原武史「大正天皇」
原武史は著作「大正天皇」で何を言いたかったか? ①大正天皇は、世上言われるように脳が弱かったとは必ずしも言えないのではないか?しかし、気まぐれで政治(的配慮)を嫌い、病弱でもあったので、伊藤博文や山縣有朋、松方正義といった明治維新の元勲たちの生き残り、あるいは伊藤博文や井上薫の知遇を得て政治家になった原敬、大久保利通の次男である牧野伸顕などの描く明治天皇を手本とした「あるべき天皇像」とは大きく異なっていた。原武史によると、明治天皇と比較したがる周囲に対する反発、伊藤の言う「天皇(皇太子)操り人形論」に対する反発もあったのではないか? ②1922年までに伊藤、山縣、原は死亡したが、上述の背景から、1921年松方・牧野が大正天皇自身、節子皇后、皇族らの抵抗を押し切って大正天皇を「押し込め」て、裕仁皇太子を摂政にした。 ③摂政裕仁時代(1921年~26年)は、普選を求める民主化運動が盛んとなった。一方では「大正天皇(時代)のことは忘れて新しい時代を摂政裕仁中心に作りましょう」みたいなプロパガンダが行われ、これが天皇を変革(維新)のシンボルとし、日本は天皇と臣民とが 一心同体となる他国に優れた特殊な国体であるという超国家主義を生んだ。 以下抜粋及び参考情報: 1879年8月31日、明治天皇の側室・柳原愛子(なるこ)が明宮嘉仁(はるのみやよしひと)親王を出産・・・明治天皇は側室との間に多くの子をもうけたが、明仁以外はすべて死亡。(明治天皇も孝明天皇の唯一の息子だった) 1880年頃 「祭神論争」が起こる:天皇は顕明界を主宰する天照大神の子孫だが、同時に死後は幽冥界に赴き幽冥界を主宰する大国主命の支配を受ける、とする出雲派と天照大神だけが「神」だとする伊勢派が論争した 1881年 勅裁により伊勢派が勝ち大国主命は幽冥主宰神ではなくなり単なる「護国の神」に 1883年10月 大正天皇の母親(皇后あるいは生母・柳原愛子)が病弱な明宮のために、上記勅裁に逆らって出雲大社から大国主命の分霊を取り寄せる 1896年 スサノウを祀った大宮氷川神社に大国主命が合祀される。その直後皇太子明宮が大宮氷川神社を参拝。(この時の埼玉県知事は出雲国造家出身で出雲派のリーダーだった千家尊福) 1898年2月 当時首相だった伊藤博文の意見により明治天皇は、明宮を扱いかねていた東宮に監督として大山巌を、賓友...