嗚呼、マキ上田!

 Number Webにマキ上田(50年前、女子プロレスに大変革を巻き起こした”ビューティペア”の片割れ)に対するインタビュー記事。改めてWikiって分かったことだが、1976年会社員になった俺とビューティペアは社会人同期だったんだ。そして会社員生活のストレスからか、俺は1976年~1977年にかけて結構熱心なビューティペアのファンであった。『かけめぐる青春』というレコードも買った。(だが、すぐ熱が冷めて、1979年の引退試合のことなんて全く知らなかった)一番びっくりしたのはマキ上田って当時ものすごく老けてた、ってこと。ジャッキー佐藤は”おてんばな妹”、マキ上田は”我慢強くて面倒見のいいお姉さん”、という役回りだったから、当然、マキ上田の方が3歳くらい年上で25,6歳だと思っていたが、18,9歳だったんだ。しかし、見え見えながら、この二人を使って起死回生の大博奕を打って勝った「全女」は偉かった…俺も、この”見え見え”が好きでファンになった…そして、インタビューにおけるマキ上田のサッパリとした、けれんみのなさ。素晴らしいと思う。やりたい放題やって早死にしたジャッキー佐藤に比べればストレスのかかる、忍耐のいる人生だったろうが、それが何十年か経てばこういう風に発酵するんだ、彼女の人生の送り方が素晴らしかったんだ、と感心させられる。しかし、酔った客とストリップと間違えている男性客しかいなかった女子プロレスが、どうして1976年に男女を問わない若者に人気のあるスポーツショウに変わったのか?ビューティペアだけではない、大きな時代の変化があったように思うが、分からない。

以下記事の引用:

マキちゃん、ごめんね」恋愛を選んだジャッキー佐藤が、マキ上田に告げた日…ビューティ・ペアはなぜ“電撃解散”したのか? 全女の伝説レスラーがついに告白


「ビューティ・ペア」で一世を風靡した伝説のアイドルレスラー・マキ上田(67歳)。大フィーバーを巻き起こした全女での舞台裏、故・ジャッキー佐藤さん(享年41)への思い、現在の生活までを聞いた。《NumberWebインタビュー全3回の2回目/第3回に続く》

◆◆◆

 ビューティ・ペアは結成からおよそ3年後の1979年2月27日、日本武道館でおこなわれた敗者引退&WWWA世界シングル選手権戦で一騎打ち。挑戦者・マキ上田さんは大敗を喫して、その日限りでリングを去った。

 実は、この“かけぬけた青春”の終幕は、マキさんによって断行された。理由は、ジャッキー佐藤さんの恋愛だった。

 ビューティ解散の真実を、いま赤裸々に明かす――。

マキ上田が感じ始めた“ジャッキーの異変”

マキ 全女に入ってきたときの目標は、「強くなりたい!」だったと思いますけど、結果的には、“その人”を守るために強くなりたかった……んですね、ジャッキーは。

――であれば、淡々と仕事をこなすことだけでつながっていたマキさんとの間に、亀裂が生じますよね。

マキ 選手は基本、年のほとんどは旅(地方巡業)に出てますよね。彼女は旅先で毎回、たくさん10円玉を持って公衆電話から電話をかけてたんですけど、たぶんその相手に、だったんでしょうね。

――70年代後半は移動式電話もテレフォンカードもなく、公衆電話に10円玉を入れて話す時代でしたからね。

マキ 私は逆に、電話をかけに行ったことがないんですよ。親に心配かけるようなこともしてないし、報告することもないから。めっちゃくちゃ我慢強い子で、「電話の一本もかけてこない子」って親があきれてたくらい。自分の意志で東京に出ることを決めたぐらいですからね、早々と親離れしてたんでしょうね。

――高校を1年で中退して、単身で鳥取から上京したほどですからね。ジャッキーさんが変わりつつあったとき、仕事に穴を空けるようなこともありましたか。

マキ あれは、空けようとしてたのかなぁ。相手を追っかけて電車に乗ろうとするところを、会社の人に引き止められて帰ってきたことはありましたね。そのとき、「マキちゃん。ごめんね」って言われたのを、すっごく覚えてるんですよ。ようは、プロレスを捨てて相手のところに行くからねっていう、次の現場には行かないよっていうね。

――看板選手が恋愛に走ると、雇用団体はどのような策を講じるんですか。

マキ 恋愛もうまく進むように仕向けたんじゃないですか。そうじゃないと、(辞められると)困りますから。だから、私のほうが、「それは矛盾してるでしょ。冗談じゃない!」となったわけですよ、全女とジャッキーの両方に対して。「これまで文句を言わずに言うことを聞いてきた私は、どうなるんだ?」とね。ジャッキーは私を蹴って、ようするに、ビューティを蹴ってそっちに行って、(プロレスと恋愛の)両方を手に入れて、ね。

解散を引き延ばされ、全女は大儲けした

――それが引き金となって、マキさんが全女に「ビューティ・ペアを解散したい」と打ち明けたんですか。

マキ そうなりますね。

――引き止められましたか?

マキ 会社的には解散を1年後に延ばして、またその1年間で荒稼ぎしたんですよ。映像を撮ったり、グッズを売ったりして。

――その猶予の1年間で、ジャッキーさんが“改心”する可能性もあったのではないかと思いますが。

マキ ないと思ってました、私は。彼女にとっては、相手がそれ(ビューティ)以上の存在だったんでしょうね。プロレスでもなくビューティでもなく、そっちを選んだんだから。仕事を捨ててそっちを選んでも、潰す権利は私にはないから、行きたいんなら行ってよと。私があきらめればいいだけの話だからって、すっごい太い心で受け止めましたね。ちょうどそのころ、うちの母がガンになってね。まだ30代の後半だったかな、白血病だったんですよ。(山口)百恵ちゃんのドラマ、あったでしょ?

――TBS系ドラマの「赤い疑惑」ですか。

マキ それだと思います。あれとかぶってしまって。そのときは病名を聞かされてなくて、(実母は地元の)鳥取の病院に入院してたんですけど、面倒を見てくれてる叔母さんから会社のほうに電話があって、「入院費をなんとかできないか」と。「それは構わないよ」っていうことで、仕送りをしてたんですけど、血を買うって結構かかるんですよね。そのとき、プロレスでケガをしても、会社が面倒を見てくれるわけじゃないっていう先のことを考えはじめて、ちょうどジャッキーのこともあったので、いろいろ考えてしまった。プロレスはもういいやってなってしまったんですね。18歳ぐらいで、まだ若かったこともあって。

解散から数年…ジャッキー佐藤からかかってきた電話

――その決断に後悔はなく?

マキ そうですね。“かけぬけました”よね。あのときはわかってなかったですけど、もっとわがまま言ってたら、家の一軒は建ってたでしょうね。

――一軒家どころか、マンション一棟は買えたでしょう。

マキ ははは(笑)。

――引退後は芸能界で俳優、歌手として活動されましたが、そのころに、ジャッキーさんと連絡を取っていたんですよね。

マキ 取っていたというか、ジャッキーも(1981年に)全女を辞めてから、電話がかかってきたんですよ。新しい団体をやるっていうんで。

――1986年に旗揚げされたジャパン女子プロレスですね。

マキ それですね。「一緒にやってくれない?」っていう誘いの電話だったんですけど、私からすると、「あんた、なんでビューティが解散したかわかってるの? なに考えてんだよ、こいつ」っていう感情だったけど、そうは言わず、「私はもういまの仕事を見つけてるから、辞めてそっちに行く気はないよ」と。新団体でビューティがそろうと、そりゃあ宣伝効果がありますよね。それを目的で入団する子もいるでしょうし。

「私のプロレスは、全女で終わりだよ」

――当時は全日本女子プロレス興業にクラッシュ・ギャルズがいたので、対抗団体でビューティ・ペアが復活すると、桁違いの話題になったでしょうし。

マキ クラッシュがいたんですか。だったら、そういう狙いもあったんでしょうけど、「私にとってのプロレスは全女だけだよ。全女で終わりだよ」と、そう伝えました。そしたら、もうそれ以上はなにも言ってこなかったですね。で、その電話の何日かあとに、ナンシー(久美)から連絡があったんですよ。私が断ったあと、ナンシーに電話をしたらしく、「どうしましょう」って相談されたんですけど、「私は行けとも行くなとも言えないよ。おまえの人生だから、自分で決めろ」って。最終的には、ジャッキーに押し切られたみたいで、行きましたよね。

――ジャパン女子の動向は、気になりましたか。

マキ いえ。ぜんぜん。新聞か雑誌で、リングの上で(アントニオ)猪木さんが花束を渡してる写真を見ましたけど、それぐらい。もうプロレス自体を見てませんでしたから。辞めて、興味がなくなってしまったので。

ビューティ・ペアが“鳥取のスナックのママ”に…

――その後は地元の鳥取県に戻って、スナックをオープンされましたよね。元トップアイドルが、よくスナックのママのポジションに収まることができたなぁと思ったんですが。

マキ あまり深く考えてない性格なんですよ、私。たしかにね、周りの人はそう思ってくれましたよ、「元ビューティ・ペアだ!」って。けど、私がこういうタイプ(天狗になるジェスチャー)じゃないんで。「私はマキ上田だよ」って、そう過ごしてきたわけじゃないんで、普通の感覚でどこにでも飛び込んでいけた。気にするのは、いつも周りのほうですよね。自分としては、息抜きで店を作ったぐらいですから。そもそも、東京から鳥取なんて1時間もあれば行けちゃうし、1時間で帰れちゃう別荘みたいな感じですかね。

――接客業で人脈も広がったことによって、恋愛に発展する機会も増えたと思いますが。

マキ 鈍いんですよ、私。プロレスのときは、周りが女ばかりですし、そのあとも特別に好きと思う人と出会ってないですね。芸能で、テレビ局やレコーディングスタジオで格好いい人はいましたけど、あこがれとか、そういうのじゃないし。

――夜の世界でも、色恋沙汰はなく?

マキ 自分で言うのも変ですけど、周りの人が勝手に近寄りがたい、手を出せないみたいな感覚を持ってたから、バリアを張られていたんでしょうね。私は普通にしていても、向こう側が一歩引いてたというか。スナックのママというより、ビューティのマキ上田という目で見てる人が多かったから。

――一般人に戻ったとき、“ビューティの呪縛”に苦しめられることはありましたか。

マキ ないですよ。「私はスターだった!」って、過去を引きずる人はとらわれるんでしょうけど、私はそういうタイプじゃないんで。《つづく》

改めてビューティペアをWikiる。

ジャッキー佐藤(ジャッキーさとう、1957年10月30日 - 1999年8月9日)とマキ上田(マキうえだ、1959年3月8日 - )の二人によって1976年2月24日に結成、その日に行われたWWWA世界タッグ王座決定戦で、シルビア・ハックニーソニア・オリアーナペアに勝利し、タイトルを獲得する。ブラック・ペア池下ユミ阿蘇しのぶ)との好勝負は人気を不動のものとした。

またRVCより『かけめぐる青春』でレコードデビューし、試合前のリング上で歌う斬新なスタイルで、女子プロレス界のアイドル的存在となる。このレコードは80万枚を売り上げたという[1]。また、当時人気絶頂だった女性アイドルデュオピンク・レディーと、音楽番組などで度々共演することもあった。しかしレコードを出した当初は鳴かず飛ばず、観客席も閑散としており酔った客とストリップと間違えている男性客しか来ない状態で、全日本女子プロレス(以下「全女」)の経営は破綻寸前であったという[2]

1998年放送の「女子プロレス40年史」によると、人気のブームは突然だったという。沖縄遠征後、池下ユミの地元である福山で試合後にジャッキー佐藤の元に鉢巻を巻いたファンが2~3人現れたのが最初で、その後の千葉公園体育館では会場はほぼ満員、横浜文化体育館で超満員になりブームに火が付いた。これが女子プロレス第一期黄金期でもある。

タッグでの必殺技は、ジャッキーがボディスラムで投げつけた相手にマキがコーナー最上段からダイビング・ボディ・プレスを決める「ビューティ・スペシャル」。

しかし、結成から3年後の1979年2月27日、「敗者は引退する」というルールの元で、王者・ジャッキーに挑戦者・マキが挑むビューティ・ペア同士のWWWA世界シングル王座戦が行われ、マキは敗れ引退、ビューティ・ペアは解散した(詳しくは 後述 「現役時代と引退試合について」)。

エピソード

現役時代と引退試合について

マキによると現役時代は、ジャッキーとビューティ・ペアとしてコンビで活動することはあった。しかし社交的なマキと一匹狼的なジャッキーとは性格的に合わず、仲はあまり良くなかった。そのため試合後などもほとんど会話をすることがなく、プライベートに至っては後述の温泉旅行に行くまでは遊んだりしたことは一度もなかったという。

コンビ結成から3年後、性格による方向性の相違からビューティ・ペアとしての活動に限界を感じたマキは、ジャッキーになんの相談もせず解散することを一人で決めて、全女の社長に直談判した。社長から「それなら最後にお前たち二人で試合をやって、負けた方はプロレスラーを引退すればいい」と条件を提示され、マキはそれを受け入れた。しかしジャッキーはそんな裏事情を知らされないまま突然ビューティ・ペアの解散・女子プロレス引退を懸けた試合をすることになった。一方ではこの試合の1年ほど前にジャッキーは恋愛禁止ルールを破り、地方巡業中でも恋人のために東京へ戻ろうとしたことで、マキは仕事より恋を取ったジャッキーが許せなくなって「ペアを続けられない」と伝えたということもあった[3]。これまでにマキは「ジャッキーに直接怒ったことは一度もなかった」ということだったが、「解散を言い出した私が負けなければならない、とも思っていた」とも後日明かしている[3]

1979年1月4日、全女の後楽園ホール大会で行われたビューティ対決の発表では、マキが「私の持っているもの全てを懸けて挑戦します」と言ったことに対して、ジャッキーが補足する形で敗者引退ルールを明かし、「何で今回に限ってマキちゃんが引退を懸けて挑戦するのか、私にはよくわからない訳ですね」とも語っていた。

試合直後の二人はお互いの控室を訪れることもなく、一言も会話を交わさずに解散した。これについてマキは「引退を懸けた試合に、負けた自分から話しかけるのも変だからという理由で、声をかけづらかった」とのこと。対してジャッキーは「別に永遠に会えなくなるわけじゃないし、お互いそれぞれの道を歩んで、将来一人の人間として大きくなった時に再会したい」と言っていたことを、後にマキは知人を通じて知った。

1986年頃に、ジャッキーが加入した新団体「ジャパン女子プロレス」にジャッキーからマキを勧誘していたが、マキはこれを断っている[3]

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