先崎彰容による「丸山真男と江藤淳」
先崎彰容「維新と敗戦」より;
安保反対を訴える国会周辺の人波を、丸山は「騒然とした空気の中に終始見えない形で漂っている秩序意識と連帯感」があると感激的に書きつけた。課題ははっきりした、倒すべき対象は目の前にある。8月15日に戻れ。岸政権の強行採決にたいして取るべき態度は二つしかない。断固弾劾するか、そうしないならすべてを認めたことになるのだ。「中間の考え方」を認めず、人々は「つながる」べきなのだ…丸山はこう考えたわけである。
だが丸山が叫んでやまない民主主義の「連帯感」こそ、最も恐ろしい、そう考える思想家がいた。文芸評論家の江藤淳である。江藤は政治という「言葉」には二つの意味があると考えていた。第一に、自分の考え方を人々に言葉巧みに拡大し、どこまでも支配領域を広げて行くこと。この時言葉は、デマゴギーやスローガンとなり、問題は単純化される。言葉は支配の道具に堕落する。丸山の安保肯定の発言は、この意味での政治に堕落する可能性がある。「中間の考え方」などない、と人々を追い詰める問いただし方こそ民主主義本来の姿の冒涜、つまり意見の多様性を排除していないか。
だが、政治にはもう一つの意味があるという事実に江藤は気づく。壊れやすさを宿命とする秩序、人々の生活を維持し続ける静かで、しかも目立たない行為の連続、これが政治の持つもう一つの意味である。人から賞賛されないかもしれない。だが黙って問題に対処し、次の世代に共同体の存続を受け渡して行くこと…この地味で、しかも緊張に富んだ営みを「政治」と呼ぼう、江藤はこう思った。第一の政治でなく、この第二の「政治」にこそ、政治本来の役割はある。
こう思うようになってから、江藤は岸政権の強硬策だけでなく、安保反対のデモにも懐疑的になった。「私はデモが嫌いなので、一度もデモに参加しなかった」。安保闘争を、丸山はあまりにも美化しすぎている。どうして知識人はこうも、過剰なまでのつながりを、つまりはデモを肯定できるのか。それは恐らく、いつも自分自身が正義を握りしめていると思いたいからだ。だがそれは独善ではないのだろうか。
>>政治とは:
第一に支配領域を広げること。つまり権力闘争。これは、民主主義本来の姿の冒涜、つまり意見の多様性を排除を意味する。民主主義と政治は矛盾する。俺は「選挙で勝った者が次の選挙まで独裁政治をする」ことが民主主義だ、と考える。
第二に黙って問題に対処し、次の世代に共同体の存続を受け渡し…保守だ。だが、次世代が自分を乗り越えて行くことを願うなら民主的ではある。
自分自身が正義を握りしめている…これが連帯の正体。民主主義は個人尊重なので、デモに参加してる人々は一見連帯してるように見えるが、実はバラバラの考え方…それでも「みんな」でデモに参加すると連帯・つながりを感じ、自分は正義を握っていると、安心する。
閑話休題:
民主主義ってのはつくづく面倒だ。多様性を認め、少数意見に耳を傾けていたら政治はできない。言い方を換えれば、多様性を認め、少数意見に耳を傾けた政治なんて嘘っぱちだ。なんでこんなもんが流行ったんだろう?欧米では民主主義が嘘っぱちだ、という見方が流行って来た。嘘っぱちに疲れた、と言うべきか?
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