日本の”リベラル”の衰退の歴史
ここで、日本の”リベラル”とは、「吉田ドクトリンに反対・抵抗する左翼勢力」のことを言う。
吉田ドクトリンとは「飢え死にしそうな日本国民を救うため、昭和天皇の意志も忖度して、食糧・国防という国家の基本的なセキュリティをアメリカに依存し、属国(妾)となる」ことを言う。
吉田ドクトリンは、右翼勢力からは、アメリカの属国をやめろ、自衛隊は違憲だから憲法を変えろ、という批判を浴びるし、左翼からは何故アメリカなのか?ソ連や中国を無視してはいけない、在日米軍・自衛隊、は違憲だからやめろ、と批判される。日本の「リベラル」は吉田ドクトリンを批判し、抗議することから始まった。
かつて「世界」という岩波書店が出版していた月刊誌があった。リベラリストたちが寄稿する、日本のリベラルの総本山みたいな本だった。その「世界」の編集者の吉野源三郎という人が「世界」に書き残した”まえがき”または”編集後記”だけをつづった「平和への意志」という本がある。この本を読み始めたら、上述のようなことを思った。この本は、末尾に資料として1950年3月号に記載された、安倍能成、和辻哲郎、清水幾太郎、中野好夫、南博、丸山真男、大内兵衛、都留重人、笠信太郎、羽仁五郎、等々、当時の錚々たるリベラリストたちが連名で出した、単独講和条約(後にサンフランシスコ講和条約となる)に反対する声明書がついている。
この本を読むと、当時のリベラルの盛り上がりと言うか、「政府の方針・政策に物申す」ことができる自由を喜び、その自由を失ってはいけない、という思いがひしひしと伝わってくる。そして、自分のことを自分で決めることが苦手な日本人に向けた「自分のことは自分でよく考えて自分で決めよう」キャンペーンが盛りだくさん。
リベラリスト達は、国連憲章や日本国憲法に書かれたような理想・平和を希求し、ブームは盛り上がったが、これはアメリカ発の「赤狩り」で穴をあけられ、朝鮮戦争でしぼんでしまう。この本を読むと、戦後のリベラルブームが盛り上がり、「弾圧」されてしぼむ”さま”が手に取るようにわかる。21世紀のリベラリスト達は、70年以上前にブームが盛り上がった往時を懐かしんで、「昔は自由だった」と言う。そして、それが、ほとんどの国民には共有されないで”オールド”と蔑まれる。
吉田の思惑の通り、日本人は、属国になっても飢えずに金儲けできればいい、と考える国民であった。飢える心配のない今から考えれば情けない国民だった。そして憲法や条約がどうなっているかに関わらず、戦争をすることも戦争を回避することも真剣・徹底的に考える国民でもなかった。つまり、理想に向かって進歩する国民ではなく、環境の変化に対応して生き残ろうとする進化の民であった。
1946年5月~1947年5月 吉田第一次内閣(自由党)
1946年11月日本国憲法公布
1947年4月第23回総選挙
自由党は社会党に負け、社会党・片山内閣発足
1947年5月日本国憲法施行
1948年10月吉田第2次内閣(民主自由党)
不信任決議が可決されたのを受け、衆院解散。
1949年1月第24回総選挙に民主自由党が大勝し、
1949年2月~1952年10月吉田第三次内閣(民主自由党)
1951年9月サンフランシスコ講和条約
1952年10月~1953年5月吉田第四次内閣(自由党)
1953年5月~1954年12月吉田第五次(自由党・吉田最後の)内閣
1954年3月 日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定(MSA)
<<吉田自由党内閣は、1947年社会党に政権を奪われるなど低迷したが、その社会党が腰抜けで本気で政権担当する意思はなかった。その後、占領軍と呼吸を合わせ、反共キャンペーンを行って1949年~1952年の4年間は吉田の(民主)自由党は衆院で50%を大きく上回る議席を占め、吉田ドクトリンを実行した。
・・・共産党の衆院議席は1949年1月の第24回衆院総選挙で35となったのを最後に、1963年11月の第30回衆院総選挙で5議席を復活するまでゼロだった…
サンフランシスコ講和条約以降は引退論も出始め、1953年以降は衆院議席も減らして50%ギリギリに落ち込み、1954年の「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定(MSA)」が最後の大仕事で、むしろ、造船疑獄において指揮権発動し、国会に初めて警察を入れるなど、75歳を超えた吉田に”老害”が現れ出した。野党が自衛隊は軍隊であるとして違憲と追及されて「軍隊という定義にもよりますが、これにいわゆる戦力がないことは明らかであります」と答弁したが、これは、「自衛隊なぞに戦争する力はないし、そもそも国民が戦争を許さない」という確信の吐露ではなかったか?言い方を変えれば、「俺はアメリカに言われて渋々自衛隊を作ったが、『あんなの魂のない、張子の虎だ』」と思っていた。
衆院総選挙結果推移
松川事件 1949年8月東北線の列車転覆事故の犯人を共産党員(組合員)とした冤罪事件。1959年最高裁で冤罪だと認められたが、1953年12月の第2審までは反共産・反労働組合キャンペーンの効果があった。(1950年前後はアメリカで”赤狩り”が盛んだった時期)…今では米軍の関与も疑われている…いかにもCIAがやりそうな手口だ。
朝鮮戦争 1950年6月北朝鮮が韓国に侵略し、アメリカ軍を中心とした国連軍が抗戦して始まった戦争。1953年7月以降、休戦状態が続いている。戦争中、日本は米軍の指示により、海上保安庁による掃海(機雷処分)作業を行い、また、仁川付近の地形に詳しい元船員が仁川上陸に協力した。(”戦死者”も出した)日本にとって何よりも大きかったのは、戦争特需だった。アメリカにとっては冷戦対応のための日本の再軍備が喫緊の課題となり、1954年のMSAに繋がる。
日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)1951年9月締結。(翌1952年4月発効)ソ連、中国などを除く旧連合国との間で戦争状態の終結と日本国民の主権の回復がうたわれた。言い換えれば、それまでは日本は戦争に負けたまま、自分で自分のことを決めることを禁じられた国だった。加えて、個別的・集団的自衛権が認められ、占領軍は撤収するが日本と他国との協定に基づいて外国軍が駐留できることになった。
リベラリスト達は、講和はアメリカと対立するソ連などともすべき(アメリカとの単独講和は共産国を仮想敵国としたものとみなされ、日本を戦争に巻き込むもの…日本は中立の立場を保って冷戦を抑えるべき…)と、全面講和を主張した。単独講和=アメリカの属国になることは、せっかく自由と独立を取り戻した日本が再び自由と独立をアメリカに渡す大愚行だった。吉田もこのことは十分認識していたと思われるが、日本国民を飢えさせるよりましだ、と判断し、また軍隊大嫌いな天皇がいて国民の間に厭戦気分が充満している限り、憲法や条約がどうなっていようと日本は戦争はしない、と確信していたように推測される。
条約締結の直後、1951年11月に読売新聞が「逆コース」という表現を始めた。アメリカの日本占領政策が民主化から、反共に転換したことを揶揄した表現だ。
吹田(黙祷)事件 1952年6月、大阪豊中市の大阪大学豊中キャンパスで、「朝鮮戦争の即時休戦、軍事基地反対、アメリカ軍帰れ、軍事輸送と軍需産業再開反対、再軍備徴兵反対、破防法反対」をうたった集会が行われ、デモ隊は吹田駅で警察と衝突、警察は発砲した。朝鮮戦争休戦直後に行われた公判で、被告となったデモ参加者は、大阪地裁の佐々木裁判長に朝鮮戦争休戦を祝う拍手と朝鮮人犠牲者に対する黙祷を行いたいと申し出、これについて佐々木は「裁判所は止めもしなければ激励もしない、裁判所は中立性を表明する」と静観し、佐々木は国会の裁判官訴追委員会にかけれられた。裁判の公平性(裁判所の独立性)を訴える司法関係者の支援を受けて佐々木は喚問に応じなかった。
内灘闘争 1952年9月、朝鮮戦争に使われる砲弾の試射場として政府が石川県の内灘砂丘を決めたが、内灘村議会が全会一致で反対。同年10月の総選挙のあと、選挙に勝った吉田内閣は補償金や試射期間の限定などを提示して再交渉し、村議会が多数決で受け入れ了承。ところが、4か月間の限定期間の後、政府は試射の再開を求め、再び反対闘争が起こり、交渉の結果、条件付きで試射が再開され、結局1957年1月に米軍が撤収し、騒動は終わった。
これら二つの事件は、リベラルが国に勝った、と言える事件だったからリベラルの皆さんはとっても嬉しかったし、プライドを感じた。逆に言えば、これ以降、「勝利」と言えるものが少なくなり、1960年安保闘争では負けたから、リベラリスト達は数少ない1950年前後の勝利を懐かしく思い出すことになる。
安保闘争・学生運動のさきがけとなった砂川事件では1959年3月に東京地裁(伊達裁判長)で出た「米軍駐留は違憲である」とした判決が、駐日アメリカ大使・マッカーサーの圧で、同年12月に「日本国のコントロールできない外国軍は日本国憲法でいう”戦力”に当たらない、裁判所は安保条約のような高度な政治性をもつ条約には違憲判断はできない」という、屁理屈にもなっていない摩訶不思議な最高裁の判断で差し戻された。これで、日本では政府はもちろん、裁判所も憲法など無視してアメリカの言う事を聞く、ということが国民に理解され受け入れられた。
興味深いのは、戦後日本ではリベラルは平和運動=反戦活動だったという事だ。自由よりも平等よりも、飯が食えることよりも、リベラリスト達にとって大切なことは平和だったんだ。この亡霊が、まだ生きていて、例えば、辺野古で反米軍基地の”平和”教育が行われている。彼らの活動は無法だし、荒っぽいし、全然”平和”的じゃあないが…平和を求めて闘争する…
安保闘争に負けた闘争参加者は大雑把に言えば:①西部邁さんのように足を洗って非リベラル…例えば保守…に転向する②全共闘・日教組・動労のように過激になる…1970年前後には過激派として非合法活動を始めるようになる③共産党・社会党のように選挙人に媚びて、暴力革命や自衛隊違憲論、天皇制否定論を棚上げしてリベラルを装う
日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定(MSA) 1954年3月署名。朝鮮戦争の結果、アメリカが地域における安全保障を維持する為に日本の国土に米軍を配置し、日本は自らの防衛に責任を果たすよう義務付けられ、防衛の目的でのみ再軍備する事を認められた。(背景には、アメリカの、朝鮮戦争休戦後の余剰となった兵器の売却という目的もあり、日本は日本で武器を買う見返りに経済援助を求めるという思惑があった)結果、警察予備隊⇒保安隊と名前を変えた軍隊組織が自衛隊となった。吉田からアメリカとの交渉を命じられた池田特使(後の首相)は、アメリカの再軍備要求を45%程度”値切った”上、5000万ドルの余剰農産物を獲得した。この協定では日本の愛国心・自衛精神の教育強化がうたわれており、再軍備反対・平和教育を綱領に掲げてきた日教組の影響を排除することを狙いとした法律が公布された。こういうことをするから日教組がおかしな抵抗をするようになるのもやむなし、か。
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