近所の肉屋でうどんを買う
よしもと新喜劇をみるとよく、うどん屋の場面が出て来る。それを見るとうどんが喰いたくなる。という訳で生うどんを買いに肉屋に行く。4人前と称して660グラム(5人前以上)。肉屋の娘の国から来たような、ほっぺたのふくらんだ丸い顔のお姉さんが「このうどん、食べたことありますか?」と聞く。この質問、2度目だ。上さんから「おいしいから何回も食べてます」と。「何でこの質問するの?」と思っていたら、
向こうから「『何分茹でたらいいのか?』って後から聞いてくる客がいる」と。
「そんなの『柔らかくなるまで』って答えておけばいいんじゃないの?」と俺が口を突っ込むと、
お姉さん「そうなんですけど。一応8分くらい、と答えるんです」と。
たしかにこのうどんの袋には茹で時間が記載されていない。俺は茹で始めた後、見た感じや箸で触った感じからそろそろ、となったら、1本取り出して水で冷やしてすすり込む。これで、もう十分柔らかいとか、あと何分茹でようと決める。そしてコンロからおろす前にもう1回1本取り出して水で冷やしてすすって確認してから、うどん全部をざるにあけ、水で洗う。結局トータル何分茹でたのかなんて分からない。自分の口の感覚に従うだけだ。単純に食うことが好きで子供の時から自分で料理をしてきた、という俺の経験がそうさせている、と言える。
ここで宮台さんの「身近にモデル・規範がない」という言葉を思い出す。これ、言い換えると「リアルなモデル・規範がない」、つまり「リアルな経験を信じない」ということ。このうどんの茹で時間の件で言えば、「子供の頃、親が料理するのを近くで見たことがない」、或いは、「親というモデルを真似てうどんを茹でたことがない」ということだろう。リアルな自分の料理経験で会得した自分自身の感覚、マニュアルがない(あるいはあってもそれを信じない)ということ。
そう言えば、最近の若い親は赤ん坊の面倒を自分の親(赤ん坊からみれば祖父母)にみさせない、と聞いたことがある。親は育児の資格を持っていないからだと言う。これも同様で、自分が親に無事育てられた、というリアルな自身の経験を信じないということだ。自信の経験に照らせば、自分の親なら少なくとも孫を虐待することは無かろう。
誰かに何かを頼むとき、俺はご立派な資格や経歴を持っているけど面識のない人より、面識があり、その人とリアルに接して感じた性格・相性・能力・期待されるパフォーマンスなどを重視する。つまりリアルな経験に基づく自分の「人を見る能力」を信じる。資格を証明する書類なんてクソくらえだ。
若い会社員が業務マニュアルを要求し、できればAIに教えてもらいたい、というのも、さもありなんだ。先輩がリアルに言葉でああせえ、こうせえと言うのは信用しないのだ。リアルな体験とそれに伴う言外・法外・損得外の規範を信じないということだ。地域コミュニティが崩壊したので言外・法外・損得外の規範を経験し、体得する機会がほとんど失われた。(言い換えれば理不尽な体験をする機会がほとんど失われた)1980年代以降、彼らの親が昔からあった地域コミュニティに家を建てて移り住み、崩壊させた。
今の若者にとってコミュニティとは、ネット上の仮想コミュニティだ。このコミュニティは昔のリアルなコミュニティが持っていた、「どこの誰だか紐づいているから悪いことが出来ない」、という抑止力がない。アノニマスなコミュニティだ。親や友人など「止めてくれる誰か」が近くにいれば抑止力になるが、そういった誰かがいなければ、闇バイトやヘイトクライム、回転寿司屋で醬油を呑むなんてことは、簡単にやってしまうし、陰謀論も信じる。
彼らにとって会社で働くということは、他の誰かや社会にリアルに役立つためではない。自分の理想とするキャリアの実現が目的だ。その、理想のキャリアもネットの仮想コミュニティで理想とされているものだ。
俺はこんな状況に絶望はしていない。一縷の望みは、最近の若者、リアルな災害(地震や洪水など)が発生すれば、現場に飛んで行ってリアルにボランティア活動することだ。
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