渡辺保「歌舞伎の未来」
2013年岩波書店 刊「これからどうする」に以下寄稿(抜粋):
(略)平成中村座の2012年4月の「法界坊」、ことに大詰めの「双表(ふたおもて)」の幕切れであった。故勘三郎の法界坊は、雪のように多量の桜を散らし,早替わりにつぐ早替わりで、最後に奥の壁をあけてスカイ・ツリーまで見せるサービスぶりであった。そして客席は超満員。スタンディング・オベーションの熱狂であった。その熱狂ぶりを見ていて。私はこれは歌舞伎ではなく、演劇でもなく、ただのイベントだと思った。むろん早替わりもけれんも、イベント性も歌舞伎には必要だろう。それが歌舞伎の「型」の一側面であることも事実である。しかしこれはあまりの過剰な濫用であり、そこには人間的な感動が微塵もなかった。勘三郎がここまでしなければならないのか。とすれば勘三郎の優れた才能のムダ遣いだと思い、これでなければ歌舞伎を見ない観客とは一体何だろうと思い、そして最後にこれが歌舞伎ならば私にとって歌舞伎は無縁のものだと思った。この背後にあるのは、大衆情報化社会の、一つの傾向である。見えるものしか、見ない。現実の成果主義、あるいは数字だけが全て、それだけが共有する唯一のものだという社会の構造、そこに今日の社会の顕著な傾向があり、平成中村座の客席はその事実の一端にすぎなかった。しかしそれでいいのだろうか。むろん数字も成果主義も大切だろう。しかしそれは政治や経済の話であって、こと芸術について言えばそれだけが全てではない。見えないものを見る視力ー精神性、集中力知的関心も必要ではないのか。歌舞伎が興行財であるかぎり、この傾向を否定することなどできない。とすれば希望はどこにもない。もしあるとすれば「傾城反魂香」のように、人間の感動の原点に戻ること以外にはない。
>>これは、談志の「売れる落語と面白い(=談志のやりたい)落語が違う」という悩みと全く同じ。談志はこれで煩悶した。政治や経済の世界だって「見えるものしか、見ない」風潮はダメだ。つまり、数字にできる成果だけでは組織は回らない。あるいは物凄く浅薄な組織となる。でも、どうしたらいいか?分からないまま年だけ取る。
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