辻田真佐憲さん、「戦後」の正体 第4回
エネルギー小国の光と影と題して文春7月号(「戦後」の正体)に辻田真佐憲さんが以下:
(1973年に発生した第一次オイルショックに際して)日本は中東政策をアラブ寄りに修正せざるをえなくなった。米国のキッシンジャー国務長官が来日し、「アラブの味方をするのはやめてほしい」と釘を刺したときも、当時の田中角栄首相は譲らなかった。
「日本は石油資源の99%を輸入、その80%を中東から輸入している。もし輸入がストップしたらそれを米国が肩代わりをしてくれますか」――。キッシンジャーが一瞬黙る。すかさず角栄が「そうでしょう」。/そのうえで畳みかけた。「アラブにある程度、歩み寄った対応をせざるを得ない、日本の立場を説明するためアラブ主要国に特使を派遣する準備を進めている」(「その油、米国が回してくれるのか」(田中角栄のふろしき)『日本経済新聞』2018年4月30日)
日本は同年11月、イスラエル軍の占領地からの撤退や、パレスチナ人の正当な権利の承認を求める立場を表明した。さらに翌月には三木武夫副総理を特使として中近東8か国に派遣し、日本の立場の説明に努めた。この結果、日本は「友好国」扱いされ、深刻な石油供給削減の危機をひとまずかわすことができた。戦後日本の数少ない自主的な外交の成果だった。
(略)
その意味で、戦後日本が目覚ましい経済成長を遂げたことは否定できない。当時のひとびとの努力も、軽んじるべきではない。だが、いま必要なのは、「あの時代はよかった」「あの時代を取り戻すべきだ」と過去を懐かしむことではない。その繁栄を可能にした条件と、その裏側にあった犠牲を冷静に見直し、現在であれば何が可能なのかを考えることだ。
これからの日本は、どのエネルギーを使い、何を改め、何を開発し、そこから生じる負担をだれが引き受けるのか。その問いに向き合うためには、戦後のエネルギー史をもう一度見つめ直さなければならない。そのとき何より気をつけるべきなのは、日本全体もまた、かつての“勝利の方程式”に縛られてはならないということだろう。
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戦後日本の数少ない自主的な外交の成果・・・田中角栄がこれをやったのが1973年10月。翌1974年10月には文春が田中金脈問題を取り上げ、12月に田中は首相辞職。1976年2月、アメリカ外交委員会でロッキード社の賄賂問題が取り上げられ、7月には収賄で逮捕される。キッシンジャーをへこませて”自主外交”をした結果がこれだ。俺はアメリカが角栄逮捕の後ろで糸を引いていたと信じる。少なくともそういう事を企んで実行するためにCIAは存在する・・・自分の頭で考えた政治家はアメリカがメディアを使って排除した。(当時の検察も、「角栄を逮捕せよ」というアメリカ側のメッセージはひしひしと感じていたはずだ)
どのエネルギーを使い、何を改め、何を開発し、そこから生じる負担をだれが引き受けるのか。その問いに向き合う・・・俺は日本人にはこれができないと信じる。できるのなら、既にその問いに対する答え・・・「青写真」・・・は出来上がっていてもよい。3.11のあと、この青写真なしに、原発反対、再エネ賛成が語られてきた。そして、この「青写真」を描くには、日本という国では将来、何人の人をどうやって食わすのか?についても「青写真」が描かれていなくてはならない。(そうじゃなけりゃあ、エネルギーの産出も消費も検討のしようがない)
こういう”グランド”な問題について、アメリカは、戦後の日本に考えないで済むように、考えさせないように仕向けて来た。そして日本人もそれに従って来た。これを自主的に考えることができるようになれば、同時に日本人は防衛についても自分の頭で考えるようになるが、そうなったら、一番戸惑うのはアメリカだろう。日本人が自分の頭で考え始めたら、アメリカからの独立=自首防衛=核武装ということに行きつく可能性は高い・・・同時に日本は、中国と近づかざるを得ない。(とアメリカ人は推測するだろう。そしてアメリカは、それを従来通り阻止しようとするのか、それともそれでよしとするのか???)
閑話休題:
自分の頭で考える首相といえば、鳩山一郎を思い出す。(孫の鳩山由紀夫首相も悪いながら自分の頭で考えたことは間違いない。誰もあんな変てこりんで浅はかなことは考えられない)
鳩山一郎をWikiる。鳩山一郎は、アメリカに引きずり降ろされる前に自ら引退した。
(1945年)9月15日付の朝日新聞東京版に、原子爆弾の投下は国際法違反の戦争犯罪であるという内容を含む談話を発表、GHQは朝日新聞に48時間の発行停止を命じた。
鳩山内閣においては、日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な3分の2議席には達しなかった。また、改憲を試みるために小選挙区制中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「ゲリマンダーならぬハトマンダー」と批判され、実現には至らなかった。またエネルギー政策での功績では、原子力基本法を提出、成立させ、のちの原子力発電時代の礎を築いた。
(1956年)鳩山は日ソ共同宣言に署名して帰国した直後に総理・総裁引退の声明を発表。ソ連との国交回復を花道に内閣総辞職し政界の第一線を退いた[16]。
なお、鳩山内閣期の1955年(昭和30年)に、在日米軍の駐留を認める旧日米安保に代わる条約として、在日米軍を撤退させ日本の集団的自衛権を認める「日米相互防衛条約」を検討し、重光葵外相がアメリカに打診したが、国務長官だったジョン・フォスター・ダレスは日本の軍備の不十分さなどから非現実的とこれを一蹴した[19][20]。同席していた岸信介(党幹事長)はこのダレスの対応に大きなショックを受け、安保条約の改正のためには自主防衛努力の姿勢や西側陣営に属することを明確化する必要性があることを痛感、自らの政権でそれを実現していくことになる[19][21]。
鳩山のあとに首相となった石橋湛山はソ連に続いて中国と仲良くしようとしたが、病気のため首相在任期間65日で辞任した。その後の首相は親米の岸となり、以降、田中角栄まで自分の頭で考える首相は現れなかった。
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