貴戸理恵「不登校」は社会に問いつづける
2013年岩波書店 刊「これからどうする」に以下寄稿(抜粋):
(略)戦後の日本社会では、開放的で均質な学校教育と、長期雇用のもとで能力開発機会と家族給を提供する日本型雇用が、新卒学卒一斉採用によって結びつくことで、多くの子供・若者に、学校から仕事へのスムーズな移行を保証してきた。それは、学力形成、職業的スキルの獲得、ジョブ・マッチング、雇用保障と言った、子供・若者が社会的存在となるプロセスのほぼすべての事柄を、学校と企業が提供する仕組みだった。
これは逆に言えば、学校と企業に属さない限り、社会的存在になれない仕組みである。不登校やいきこもりは、政府関係文書で「非社会的」と形容された。80年代に不登校経験を持つ人の手記には、「学校に行かない自分は、将来社会に出て行けない」と怯える記述が散見される。(略)若者失業率(15-24歳)は、80年代から90年代初頭まで4~5%を維持していたが、2000年代初頭には10%を超え、諸外国に並んだ。新卒学卒就職率は低下し、「学校から仕事へ」の移行をスムーズに果たすものは減少した。同時に、キャリアの多様性や自由度は増し、個人の主体的選択と「自己責任」が強調された。そうした中、不登校は数あるキャリア形成上の「リスク」のひとつとなりつつある。それは「社会からの逸脱」でも、「社会を問い直す運動の立脚点」でもなく、単に個人が自らのキャリアを考えるうえでここに対処すべきものにすぎない。学校に行かないことはかつてほど強く否定されず、個人の選択と見なされる余地が増えた。だが他方で、不登校後に大学進学や正社員就職の可能性が阻害されても、それは「学校に行かないという選択をした個人の問題」とされる。学校に行ったところで安定した将来は保証されないが、行かないことは不確実性を増大させる。そのような状況のもとで、子供たちは学校を見限りながらも、「では行くのを止めよう」とはならずにいるのだ。
不登校という現象が、日本社会に対して突き付けてきた問いは「学校・企業=社会」が揺らぐ現在において、いっそう大きな意味を帯びている。いま求められているのは、学校でも職場でもない。新たな共同の場の創出だ。
>>俺は上述の、学校と企業に属さない限り、社会的存在になれない仕組みのレールに乗っかって会社に入り、退職した。ただし、その仕組みは20世紀末にはほころびが目立ってきた。受験も会社員もバカバカしいと思ったが、結局全うした。不登校になる勇気?がなかった。
受験勉強は暗記するだけだった。テスト前に無理矢理頭に詰め込んでテストが終わると吐き出した。これは2年間続けて嫌になり、やめた。暗記はやめたが受験はした。
会社員生活も「こんなバカな会社辞めてやる!」と一再ならず思ったが、上司先輩、のちには部下後輩の顔を思い浮かべて会社を辞めることはしなかった。
受験も会社も「バカバカしいからやめようかな」と思ったが、最後まで続けたのだ。
学校でも職場でもない新たな共同の場・・・ネットはそれを提供するか?そしてネットなくしては社会的存在になれなくなった。(俺にはついて行けない)
コメント
コメントを投稿