「今の平和は、尊い犠牲のおかげ」 決まり文句を憂う元特攻兵

朝日新聞デジタルに以下の記事: 

多くの犠牲者を出したアジア・太平洋戦争。追悼の場では「尊い犠牲の上に、平和な日本がある」というフレーズが使われ続けている。戦争を起こした責任が忘れられていないか――。軍国少年だった男性は憂慮している。

 終戦の日の15日、テレビでは日本武道館での全国戦没者追悼式で式辞を述べる岸田文雄首相の姿が流されていた。「今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれた」

 福岡県田川市の看板絵師、篠原光雄さん(95)は思った。「またか」。尊い犠牲の上に、今の平和がある――。「国が戦没者を追悼するのは当然。だけど、なぜありきたりの言葉しか言えないのだろうか」

 篠原さんは元特攻兵だ。1944年7月、15歳でパイロットを養成する海軍飛行予科練習生(予科練)となり、45年2月に広島県大竹市に送られた。割り当てられた役目は、特殊潜航艇「蛟竜(こうりゅう)」の乗組員。事実上の特攻兵器の一つだ。

 でも、肝心の蛟竜が足りず、訓練で1度乗っただけで終戦。故郷の福岡市に帰り、戦後が始まった。(後略)

>>記事には、「国のために死んでこい、という社会にならないために」という言葉もある。この記事を書いた人はロシアに攻められて戦争するウクライナのことは支持しているのか、いないのか?ゼレンスキー大統領は「ウクライナの為に死ぬのを恐れないで戦ってくれ(=国の為に死ぬリスクを負ってくれ)」と言っているが、どう考えるのか?日本は自衛のためならつまり、ウクライナみたいに他国から攻められたら、攻め返していい、と考えるのか?考えないのか?戦争は是認するが、生きて帰ってこれないような特攻はダメ、と言うのか?

歴代の首相が戦争責任をあいまいにしてきたのは間違いない。占領軍が天皇制維持と決めたからには、天皇の戦争責任を問うようなことはできなかったから、そうならざるを得なかった。逆に言えば、天皇の戦争責任をあいまいにしたまま天皇自身が参加する追悼式をやるなんて危ないことをよく始めたものだ。

この記事を掲載した朝日新聞も、①日本は自衛のための戦争はできるのかできないのか?②仮に自衛のための戦争ができるとしたら、「国の為に命をささげる」という覚悟は必須ではないのか?③国の為に命をささげるのはいいけれど、生きて帰ってこれない特攻はダメ、というのか?  についてあいまいにしている。国のために死んでこい」は否定するが、自衛戦争のために国に命をささげるのは肯定するのか?それとも国の為に個人が何かするなんてことは一切否定するのか?

歴代の首相が戦争責任をあいまいにしてきたのと同様、朝日新聞その他、国をないがしろにし、護憲を訴える人たちは、そもそも国を守るべきなのか、また、国を守るために命をささげる覚悟なしにどうやって国を守るのか?をあいまいにしてきた。自身は戦争せず、アメリカ様に守ってもらうことを前提とした、政府とのもたれ合いだ。

政府も朝日新聞も決まり文句を繰り返していられるのは楽で結構なことだ。見せかけの幸せと言ってもよい。これが何十年も続いたのは僥倖であり、奇跡だ。この「幸福」があと何年続くのか?そろそろこの「幸福」は賞味期限切れだ、と思って備えることをしなくていいのか?

閑話休題:

上述の篠原光雄さんが福岡県田川に住んでるのも面白い。田川に近い、北九州市出身の卓球の早田ひなが知覧特攻平和会館に行きたいと言ったことが物議を醸している。日本にひどい目にあわされた国の人たちから見れば、自分たちをひどい目に遭わせた日本の軍隊を祀る靖国参拝と同じなんだろう。彼らの代弁者も日本に多くいる。これは日本人以外には、というか日本人にも理解不能だ。早田ひな発言が「戦争反対か賛成かあいまいのままではそろそろまずいよ」、と思い出させてくれる契機になればいいのだが…

戦争責任もあいまい。戦争放棄もあいまい。自衛隊という軍隊は持っているが、アメリカ様のご意向を無視して勝手に動いて昔のように無謀な戦争をするのか、アメリカ様の指揮命令下でしか動かないのか?そろそろあいまいをやめられないか?もっと言えば「自衛専門の軍隊」というのが理解不能、非現実的、あぶなっかしいのだ。そんな軍隊はそれこそ奇跡だ。その奇跡を日本なら実現できる、と言っても誰も信用しないが、そう言い続けるというのもありか。これがアメリカ軍得意の「あいまい戦略」か?アメリカ様はそれでいいかもしれないけれど、日本はいざとなったらどうするのか?俺には全く分からなくて不安だ。

コメント

このブログの人気の投稿

IQ188という記録で注目を浴びた太田三砂貴(おおた・みさき)さん

”関口宏の一番新しい近現代史”を見る

朝日にもちゃんとしたのがいる、かな?(有田哲文)