中国人の無神論・リアリズム その2 

吉川幸次郎「詩経国風」あとがきより 以下抜粋:

(前略)「詩経」が呼びかけの詩のみで占められているということは、それ自体、相手の善意に対する信頼があるからである。是認しがたい相手に対してさえも、そこには最小限の善意の残存が、期待されている。したがって哀訴、嘆願、忠告であり、呪い、悪罵ではない。(略)

ところで呼びかけは必ずしも有効にはたらかない。相手の善意への期待は、必ずしもむくいられない。(略)

大多数の詩では期待がうらぎられる。かくて、哀愁が支配的な感情となる。(略)

ところで哀愁は常に、相手の善意の不足によって、自己の不幸が起こる、そう感ずることによって生まれている。またさればこそ、いつまでも相手に呼びかけ続け、相手の善意の恢復を期待するのである。このことは、一つのことの存在を思わせる。すなわち善意の生活が、人間本来であるという信仰の存在である。ひとり眼前の相手ばかりでなく、善意は一般に人間のものであり、善意の絡み合いによって、個人の間には幸福な結合、社会としては平和な幸福な集団を作り得るという期待が、普遍なものとしてあるということである。それはのちに孟子が「性善の説」として、説述するものであるが、その説の原始となる感情であり、信仰である。

またこの信仰は、天の信仰によって支えられているように見える。日月星辰を正しく運行させる天は、善意のかたまりであり、その延長として人間はいる。天は人間の善意の源泉であり、また人間の生活の監督者であるとする信仰である。呼びかけるべき相手を自己の周囲に見失った場合、詩人は稀に「天」によびかける。(略)

要するに、人間は善意の動物であることを本来とするという信仰が、「天」を意識することによって一層強められている。(略)

以上のことは、いいかえれば、人間は人間の善意、また善意に基づく努力を超越した、不可解な運命の支配下にあるゆえに、その善意にもかかわらず、しばしば不幸におちいる、という感じ方ではない、ということである。つまり人間は不可解な運命の枠の中にいる点で、大きな限定を受けているという感じを持ち、そうした感じで、自己の不幸を見るという態度が少ない、ということである。そうした態度は、漢以後の詩、ことに六朝の詩に、はなはだ多いのであるが、そうした態度の詩が、原則としてここには少ないのである。(略)

詩経の詩人は、なかなか絶望しない。したがって呼びかけをやめない。(略)人間が幸福であり得た時間が、少なくとも過去にはあったことを確信している。(略)要するに不幸は、一時的、局部的であり、幸福はやがて恢復されなければならない。それが人間の本来である。不幸は、個人としても、社会としても、病気のごときものである。ゆえに絶望は無用である。呼びかけはつづけられなければならぬ。(略)

ついでにいうならば、人間は、運命の枠という限定の中にあると意識する場合、連鎖反応的にうたわれる今一つの限定は、人間はやがて老いやがて死ぬということである。それへの嘆きが、後代の詩には大変多い。これまた「詩経」の中に、すでに現れないではない。(略)

要するに、「詩経」の詩人は、人生は安定したもの、合理的なものと感じている。少なくともそれを原則と感じている。不安定なもの、不合理なものとは考えていない。これは、中国の後代の文学が、ひろくその地色としてうけつぐものである。しかし後代の文学では、人間を、運命の枠の中にいる不安定な不合理な存在として見る態度が、往々にして、地色の上におおいかぶさる。「詩経」はそうではない。さればこそ、古典なのである。

閑話休題:

普遍的なものはキリスト教においては神(の救済)。先秦の中国においては人間(の善意)。日本においては自然(の恵み)。普遍とは、世界中の誰でも信じ、あると期待すると思われるもの。キリスト教徒は世界中の人が神を信じると信じて布教した。先秦の(そして今でも?)中国人は支配者は善意(徳)があるから支配者たることを天が認めた、と考える*。日本人は自然の恵みをフルに享受するために「和」と称して現人神たる天皇まで全員が同時に同じ農作業をする。

*元や清のように、そして現代の共産党のように、異民族、少数派でも長期間支配者でいることが可能。ただし、支配者の善意(徳)は廃れ、革命が起きて新しく徳をそなえた支配者が登場する。キリスト教や日本の神と違って、中国の天には意志がない。人間の運命を支配しない。あくまで「監督者」であり、結果を追認または拒絶するだけだ。プレイヤーではなく、レフェリー。


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