賀茂道子「静かなる占領」②

2025年発行 賀茂道子「静かなる占領」読後感:

この本は日本人論でもあり、マッカーサー、GHQの立場から書かれた「占領物語」でもある。日本人がこういう視点で占領を語るのは初めてではないか。GHQから見れば「検閲」は占領統治を効率よく確実に行うためのツールだった・・・我が江藤淳を批判的に取りあげるのもやむなしか。

もともと矛盾していた占領方針が冷戦によってねじ曲がった・・・日本人は地震や台風が来たら、頭を下げてじっと待ち、終わったら後片付けして元通り立て直す・・・戦争も占領も日本人にとっては地震や台風同様の天災だった。

昭和天皇についてはかなり批判的と言うか、冷笑的だ。

55年体制の前に、その原型となるものがあった。天皇制を残すべく、天皇自身とGHQとメディアの三者が顔を見合わせながら平仄を合わせたのだ。一方、平成の明仁天皇(夫婦)については手放しの絶賛に近い。

以下抜粋;

(敗戦後の)天皇の関心は、三種の神器を保持した上で天皇制が維持できるか否かにあった。三種の神器は天皇が皇祖皇宗から引き継いでいるもので、北朝の血統である天皇にとって、自身の正統性を証明するものでもある。天皇は終戦直前の7月31日、内大臣・木戸幸一に対し、「万一の場合には、自分がお守りして運命を共にする外ないと思う」と悲痛な決意を述べていた。つまり、天皇にとって国体護持とは、三種の神器を保持したままで、すなわち現血統の正統性を確保したうえで、天皇制を存続することにあった。>>室町幕府の政治力で三種の神器なしにスタートした北朝のコンプレックス。

実際のところ、天皇にとって「象徴」という地位は、おそらくは本意ではなかったはずである。しかし、この時期は、東久邇宮による退位発言や、極東委員会の厳しい状況などが天皇側にも情報として入っており、また東京裁判をにらんで、天皇免責のためにの後の「天皇の独白録」と呼ばれる文書の作成にも取り掛からねばならないと言った、いわば天皇制維持にとっては逼迫した状況であった。当時侍従長であった徳川義寛は、天皇にとって何より重要だったのは天皇制を維持する事であり、「積極的に改正を急ぐ意向によりGHQ案の受け入れを促した」と証言している。このことからも、英国の君主制を理想とし天皇大権を残したいと考えていた天皇にとって、「象徴」を受け入れることは天皇制維持のためのやむを得ない判断であったと思われる。結局わずか2週間前のGHQ案の閣議受け入れも、この「象徴」受け入れも、終戦の決定と同様に、最終的な決断は天皇によってなされた。もし、ここで天皇が「象徴」に対してよい反応を見せなければ、おそらく天皇を説得すべくさまざまな働きかけが行われ、それにより、憲法改正要綱の発表は遅れたに違いない。そうなると、極東委員会との関係で憲法改正は思わぬ方向に進む可能性もありえた。当然天皇は、その状況を把握していたからこそ、即座に「象徴」を受け入れたのである。このように、重要局面では(たとえその決定が内閣の決定を追認するだけであろうと)天皇の権威は反対派を説得するための、最後の一押しとして利用された。こうした構造こそが、マッカーサーが変えたいと思っていた国体であり、その意味で、日本側がいくら建前だと主張しようとも天皇の統治権を残すことはできないとGHQが考えていたことは、日本政府は気が付くはずもなかった。

>>民主主義と天皇の矛盾。マッカサーにとっては、当初は民主主義より占領統治のしやすさであり、その後の最優先事項は反共防共となった。

一般市民の私信の検閲報告書によれば、1946年9月16日から11月15日というまさに憲法改正が行われようとしていた時期に、最も多かったのは食糧問題に言及した手紙で、8687通あった。これに対し、天皇制について触れた手紙はわずか90通しかなかった。内閣に触れたものが372通、議会について触れた者が117通であった。(憲法草案については23通で、80%は賞賛していたと報告されている)江藤淳は憲法草案がGHQによって作成されたことやその関与を報道することが検閲によって禁じられていたことを明らかにしたが、当初はこのことは特に内密にされてはいなかった。GHQが隠そうとしたのではなく、ケーディスによれば、むしろ吉田の方から、憲法草案をGHQが作成したことを内密にしてほしいと申し出たとのことである。にもかかわらず、その後草案の作成がGHQによってなされたことを報道することが禁止になった背景には、極東委員会が強引な憲法制定過程に疑義を抱いていたため、この憲法を認めない可能性があるのを恐れたからである。タイミングの悪いことに米国の新聞「クリスチャン・サイエンス・モニター」が1946年6月に、憲法草案がマッカーサーによる「押し付け」であると報じた。そのため憲法草案が米国案をもとにしているという報道を禁じたのである。つまり、憲法がGHQ作成であることを報道することを禁じたのは、極東委員会の動向が、無視できなかったためとも言える。

>>「押し付け憲法ではない」は、日本人に対してでなく、極東委員会に対してだった。

蘇峰は1946年8月7日の日記に「日本人中にて、最も妥協的であったのは、天皇である。(略)あたかも珍客をもてなすが如き態度を以て天皇はマッカーサーに対し給うた」と書いた。すくなくとも天皇は草案に対し反対の意志は示していない。消極的にであれ、憲法改正に協力したと言えるだろう。マッカーサーに協力することこそが天皇の生き残る道であったことは、天皇自身が一番よく知っていたからである。1946年5月31日の第二回天皇・マッカーサー会見にて、天皇はマッカーサーに対し、「憲法作成でご助力いただきありがとう」と述べ、第三回会見ではマッカーサーも「陛下のおかげで憲法は出来上がったのであります。陛下なくんば憲法もなかったでありましょう」と最大限の賛辞を送った。こうして、国の最高法規は、日本政府、GHQ,天皇の合作として、「国体護持」を曖昧にしたまま制定された。正確に言えば、もしくは広い意味で言えば、この曖昧な憲法制定に、国民も寄与した。世論調査で示された、天皇制は維持するが、天皇は政治にはかかわるべきでないという国民の意思と戦争放棄に対する支持がなければ、憲法改正はこれほどスムーズにはいかなかったと考えられる。国民は天皇同様、静かに寄与したのである。

>>俺は「国体」とは日本は家であり、天皇が父親という構図だと思う。戸主・家長はマッカーサーであり、アメリカだ。

国体イデオロギーを支えて来た「家制度」は、憲法24条に反すると言う事で廃止を余儀なくされることになった。民生局は個人の尊厳と両性の本質的平等を規定する24条の導入により、事実上の「家制度」の改廃を要請したことになるが、その存廃の決定は日本側に委ねるという方針をとった。最終的に1947年5月の憲法施行とともに、「家制度」は廃止された。1947年12月に公布された改正民法では憲法24条の理念を反映させ、それまで認められていなかった財産権が女性にも付与され、相続も男女平等、かつ全ての子供が均等に相続権を持つことになり、法的な面においては、男女平等がほぼ達成されることになった。戸籍法改正において女性は結婚によって男性の戸籍に入るのではなく、結婚すれば夫・妻双方が親の戸籍から抜けて新たな戸籍を作ることになった。GHQは個人単位の戸籍を提案したが、日本の保守派は、それをはねつけ、親と子という家族単位での登録を押し込んだ。更に夫婦同一氏が継続され、結婚の際に姓を継続した方がそれまでの戸主に代わって筆頭者として登録されることになった。姓を変更するのはそれまでの慣習から女性が大半だったことにより、おのずと筆頭者は男性となった。こうして人々の意識の中では「家制度」は続いて行くことになる。

>>俺自身は結婚のとき、「入籍」に違和感なかった。ただし、別に家長とか戸主の必要は今でも理解できない。まあ、フェミニストが「何故男の姓に変えなくちゃあならないの?」とケチつけたいのも分かるが・・・夫婦同姓が戦後民主主義の「のどに刺さった魚の骨」ではある。

天皇の「神格」否定の第一歩はGHQ発足2カ月後の1945年12月15日に発出された「神道指令」によって始まった。この指令により、神道は廃止となり、米国が問題視していた「日本は他の国と比べて特殊な歴史を持つので優れている」という国家思想は否定された。この指令は、他の民族より優れた日本人がアジアの盟主となるべきという思想に支えられた「八紘一宇」(全世界を一つの屋根の下に置くこと)や「大東亜戦争」といった言葉も公文書で使用することを禁じた。翌1946年1月1日、CIEによる神格否定の第二弾として天皇による「新日本建設に関する詔書」が発表された。この詔書では天皇が「現御神(あきつみかみ)」であることを否定し、国民と天皇の関係をつなぐものは神話ではなく、信頼であるとされた。いわゆる「人間宣言」である。この「詔書」は、CIE宗教課長ハロルド・ヘンダーソンが指揮を執り、学習院の英語教師であった英国人のレジナルド・ブライスによって原案が作成された。この詔書では、天皇が神であることや日本人が神の末裔であることは否定したが、天皇が神の末裔であることは否定されていない。これについては、側近の木下道雄の提案で天皇も賛成したという。天皇は憲法に関しても第一条に「万世一系」を入れることを提案していたが、「詔書」でも同様に「万世一系」イデオロギーは密かに保持されたことになる。そのうえで、天皇と国民の紐帯は神話ではなく信頼と愛情によって結ばれることを示した。

>>日本は他の国と違っているから優れている・・・素直な俺は日本は変わり者だから目立たぬよう大人しくしてろ、と考える。「八紘一宇」はそれほど毛嫌いするほどのものではない。「多様性を認め、みんなで一つの屋根の下に同居しましょう」だ。

万世一系を言うなら南朝の方が正統じゃないか?となってしまうので、正当な万世一系の末裔だと言い張るには三種の神器が必須となる。哀れと言えば哀れ。日本の神とは「何か優れたところがある人(もの)」、「特別な人(もの)」だ。正統性なんて問われない。問われるのは「ご利益」だ。ご利益のない神は廃れ、見放される。敗戦して昭和天皇にご利益があるのか、疑われた。三種の神器くらいでは神でい続けることはできなかった。しかし、マッカーサーが昭和天皇の「ご利益」を認めてくれた。ただし、そのマッカーサーが一番偉い神になった。

結局、軍の統帥権は失ったものの、天皇や側近、保守政治家たちの意識は戦前とそれほど大きく変わらなかった。天皇にとって、人々に対する呼びかけの言葉は「臣民」から「諸君」へと変わったものの、意識の上ではつねに人々の上に君臨する絶対的「君主」であったと考えられる。マッカーサーも天皇が完全に権威を失うことを欲していなかった。天皇の権威を利用して占領政策を進めるために最低限の権威を残しつつ、一方で真の権威は自分にあることを示した。そのアピールに天皇・マッカーサー会見は大いに役立った(特に第一回目の二人の記念写真や決してマッカーサーから天皇を訪ねなかったことなど)写真や巡行を通して、積極的に生き残りを図った天皇とそれを後押ししたGHQ,そして「人間天皇」のイメージに貢献した各種メディアによる三位一体のデモンストレーションは、人々がそれまで天皇に抱いていた敬愛に加え、新たに親愛の情を引き起こした。ただし、「神」の装いを脱ぎ捨てた天皇は、これまでとは異なり、マッカーサーに従順な「象徴」という名の君主の衣装に着替えたに過ぎなかった。

>>この三位一体は自民党・社会党・メディア三位一体の55年体制に引き継がれた。

マッカーサー回顧録に天皇が全責任を取ると発言したと記されているが、天皇・マッカーサー会見の公式記録にはそのような発言はなく「この戦争については、自分としては極力之を避けたい考えでしたが、戦争となるの結果を見ましたことは自分の最も遺憾とする処であります」と記録されている。天皇側近がイメージ戦略を狙ってこうした噂を振りまいた可能性が考えられる。一方、議事録にはないとはいえ、天皇がこれに似た内容を実際に口にした可能性もある。「自身は戦争回避につとめた」と言う発言と「自分が責任を取る」と言う発言は、会見が裁判の場ではなく、天皇にとっての生き残りをかけたアピールの場であったことを考えれば、両立する。自分は戦争に反対だったとして戦争責任を回避しつつ、しかしながら統治権の総覧者として責任を取るといえばマッカーサーの心証がよくなることは間違いない。あえてそれを狙って発言したと考えられることも出来る。

>>昭和天皇はそんなに格好いいわけじゃあなかった・・・シニカルな見方。

朝日新聞の投書:

私の息子も天皇の命により戦場に散った。彼はそれで満足して死んだと思っているが、しかしその天皇が平和愛好家であり、戦争を好まなかったと言っておられる。そうすると、日本の軍隊は天皇の意思に反した行動をとったことになる。この矛盾を親はどう考えてよいだろうか。(略)神より人間となり、父となった天皇は、天皇の名において夫を失い、父や兄弟を失った人々や、家を焼き、財をなくした国民である我が子に対し、どのように考えておられるのだろうか。

>>この観点で、俺は、天皇は死ぬか最低でも退位すべきだった、と考える。そうしないと”示しがつかない”のだ。負けたんだから開戦の時のトップには”責任”がある。

日系移民として米国に渡り、現地で同じ日系移民の夫と結婚し、15年間の米国滞在の後、真珠湾攻撃の前に日本に戻っていた高橋愛子は天皇制があっては民主主義が徹底されないが、かといって天皇を戦犯に問う必要はない、天皇が退位しても天皇の血統には国宝のような存在として、特別な待遇をすればよいのではないか、というアイデアを持っていた。天皇制維持は日本の現状でやむを得ないことでもあろうけれど、それでは直接混乱を体験しないかわりに、割り切れない民主主義は当分あいまいなものとなって徹底されずにいくだろう、と日記に記した。

>>マッカーサーから見れば、日本の将来なんて知ったこっちゃアない、か。あいまいな民主主義=「ごっこ」。当時の日本人は「そんなこと言ったって、腹が減って腹が減ってどうしょうもなかったんだ」という言い訳をする・・・戦争に負けちゃあいけない、ということだ。

マッカーサーは1951年4月14日に帰国の途に就いた。高橋愛子は知人が「マッカーサー元帥がお帰りになった。あの日は一日、何にも仕事が手につかなかった」と話していたことを日記に記している。戦前に15年間米国に居住していた彼女は、敵側の人間に対しこんな気持ちになると言う事が解せなかった。そしてこの心理作用を「純情とか熱情と言うよりは、日本人の封建思想から来る英雄崇拝だと思います」と書いている。

>>封建思想よりもっと根源的な日本人の性癖。マッカーサーは日本人にとって、「ご利益のあるお上=神」だった。八百万の神の上座にマッカーサーが座った。

1949年1月、それまで禁止されていた日の丸の自由使用が認められた。1950年1月には「日本国憲法は自己防衛の権利を否定せず」と再軍備をにおわせる声明が出た。同年10月12日、追放解除請願委員会設置の決定を受け取った吉田はマッカーサーに「私は追放の解除を認められた1万人を超える人々の感謝と喜びを十分に想像することができます。」と感謝の書簡を送った。再軍備に際し、幹部としての経験がある大量の旧軍人が必要とされることとなり、これまで公職追放に関して積極的ではなかったマッカーサーもついに方針を転換したのだ。

1948年8月15日に読売新聞に掲載された世論調査によれば、天皇制に対しては9割が支持しており、天皇の進退については在位すべきと言う意見が69.5%だったのに対し、譲位すべきと言う意見は18.4%であった。

天皇自身、しばしば国民を評する際に「付和雷同」という言葉を使っており、戦争に至った原因にもこの国民の「付和雷同」性があると口にしている。「付和雷同」とは、自分の考えがなく、すぐに他人に同調することだが、要は、人心の移ろいやすさを天皇は指摘しているのである。さらに「感情的」「議論がチャンと理屈の上から出ない」「その表面の言葉(平和を指す)につられて国民がだまくらかされては大変だ」と国民への評価は手厳しい。

>>理屈の上に民主主義は成り立つ。「議論がチャンと理屈の上から出ない」日本人に、民主主義は無理だろう。

結局この時の退位論は東京裁判判決後にマッカーサーがらの「退位しないでほしい」とのメッセージに、天皇自らが「様々な困難を乗り越え、国民と共に日本を再建する決意を新たにしました」と応えたことにより、終止符が打たれることになった。

GHQは占領統治を円滑に進めるため、GHQに寄せられた日本人からの手紙や人々のあいだで取り交わされる「私信」によって、民衆意識を把握しようと努めていた。日本人の多くが天皇の退位を望んでいないことを誰よりも正確に把握していたのはマッカーサーだった。もし日本人の大半が退位を望み、かつ占領統治にとって天皇裕仁を退位させることが有効であると判断したなら、マッカーサーは躊躇なく天皇に退位を迫り、天皇もマッカーサーに退位を促されれば受けざるを得なかったであろう。天皇が退位しなかったのは、天皇とマッカーサーの都合以上に、知識人からの退位論に呼応して国民レベルで退位を求める「うねり」が起きなかったことによる。ただし、国民の「付和雷同」性は、突発的な出来事によって天皇退位に向けた動きとと結合する可能性があり、食糧メーデーはおそらくその最大の危機であった。この時、山田風太郎は非常に冷静な目で食糧メーデーを見ていた;

ああ、天皇の姿一度街頭に出づれば陛下万歳を絶叫し、「天皇様・・・」と言ったり、大地にしがみついて泣くのも民衆なら、革命家を高唱し、「天皇よ、人間であるなら、飢えたるこの声を聞け、民主人民政府を作れ、人民の声に対し、天皇の回答を求む!」と怒号するのも民衆である。どちらがほんとうなのか?どちらもほんとうである。

>>度し難い日本人!

マッカーサーの迅速な食糧輸入は、天皇制を守る道を開いたのである。

天皇が途中までしか降りてこなかったことは、思わぬ方面で天皇に恩恵をもたらすことになった。それは天皇の在位中に天皇の戦争責任に決着をつけることがかなわなかったということである。退位論は浮上したが、それは道義的な責任と結果論としての敗戦の責任を問うたもので、戦争に至った道筋における政治的なかかわりや戦争中の作戦指導など、本筋の議論はタブー視されたままだった。その結果、国家としての「戦争責任」に関する議論も深まらず上滑りに終わってしまった。

>>今でも中韓に突っ込まれる火種。アメリカの日本・台湾に対する曖昧戦略。

山田風太郎は、大部分の人は勝者に追従するか勝者の太鼓をたたいている者だと考えていた。そのうえで、「自由と平和は自分で掴むべきものであって、決して与えられて享楽できる代物ではないのだ」と強調し、「検閲を以て臨む以上、司令部に都合のいい声だけしか響かないのは当然ではないか」と、制限された自由を批判した。開封跡のある手紙に押された検閲印から検閲が行われていることは明らかだったからである。しかし、手紙に何を書こうとそれで罰せられるわけではない。手紙が検閲されている以上、ラジオや新聞が検閲されていることは容易に想像できた。1946年7月に実施された「時事通信」の世論調査では、「最近の新聞やラジオの報道を信頼できますか」との問いに対し「信頼できる」と答えた人は49%と半数に達していなかった。

>>江藤淳は検閲をGHQによる洗脳と結び付けたが賀茂道子は検閲を民意を知るツールととらえた。確かに「検閲」は民意をモニターするツールとなる。今ならAIを使って民意の動向を知って「民主主義」を行う可能性はある。(俺はこれを”AI独裁”と呼ぶ)

占領期、朝日新聞の天声人語で、「あまりに民主主義といいたてたので食傷し」と書くほど民主主義は一種の流行語となっていた。天皇は、1946年1月に「ライフ」誌からの質問に対して文書で民主主義について「如何なる形態の民主主義が日本において可能なりや」との質問に対し「国民の総意をくみ取り、これを政治の上に具現することが必要である」「民主主義とはいかなるものなりとお考えになるか」との質問には「最大多数の最大幸福をもたらす政治というと嬉々たることを思い出す」と回答した。

CIE監修の教科書に「あたらしい憲法のはなし」に:

民主主義の根本は、みんなの心の中にある。全ての人間を個人として尊厳な価値を持つものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神です。

>>食傷するほど口の端に上って、民主主義は「ごっこ」となった。一人ひとりの特有の価値を認め、一人ひとりが「全機」することを目指すのは、民主主義などと大上段に構えたものではなく、ごくごく当たり前の話だ。

しかし、自由を放任、平等を皆同じだと誤解し、戸惑いを覚えたものが多かった。山田風太郎は敗戦直前の1945年8月14日、敗色が濃厚な中、今の日本の惨苦過去の教育において顧みられなかった科学の呪いに他ならないとして「痛恨の念に堪えないのは、それが各自の個性を尊重しなかった点である。頭を出せばこれを撃つ。少し異なった道へ歩むとすればこれをこれを追い返す。(略)個人主義は利己主義と同意語と思い込んでいる一般日本人の無知笑うべしかな」

山田風太郎は1946年1月16日に早くも「聞こえるものは飢餓の呻きと『戦争犯罪人』への罵倒と。勝利者への卑屈な追従の声ばかりだ」と嘆いている。また同29日、「戦犯騒動は実はあらゆる階級職域にわたって、下剋上の風潮の口実である。旧支配力を打倒して新しい力がそれに代わらんとする現れであって。責任などの追及ではない」とした。

>>日本人にとって「責任」とは何か?「すみません」と頭を下げ、言われれば金を払い、職を辞することだ。

風太郎は土屋や由利の裁判に対し、「バカげた悲劇」と称し、彼らを「日本軍国主義の憎むべき足軽一匹」と表現した新聞報道をののしった。「勝利者たるアメリカ人の『日本人への訓言』など馬鹿馬鹿しい」とも書いている。風太郎にとっては、勝者が敗者を裁くこと自体が納得できなかった。

風太郎は原爆について「とにかくあれを『残酷』とか『非人道』とかいう言葉に結び付ける精神作用は日本人より却って米国人の方に強いように思われる。肝心の日本人はあれを『戦争だからやむを得ない』と感じている。別に非人道として魂の底より憤激しているように思われない。情けないことだ。」と書いている。1947年8月6日に行われた第1回平和復興市民大会ではこの平和復興祭をお祭りととらえ、仮装行列やシャギリ、舞台上での歌や踊りなどが披露されていた。平和復興市民大会の背景には、復興資金を得るための助力をGHQに頼りたいという広島市の思惑もあったが、一般市民の「私信」においても、原爆投下そのものに対する批判はさほど見られなかった。原爆投下を非人道的行為として社会的に批判が高まるようになったのは、講和条約発効後である。もちろん、原爆投下を非難する声は社会の底流にあった。しかし、当時は被爆者が差別や社会的偏見を受け、沈黙を強いられていたため、それを声高に主張することができる社会状況ではなかった。

GHQ労働課のセオドア・コーエンは1947年4月以降は「米国からの食糧援助が届いて食糧の配給も増え、大量餓死の恐れはなくなった」と述べている。確かに風太郎の日記は1947年後半から徐々に食糧事情が改善していることを感じさせる。10月になると新米だけでなくビール3本と塩からが配給された。1948年6月には銀座で寿司を食べている。

現在の日本で被害者の中で最も正統性を得ているのは、原爆被害者である。無辜の市民を大量に殺害し、さらに長期にわたって続く放射能被害を生み出した原爆投下が絶対悪であることに疑う余地はない。その絶対悪である原爆投下の被害は、国際社会で加害者とされる日本にとって、唯一、返り血の飛んでこない(国際社会からの反発を招くことなく受け入れてもらえる)道義的優位性を持った被害である。「唯一の被爆国」であることは次第に国民のアイデンティティーとなっていった。従って原爆被害者は、被害者の中で最も上位に位置づけられるようになった。空襲被害は、何の落ち度もない正当かつ純粋な被害者ではあるものの、国際社会への発信と言う意味においては、原爆より不利な点があった。というのも、空襲については、日本は加害者の側面を持っていたし、多くの国が同様の被害を受けていたので日本は唯一の被害者ではなかったという意味で、国際的なアピール力が乏しかったからである。

>>原爆の方が空襲より上。同じ被爆地でも広島の方が上。長崎の方が地形的に被害が少なくて済んだこともあるが、一説によれば、象徴的な遺跡の違いだと。広島は原爆ドームを象徴としたが、長崎被爆の象徴となるはずだった浦上天主堂は、キリスト教徒がそれをアメリカが原爆で破壊したことがあからさまになることを嫌って隠したからという。

捕虜虐待の罪で死刑判決を受けた後、終身刑に減刑された加藤哲太郎は、東京裁判に納得いっていなかった。加藤は裁判冒頭で首席検事ジョセフ・キーナンが、この裁判は「文明の裁き」だとしたことを取り上げ、「なぜ彼らは犯罪人を文明なんかで裁判しないで法律や裁判官で裁かなかったのか?もちろん法律と裁判官で裁きたくって仕方がなかった。ところがそんな法律もそんな裁判官も存在していなかった。だから文明などを持ち出したのだ」と批判した。日本の戦争指導者を裁く法律がないのにもかかわらずそれを「文明」と「野蛮」の対立構造としてとらえ、道義的観点から、裁こうとした東京裁判の欺瞞性を指摘したのだ。風太郎は、「人類と文明の名によって」など公言するマッカーサーは、一寸困ることがあると、「日本国民は敗戦国民であることを認識しなければならぬ」などと開き直る。それなら初めから人類など文明など言わないがいい、と書いた。

>>日本に自前の文明などない。文明は普遍的思想・イデオロギーの上に成り立つ。”普遍”は日本人には無縁だ。代々家に伝わって来た「家伝」を守ることが日本人にとって重要だ。つまり文化だ。こんなこと、日本人以外には理解できないだろう。

米国は日本の権威主義を民主化への障害とみなしながら、権威主義があるからこそ、共産主義の防波堤にもなりえると考えていたのである。ただし、日本に共産主義革命が起こる可能性が全くなかったとはいえない。それは天皇の存在とは関係なく、日本国民が飢えて生存の危機にさらされたときであろう。そう考えたからこそマッカーサーは、日本への食糧輸入に踏み切ったと考えられる。

>>権威=天皇に弱いから天皇を利用した。でも権威を残せば民主主義なんて成り立たない。

山田風太郎は、1948年12月に行われた東条の最終陳述以前から、それまで報道された東条の法廷での発言や態度について、「態度、口述内容、天晴と言わんか堂々と言わんか、最大の日本の賛意に背かない。これで東条は永遠に日本人の胸中深く神となった」と絶賛した。風太郎だけでなく、言い訳ばかりする他の戦犯と異なり、自衛戦争を主張する東条の堂々たる態度に共感する者はそれまでもいたと思われる。その上での最終陳述での一歩も引かない態度は、日本社会に東条賞賛の空気を生み出した。

天皇が免責された以上、国民の罪を問うことはもはや無理があった。A級戦犯の武藤章も「政治の善悪は国民の光の反照だ。ただ被告のみを攻めていては何時まで経ってもよくならいし、現状に任せたら今後ますます悪くなるだろう。被告は喜んで責任を取るべし。国民は反省すべし」と日記に記した。戦犯として死んで行くのは受け入れるのせよ、満州事変以降、軍部を支持し、真珠湾攻撃に沸き立っていた国民が、手のひらを返したように軍部を責め立てることには、忸怩たる思いがあったのかもしれない。

>>居直った戦犯。特攻隊と一緒。「日本のために俺は死ぬ」と・・・その反対側に手のひら返しをして生き残りを図った天皇以下の国民がいた。家を守り、種を絶やさないことが彼らの生きる目的になっていた。

荒波は日本の封建的諸法規及び制度を根こそぎ奪ったにも拘わらず、荒波が収まった後に人々が目にした情景は、戦前と大きく変わらなかった。天皇制は残り、女性は効率の悪い家事に追われていた。お巡りさんは相変わらず威張っていて、学校の先生も父親も気に入らなければ平手打ちした。言論の「「自由」が与えられたことは喜ばしいことではあったが、もともと社会規範を重視する日本人にとって「世間の目」という圧力を気にせず自己主張することは難しかった。ゆえに最終的にはGHQが望んだ「人間として個人として尊重される」社会は実現しなかった。にもかかわらず、米国は日本を民主化したと満足して引揚げて行った。これこそが日本人の狡猾さであり、したたかさではないか。蘇峰や風太郎、そして天皇までが批判する日本人特有の「付和雷同」や「長いものには巻かれろ」といった気質や、不平不満もいわずに何度でも立ち上がる辛抱強さは、災害の多い日本における生きる知恵でもある。結局、占領による政治制度や法律家改革だけでは、古来より培われた日本の文化を根底から変えることは困難だった。もっとも、米国はそのような根本改革を期待していたわけではない。米国にとって必要だったのは、日本が米国の脅威にならない国家として再生する事である。だからこそ、敢えて文化の根底までひっくり返すようなことはしなかったし、する必要もなかった。

>>山本七平の日本人論。いわく「日本人は衣を着替えるだけ」中身は変わらない。

1951年4月28日、前年9月に署名された講和条約が発効し、日本は晴れて独立国となった。政府は、1952年4月28日を「主権回復の日」とし、政府主催の記念式典が行われ、万葉言葉で書かれた歌詞を歌って祝った。しかし、街に浮かれた空気はなかった。人々は静かに敗戦の日を迎え、静かに独立の日を迎えた。風太郎は講和条約発効の日に、「本日平和条約発効宣言 みんなしずかなもの」とのみ日記に記し、以後占領についての記述はない。蘇峰はこれ以降「再生蘇峰」を名乗る。ただし、日本人は「静か」ではあったが、全面的に占領軍に従順だったわけではない。かといって武力抵抗を試みたわけでもない。そのあいだに広がっていたのは、法の隙間を巧みに潜り抜け、採れるものは採り、言うべきことは小声で言う「したたかな敗者の生」であった。

長崎市の本島市長は1990年1月に、天皇の戦争責任発言によって、右翼に銃撃され重体となったものの、彼の元には7万通もの激励の手紙が寄せられた。手紙の大半は市長の発言、すなわち天皇に戦争責任があるという意見を支持するものであった。しかし、ここにおいても、天皇の戦争責任について真正面から取り組むメディアや言論はほとんどなかった。1995年に日本の戦争責任を認めた「村山談話」を発表した村山富市首相も、記者会見で「天皇の戦争責任を問うつもりはない」と述べた。死してなお、昭和天皇の戦争責任はタブーであり続けていた。新たな天皇に即位した明仁は、こうした状況に決着をつけようと試みた。1990年に行われた韓国大統領を囲む宮中晩さん会では、かつての昭和天皇の「不幸な過去に対する遺憾」表明から一歩進み、「痛惜の念」という言葉を使った。1992年の初の中国訪問では「我が国が中国国民に対し多大の苦痛を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と述べた。はっきりとした謝罪の言葉は用いずとも、象徴天皇としてできる範囲でのお言葉を発した天皇の気持ちを人々は慮った。明仁天皇は美智子皇后と共に慰霊の旅も続けた。皇太子時代に訪問した沖縄では火炎瓶を投げられたことのあったが、ひるまなかった。オランダ訪問では旧日本軍の捕虜となり死亡したオランダ軍兵士の記念碑の前で頭を下げて黙とうをささげた。儀じょう隊の音楽が再開した後も頭を垂れた姿勢を続け、それは1分にも及んだという。これ以降、オランダで目立った抗議活動は鳴りを潜めた。サイパンやパラオでは海に向かって黙祷を捧げた。日本人だけでなく、その地で亡くなった米兵や朝鮮人兵士のためにも頭を垂れた。何も語らず、ただただ皇后と共に黙って頭を垂れる。明仁天皇はこのようにして人々の心の片隅にあった「割り切れなさ」に徐々に決着をつけて行った。それは対外的・政治的な決着ではなく、あくまで国内における決着であったが、天皇のこうした謝罪のあり方は憲法に規定された象徴天皇に反すると、「押し付けられた」と主張する憲法を根拠に謝罪に反対する保守層の反発を抑えるには効果的な方法であった。それだけでなく、物事に真正面から向き合わずに誰も傷つけない曖昧な方法を好む日本人らしい決着のつけ方でもあった。

>>ひたすら頭を下げ、祈る。確かに祈るだけが天皇の仕事だ。ただし、明仁はそれを世界中に出て行って行った。歴代の天皇は、祈る時は皇居にこもった。世界中に出回る体力がなくなって生前退位した。

1973年から5年ごとに定期的・継続的に調査を行っているNHKによる「日本人の意識」調査では、1973年の最初の調査時には昭和天皇に対して「特に何とも思っていない(無感情)」は43%であったが、その後は年を重ねるにつれて徐々に増え、崩御直前の1988年には47%、すなわち約半数に達した。それに反比例するように「尊敬の念を持っている」が33%から28%にまで下がっていた。ところが明仁天皇が即位して最初の調査である1993年調査には、大きな変化が見られた。昭和天皇時代の最後の調査で22%であった「好感を持っている」が一気に43%とほぼ倍増し、反対に「無感情」が47%から34%に激減した。一方で「尊敬の念を持っている」は昭和天皇の時代の28%から下がり21%となった。明仁天皇は昭和天皇に比べ、親近感がある一方で重厚さや威厳がないといわれていた。なお、NHKは、1993年の調査で突出して好感度が高かった理由として皇太子徳仁の成婚を上げている。人々と目線の高さを合わせ、ときには手を握り、頷きながら話を聞く明仁の姿は、奉迎場の台の上から人々に向き合った昭和天皇の全国巡行とは異なる形での、人々に寄り添う天皇像であった。こうした姿に人々は自分たちと苦楽を共にしているとの印象を持ち、先の戦争遺跡での真摯な黙祷とも相まって天皇に「尊敬の念を持っている」という回答が上昇に転じた。2013年に34%に上がり、2018年調査では「好感を持っている」を抜いて調査開始以降最高の41%を記録した。明仁天皇に対する人々の感情は親愛から敬愛へと変わっていったのである。人々の苦難に寄り添うことが平成流の天皇のあり方であり、国民からもそれが求められるようになった。又天皇は会見のたびに皇后が献身的に支えてくれることに対する感謝を述べた。天皇だけでなく皇后も一体となって国民の苦難に寄り添う姿がそこには反映されている。このように人々と同じ生活をすることが新たな「象徴」と認識されていた昭和時代から一歩進み、、新たな平成の「象徴」像が形成されていったのである。2016年8月8日、明仁天皇はビデオメッセージで老齢による体力低下により象徴としての務めを果たすことが難しくなったとして、生前退位の意向を表明した。天皇は象徴的行為について:

「私はこれまで天皇の務めとして何よりもまず国民の安寧と幸せを祈る事を大切に考えてきましたが、同時に事に当たっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました。天皇が象徴であるとともに、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に天皇と言う象徴の立場への理解を求めるとともに、天皇もまた自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民とともにある自覚を自らのうちに育てる必要を感じてきました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として大切なものと感じてきました。」

このメッセージに対し、多くの国民は理解を示し、賛同した。それは同時に、退位だけではなく、天皇の象徴的行為についても国民の間で一定の合意が得られた瞬間でもあった。

>>NHKの5年おきの調査のことは初めて知った。これで天皇の地位を巡る国民の総意の一端を知ることができる。あとでチェックしよう。意識の変遷が気になる。

西部邁さんは「国民は生者に限定されるべきではなく、死者をも含むものでなければならないと考える。あるいは、死者の残した伝統の知恵によって制限される生者、それが「主権の存する国民」なのだといってもよい。」という屁理屈を。これも否定はできぬ。

1958年10月31日放送された捕虜殺害の罪でBC級戦犯として裁かれることになった清水豊松二等兵を描いたドラマ「私は貝になりたい」でのやりとり:

判事「如何なる上官の命令と雖も、本人が不当と思えば拒否できるはずだ。なぜ拒否しなかったのか?」

豊松「(あきれ返る)分からねえんだな。そんなことしようもんなら銃殺だよ。(ブツブツ)何言ってんだ、まったく・・・」

判事「(理解できない)不当な命令だと思えば、軍律会議に提訴すればよいではないか?それを怠ったのは、被告に殺す意志があったからではないか?」

豊松「あんたはね、いったいどこの国の話をしてるんです。ええ、日本の軍隊ではね、二等兵は牛や馬と同じなんですよ。牛や馬と!」

豊松は死刑判決を受け処刑上の露と消えた。ドラマの最後のシーンでは豊松の心の声が流れる「どうしても生れ変らねばならないとしたら・・・わたしは貝になりたい・・・」

>>「不当」とは何か?妥当でない、道理に外れたこと。唯一神がいない日本人には人それぞれの妥当があり、道理がある。「目上」の人の妥当・道理をひっくり返すのは絶望的に難しい。目下のものは目上の道理・妥当に従うことになる。それが厭ならサボタージュか従うフリをするか、逃亡か拒否・反逆だ。「話し合って」片が付くことはまず期待できない。日本人に議論が難しく、従って民主主義も難しいと言う所以だ。

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