土井隆義「子どもたちを集団圧力から解放しよう」

  2013年岩波書店 刊「これからどうする」に以下寄稿(抜粋):

>>俺は1982年生まれの娘が高校生の時、自分がないところが嫌だった。以下を読んで娘がそうなった理由が分かった。高校時代の娘は①「みんなそうしてる」が決まり文句で自分が何をしたい、自分が何を良いと思うか、がなかった。②あらゆる問題は正解があり、その答えを求めて自分で考えることはせず、その答えが入った自動販売機みたいなものがあって、ボタンを押せば正解が出て来ると思っているようだった。俺の若い時代には学校ー会社というレールがあって、俺はそれに乗っかることによって精神的な安心を得、経済的な安定を得ていただけだった。娘が高校生になった1990年代後半、そういったレールや既存の枠組みは破綻し、安心を得るには(一部の”勝ち組”を除いて)「みんなと一緒」しかなかったのだ。その後、就職・結婚を経た娘は安定し、自信があるように見える。(娘なりに「みんなと一緒」を得たのか?それとも「みんなと違ってていい」と開き直ったのか?)今や娘は情報収集は様々なルート、情報源を駆使して行い、自分の頭を使って非常にまともな判断をしているように見える。(俺の願いが通じたのかも)娘は俺のへそ曲がりなDNAを引き継いでいて、「みんなと一緒」には抵抗があったのではないか?中高校時代には周囲の圧(いじめ?)も感じたのではないか?娘はそれを乗り超えた、と思う。

以下抜粋:

1980年代以降、世代間ギャップの縮小と共に、若者たちは共通の敵を見失っていく。それにつれ、いじめも包摂型とでも呼ぶべきものへと変質する、友達同士の閉じた親密な関係の内部で起こるようになり、標的になる生徒に明確な特徴は見られなくなっていく。いつだれでも標的になる可能性があるのは、いじめらっる理由が特定の個人にあるわけではなく、いじめを欲する集団圧力がまず先に存在し、理由は後付けにすぎないからである。

同質的な友達関係の中にいじめが組み込まれるこの傾向は、自由と自己責任を強調する新自由主義の波を日本社会が本格的に被り始めた90年代後半から一気に加速を見せ始める。社会の流動化は人間関係にも波及し、従来の制度的な枠組みに縛られなくなったが、それは同時に人々の不安を掻き立てることにもなった。子供たちの人間関係も同様で、クラスや部活などの枠組みに縛られる比重は減ったが、その代わり、安定した人間関係の基礎をそれらの枠組みに求めることも難しくなった。

既存の枠組みに縛られないという事情は、自分だけでなく相手も同様だ。付き合う相手を自分が選べる自由の増大は、相手から自分が選ばれないかもしれないリスクの増大とセットである。しかも、人間関係の自由度が増した世界で満足に関係を築けなければ、それは人間としての魅力がないからだと判断されやすい。そのため、絶えず関係を保とうと躍起になり、それが一時的にでも切れると、たちまち不安に陥ってしまう。今日の子どもたちが、つねに誰かとつながっていなければ安心できなくなっているのは、このような理由からである。そして、もしそれができないと、価値のない人間だと周囲から見られはしないかと他者の視線におびえ、また自分でも価値のない人間ではないかと不安におののくようになっている。(略)

21世紀に入って社会の流動化が加速し、無縁化に対する人々の不安も強まってきた。いまや日本人の多くが一人でいる人間には価値がないと見なすようになり、孤立することに過剰な不安を抱え込むようになった。そんな風潮の中で、私たちが失ってきたとされる絆の大切さが、いま再び強調されるようになっている。とりわけ近年は、2011年の東日本大震災を経て、その傾向に拍車がかかっている。

人々が互いにつながって助け合える社会は、確かに素晴らしい。しかし、その絆の協調が、異質な者へとつながりの絆を広げていく方向にではなく、親密な相手との関係をさらに濃密かする濃密化する方向に進んでいるとしたらどうだろうか。子どもたちが安心して孤独になれない社会も、それはそれで病理的ではないだろうか。いじめ対策として道徳教育の強化が叫ばれることも多いが、その徳目の一つである「協調性」という言葉こそ、もっとも多用されるいじめの口実であもる。(略)

子どもたちの世界で、何が何でも友達関係を維持しなければならないという強迫観念が強まっており、それが今日のいじめ問題の根底にあるのだとしたら、いじめ対策として有効なのは、彼らを囲い込んで仲良し関係を強要することではなく、クラスや学年、さらには学校の枠も超えた活動の機会を積極的に用意し、身近な仲間にこだわる必要のない現実の体験を彼らに積ませていくことである。彼らのまなざしを異質な世界へ開いていくことこそ、いじめ問題の抜本的な解決へと至る道のはずである。

閑話休題:

この後、日本では「多様性」が言われるようになる。学校ー会社という枠組み以外にもYouTuberなんていう枠外の道が出てきた。ただし、今度は多様性が強迫観念になり、息苦しいものになった。多様性には無理というか矛盾がある。「多様性を認めない」ことも多様性として認めないとならないことだ。

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