「原田日記(西園寺公と政局)」第八巻
「原田日記」は最後の元老、西園寺公望のいわば秘書であった原田熊雄が口述した記録。
第八巻は1939年から、大東亜戦争開戦の1年前、1940年12月に西園寺が死亡する直前までが描かれている。西園寺の一番の仕事は、総理大臣人事であった。その西園寺の、「総理大臣にふさわしい人がいない」という嘆きが頻繁に出てくる。言い方を変えれば、維新の頃は人材が豊富だった。人材の質はどんどん落ちて、仕組みは当時のまま…。右翼やら陸軍の佐官たちも総理大臣他の大臣の批判と後継人事に対し口をはさむ。
天皇及び西園寺他の君側の者は、陸軍を持て余していた、というか、「何するか分からない」という恐怖感・不快感を感じていた。だから、大臣人事も”陸軍の機嫌を損ねないように”的な配慮・忖度があった。中国、アメリカといった他国も敵であったが、陸軍も「獅子身中の虫」であり、敵よりもややこしい存在だった。東条英機もそうだが、陸軍を抑えられる人という理由で総理大臣が選ばれる。身内にこんなのがいたのだから、戦争なんかやって勝てるはずもない。みんなそう思ってたのに・・・
何故陸軍は政治に口出しし続け、海軍は515事件以来政治から手を引いたのか?陸軍は元老として晩年まで政治・大臣の人事に口出していた山縣有朋の存在が大きかった。片や海軍は、元老と呼ばれたのは、唯一西郷従道のみ。その、従道も元々は陸軍出身。他に適任者がいなかったから初代の海軍大臣に任命され、海軍スペシャリスト(薩摩出身)の山本権兵衛を抜擢し、山本は日露戦争で成果を上げた。(その山本も1914年、後輩の海軍大臣の言う事を聞いて予備役になった…重鎮・年寄が人事に口出してはいけないという範を示した)
薩長の違いか?陸海軍の違いか?
薩長の違い:薩摩は西郷隆盛が反乱を起こし、大久保が暗殺され、大物がいなくなってしまった。西郷は、自分が起こした明治維新についてこれない手下どもと心中した。長州は木戸 孝允、伊藤博文を失ったが、山縣が元老として生き残った。薩摩の方は、政府に逆らった西郷をどうしても意識し、遠慮せざるを得なかったんじゃあないか。そして心の底では、権力より個人の誠意、手下への思いを取った西郷を誇りにも思っていたんじゃあないか。
海軍の方は、山本権兵衛の影響が大きかったんじゃあないか?この伝統は、最後の海軍大臣である米内光政にも引き継がれた。米内は「ここまで来たら、あとは決定権者の天皇に任すだけ」と、悪く言えばドライに割り切っていた。山本五十六にもそういうドライさ、無責任さがある。「(最終的に勝てるなんてことは言えないけど)1年くらいなら暴れてやらあ」だ。ドライでガバナンスのきいた海軍に対し、陸軍はウェットで母親的。誠実でまじめな部下の思いを利用して国政を壟断するが、最後には上長たる天皇との間に挟まって苦悩する。
戦艦は、上司の命令に従って操縦しないと船長以下全員死ぬ危険がある…海軍はガバナンスが重要。陸軍は隊長でもどさくさ紛れに部下から撃ち殺されるかもしれない。上司部下のかみ合わせが重要。ある意味、平等。
閑話休題:
明治以降の日本人は成功し、成功体験に縛られる歴史。明治維新当時の人材がいれば簡単に回る仕組み・ルールだが、その仕組みのままでは人材がいなくなって途端に回らなくなる。統帥権なんて「そうすれば日本にとってベストなの?」と重鎮たちが話し合って決めれば問題にならない。
高度成長を実現したハングリーで、向こう見ずな人材がいなくなったから新しい成長の仕組みを作らねばならないんだろう。80年前は戦争に負けてご破算にした。今度は何で、どうやってご破算にすればいいのか???
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