姉崎嘲風、「戦へ、大に戦へ」 より

 明治37年1月*発表の「戦へ、大いに戦へ」より

(前略)吾等は如何にして私闘と公闘とを分別するか、曰く、一に自己人格の信頼に基づいた者は公闘である征戦である。利害の打算に出た者は朋党比周(ほうとうひしゅう)**の私闘である。政治と限らず、美術、文学、思想、信仰何(いず)れの方面に於いても吾等の自信のある限り、力の及ばざる所までも大いに戦て戦て戦死せねばならぬ、自立の人格を捧げて世と戦いひ、怯懦(きょうだ)***を打ち、平和を破り、姑息を開切しなければならぬ、此の如くにして戦ふのであるから若し他の人格にして自己よりも大なる者のあるを発見し、他の信仰にして自己の信を摂取包容するに足る者があるを見れば喜んで直に満腔(まんこう)****の至誠を捧げて、これに帰敬する、今までの敵にても固(もと)より降伏する、此の如き戦闘こそ真に自己の人格信仰を発揮し、又他の人格信仰の真味を嘗(な)め得べき原動力である(後略)

*明治37年(1904年)2月に開戦した日露戦争の直前である

**利害を同じくする者が徒党を組み、利害の一致しないものを排除すること

***臆病、意気地なし

****全身


以上は日本人論である。日露戦争前夜において、すでに明治維新の精神を忘れ、利害でくっついたり離れたりする輩が多い、と嘆いている。

「自己人格の信頼」とは何か?これが日本教の神である。持って生まれたもの、自分が正しいと思う道・・・を赤ん坊のような純粋な心をもって信じるといった意味で、一神教の神と違って個人個人それぞれ違う。

興味深いのは「死ぬ覚悟で戦え」と言い、同時に「自己人格より大なる者には降伏しろ」と言っていること。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」に通じるか?禅問答のようだ。この考え方で行くと「自分の代で日本人を死に絶えさせてはならない」という理由でアメリカに降伏した昭和天皇の聖断は間違っていた、と言えないこともない。(当時のアメリカが日本より『人格的に大』だから降伏したのではなかろう。ただ単に物量豊富で戦争が強い者に降伏するというだけだ。怯懦であり、人格より命を惜しんだ、と言ってもよい)そして、降伏した後の日本人は天皇陛下でなく、マッカーサーに満腔の至誠を捧げた。情けないと言うべきか、日本人らしくて見事と言うべきか・・・

問題は、以上の論は、あくまで個人向けであって国家や組織向けではないということ。日本人には個人の生き方については思想、規範があるが、国家組織のあるべき論、思想、規範がない。(一神教のように「神」という個人を超えた普遍的なもの、個人を貫いて組織にまとめ上げる”バインダー”がないからか?)上述の「死の覚悟=必死」と「降伏」、いすれを選ぶのかは、その時々状況において個人個人が決めるべきことだ。儒教においても、国家組織は論じられておらず、上に立つ「君子」の心得、下で仕える「部下、子供」の心得が説かれているだけのように思う。

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