がなくなりつつある。

 ベルク博士が注目したのは西洋と日本の作庭の違いである。幾何学的な模様の整然とした西洋の庭園は、神の視点や支配者の視点を反映している。これに対して日本の庭園は多様で野性的な自然の空間を再現している。西洋の文化は自然を人間の領域から遠ざけ、それを征服し支配することによって人間の用途に従わせてきた。逆に、日本の文化は自然を近づけ、聖なる野性の空間を人間世界に引き込むことによって人工的な都市を浄化させてきた。海も同様で、海水や塩や砂が清らかさのシンボルになっている。その典型が相撲であり、砂で作られた土俵に力士が塩をまくのは清めの儀式であり、相撲が神事であることを物語っている。

 日本の美学は「不完全性」にあるとベルク博士は言う。何か言い表せないもの、「欠落」や「不如意」の美学であり、「わび」や「さび」の観念の根底をなす。表現やメッセージに「余白」や「間」を設け、ある種のすき間やずれを設ける。利休の弟子の古田織部が庭に切り石を持ち込み自然石と組み合わせ、灯籠(とうろう)をななめに置いたり、枯れ木を植木に混ぜたりしたのは不完全性の美を追求したからだそうだ。

 この景観の美学は日本人の行為にも表れている。武道や茶道をはじめ、さまざまな日本人の伝統的な行いには「型」がある。そこでは超越的な指向や合目的性に頼ることなく、自然のように自明であることが求められる。それは主体の個体化と客体の普遍性を同時に問題とする中間状態であり、日本の風土性の特権的なメカニズムが働いているとベルク博士は言う。いわば主客の融合した世界で、西洋の常に主語を優先する世界観とは異なっている。

 明治以降、日本の文化が西洋の文化と接したとき、日本人はデカルトの思惟(しい)を経験していないと言われた。「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉に代表される心身二元論だ。身体は物質と同じ物理と化学の法則に従っているから、その原理を知れば環境と同じように身体もコントロールできる。医学や科学はこの考えのもとに発達し、世界は大きく変わった。身体や意識を持たず、情報だけで世界を解釈し課題解決を図る現代のAIは、デカルトの申し子であると言えるかもしれない。

 しかし、その結果が大規模な環境破壊と気候変動、通信情報機器による社会不安の増大、未知のウイルスやバクテリアによる健康被害だとすれば、西洋近代の思想はどこか間違っていたと考えざるを得ないのではないか。ベルク博士はデカルト的二元論ではなく、日本文化の基調となる、間を認める容中律が未来をひらく糸口になると言う。これは人間中心主義から脱してすべての生物の健全な在り方やつながりを重視する、マルチスピーシーズ人類学やプラネタリーヘルスという考え方に表れている。

 ただ、自然の清らかさを敬い愛してきた日本人が、なぜ公害大国とも言えるほどの環境破壊を許したのかという疑問もベルク博士は提示している。それは、各地で八景とも称される優れた景観さえ維持していれば、経済発展の負の部分に目をつぶるという受け身の発想があったのではないか。今こそ、私たちは日本固有の風土を取り戻すべく、主体的な意思をもって環境保全や社会変革に乗り出すべきではないかと思う。

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ベルク博士の業績、思想は素晴らしい。いいものを紹介してもらった。”容中律”なんて初めて知った。ただ、最後の「主体的な意思をもって」云々は余分と言うか朝日の意を忖度した、博士の考えとは真逆な結論だ。この結論を出したいなら、長々とベルク博士を語る必要はなかった。

容中律は、西洋的な二元論や排中律(任意の命題は真か偽のいずれかであるとする論理)とは異なり、中間や両立を認める論理です。つまり、ある命題に対して「白でも黒でもないが、同時に白でも黒でもある」といった曖昧さや矛盾する要素を内包し、調和させる考え方です。(以上COPILOT)

さて、山極さんの敬愛するベルク博士は、日本人が主体的な意思をもつことは、日本人らしくないと言うと思う。環境破壊も否定しない容中律が未来を切り開くんだから。(言い方を変えれば、環境破壊を生み出した西洋近代思想を否定するために西洋近代思想そのものである、”主体的な意思”を使ってはダメ、ということ)

容中律に徹すれば、「何でもあり」だ。日本の歴史を振り返れば、仏教あり、儒教あり、キリスト教OK、その後キリスト教迫害、資本主義で富国強兵、主体的な意思をもって社会変革に乗り出した結果、帝国主義で中韓を植民地にして、負けると分っている戦争を始めて何百万人の命を失って、やっぱり負けて一転民主主義、国を守るのも忘れて工業化して環境破壊・・・ず~っと「何でもあり」だった。主体的な意思をもって何かしでかしても、碌なことにはならない、というのが日本の歴史だ。自然や外国や偉い人の言う事を素直に聞いてみる、という主体性のなさが日本人なのだ。情ないけれど、自分の頭で考えることができない(=主体的な意思もない)のが、日本人なのだ。

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