吉田孝著「日本の誕生」

推古天皇・聖徳太子は607年小野妹子を遣隋使として派遣したが、この時、妹子が持参した国書に推古天皇のことを「日出づる処の天子」と書いて隋の煬帝を激怒させた。それまで倭の五王は、「倭王」に冊封されることを願ってきたが、推古・聖徳コンビは朝貢はするが、 冊封(隋の皇帝の臣下になる)ことは拒んだ。以降足利義満が民の皇帝から冊封され「日本国王」と称するまで日本は中国から冊封を受けていない。これが後年、例えば本居宣長が日本の独立性を訴える根拠となった・・・小野妹子時代の7世紀初頭、隋は高句麗と戦争状態にあり、隋は倭国が高句麗と組むのを避けたいから倭国のわがままを許したというのが吉田さんの憶測。

大智度論という仏教の法典には日の日出づる処とは東、西は日が没する処というくだりがある。推古・聖徳コンビはこれに影響されたのではないか?

いずれにしても、中国の東、中国から見て日の出る処、ということを意識した日本人が「ひのもと」、日本と言い始めたのではないか?

妹子は派遣されてみずからの姓を答える必要から居地の地名を姓としたらしい。冠位とともに、姓の制度も中国王朝との外交が端緒となった可能性が高い。

乙巳の変の後、皇極は孝徳に譲位したが、大王の継承が、朝廷の群臣の推戴によらず、皇極や中大兄など大王家の意志によって行われた初めてのできごとであった。これ以後は、有力な豪族の意向によって皇位継承が事実上左右されることはあっても、制度的には王権の意志によって、王位継承が行われる。

穢れ意識は肥大化し、蝦夷や南島の人々も穢れた存在と見なすようになり、かつての天皇の徳化を及ぼすべき対象から、穢れに満ちた恐怖の対象へと変貌していった。また、一方に穢れから最も遠い天皇像を生み出すとともに、もう一方に穢れを世襲的に負わされ、差別される人々を制度として生み出して行くことになる。

中国から見れば、「倭」は種族名であったのに対し、「日本」は天皇の王朝名であった。つまり、革命によって次々に変って行く国王朝名の一つであった。ひっくり返されて亡くなるはずの王朝名である「日本」が天皇を核とする国制がたまたま持続したために、対外的な呼称になし崩し的に移行していった。

聖武天皇は大倭(ヤマト)国と書き、日本国とは書かなかった。

古事記では「倭」で一貫し、日本書記は中国を意識して「日本」で通した。一方で、「天皇」は古事記、日本書記両方とも「天皇」である。ここから「天皇」号は7世紀前半に成立していた可能性がある。

元来、ヤマトは大和王朝廷の支配地域の呼び名である。

日本と書いて「ニッポン」あるいは「ニホン」と読むのを音読み、「ヤマト」と読むのを訓読みとした。

閑話休題:

氏姓制度をWikiる。

氏(ウヂ)は一族、家か?

姓(カバネ)は天皇から与えられた(認められた)地位、役職か?

(例えば、足利尊氏は「源朝臣尊氏」と記し、「源」が氏(ウヂ)で、「朝臣」が姓(カバネ)である)。

ヤマト王権においては全体を統合する大王の下で有力豪族たちが(ウヂ)として奉仕し王権を構成した。古代における氏(ウヂ)とはそれを束ねる有力な血縁集団の家系を中心として、その周縁に血縁・非血縁の様々な家が含まれる同族団あるいはその連合体である[1]。この同族団の構成員は(特に中心的な家系において)実際に血縁関係にある場合が多いが例外を含み、また氏内部において身分差を内包する。また、氏の中心的な家系はヤマト王権と何らかの政治的関係を有するのが原則であり、ヤマト王権との関係によってもたらされる政治的権力が氏内部の統制と外部への拡大に重要な意義を持った[1][2]。このため日本古代のウヂは単なる自然発生的な血族集団としての氏族(Clan)とは異なり、ヤマト王権自体と密接に結びついて成立していた政治的集団または政治的組織であるとされている[3][4]。氏の成立が自然発生的なものでなく政治的関係性によるものであることは、氏名がしばしば仕奉すべき職掌を表し(つまりは天皇と氏の間の君臣関係を前提とし)、氏姓が制度的に定まった後も王権側が氏姓を賜与・変更する権能を保持したことにも表れている[5]

氏名(ウジの名前)は地名によるもの(蘇我氏葛城氏吉備氏上毛野氏など)と職掌によるもの(物部氏大伴氏中臣氏など)に大別され、(オミ)、(ムラジ)、(ミヤツコ)などのような姓(カバネ)を帯びた。こうした氏姓(ウヂとカバネ)を持つことはヤマト王権の政事(マツリゴト)に何らかの形で関与していることを示していた[3]

氏姓制度の成立時期は、5 - 6世紀をさかのぼらない。同族のなかの特定の者が、伴造国造百八十部(ももあまりやそのとも)、県主などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ったところに特色がある。各姓は以下のごとくである。

(おみ)
葛城氏平群氏巨勢氏春日氏蘇我氏のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏の名とし、かつては大王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族である。
(むらじ)
大伴氏物部氏中臣氏忌部氏土師氏のように、ヤマト王権での職務を氏の名とし、大王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族である。
伴造(とものみやつこ)
連とも重なり合うが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。弓削氏矢集氏(やずめ)、服部氏犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏や秦氏東漢氏西文氏(かわちのふみ)などの代表的な帰化人達に与えられた氏がある。連、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓を称した。
百八十部(ももあまりやそのとも)
さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)、勝(すくり)などの姓(カバネ)を称した。
国造(くにのみやつこ)
代表的な地方豪族をさし、一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、また在地の部民を率いる地方的伴造の地位にある者もあった。国造には、君(きみ)、直(あたい)の姓が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。
県主(あがたぬし)
これより古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。いずれも地名を氏の名とする。

このように、氏姓制度とは、連―伴造―伴(百八十部)という、大王のもとでヤマト王権を構成し、職務を分掌し世襲する、いわゆる「負名氏」(なおいのうじ)を主体として生まれた。そののち、臣のように、元々は大王とならぶ地位にあった豪族にも及んだ。

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