「逆立ち日本論」養老孟子・内田樹(2007年)
アメリカが覇権を握った理由
①お粗末な大統領が出ても州知事がしっかりしていて、次の大統領になる準備をしている…という仕組みがあった。
②大統領がお粗末でも新たなフロンティアから得られる豊かな資源がカバー してくれた
この2つの理由がトランプで途絶えてしまったから、お粗末なトランプはお粗末なままだ。
アメリカはガキ(大将)を卒業し、州も豊かな資源もない先輩諸国の進化とか成熟を学んで「普通の国」になることができるか?
以下抜粋:
ユダヤ人は国民でもなく、人種でもなく、ユダヤ教徒のことでもない。「確かな実態的基礎を持たないのにもかかわらず、ユダヤ人は2千年にわたってそれを排除しようという強烈な淘汰圧にさらされながら、生き延びて来た。この事実から私たちが漠然と推理できる結論は、危ういものであれど、一つしかない。それは、ユダヤ人は「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けて来たということである。言い換えれば、私たちがユダヤ人と名付けるものは、「端的に私ならざるざる者」に冠された名だ、ということである。
昼と夜のあわいは限りなく曖昧ですから、一義的に「昼」を定義することも、「夜」を定義することもできません。でも、ぼくたちはもうそのような対概念を以て区切っているから、その言葉を使ってしか一日の区切りをつけることができない。
>>国家というものも同様だ。1国では成り立たない。争ったり手を組んだりする他国があって国家となる。
ユダヤ人は、諸国民より多くの「債務」を負わされている、「あまりに責任が重いので、人間として十分な成熟が必要な仕事は私たちユダヤ人がやりますから、みなさんはもっと楽な仕事をしてください。」というのがユダヤ人の選民意識なんです。これは「自分たちは楽な仕事をする。おまえたちは難しい仕事をしろ」という利己的な人種差別よりもあるいは周りの人を傷つけるかもしれません。サルトルは「ユダヤ人とは人々が『ユダヤ人』だと思っている人間」だと定義しました。一方、レヴィナスは「ユダヤ人とは他の諸国民よりも多くの背に任を負うために神に選ばれた人間だ」と定義します。この二つの定義に共通点がある。それはどちらもユダヤ人は誰かに名指しされたその後に、名指しの結果として出現したということです。自分が自主的に「ユダヤ人である」と名乗ったことでユダヤ人は出現したわけではない。反ユダヤ主義者から、あるいは神から「おまえ」と名指しされ、「私はここに居ます」と応答することによって、ユダヤ人はユダヤ人になった。この「名指しに対する絶対的な遅れ」こそがユダヤ人の本質について、もっとも根源的な定義ではないか。
レヴィナスによれば、人間は、端的に「そこにいる」ということができない。そこに存在するというのは、彼が来る前に誰かがいた場所を、その誰かが立ち去り、場所を空けてくれたおかげで、その場所を占有することができたということである。誰かを逐(お)ったせいで、自分はここにいることができる。そんな風に「私は存在する」という事態を純粋な始点としてでなく、すでに「他者への遅れ」としてとらえる。
>>この対談が行われて20年たった2025年以降、ユダヤ人はパレスチナ人やイラン人を無理やり逐っている。ユダヤ人は、ユダヤらしさを失った。
責任とは「起こってしまったことに対する」責任=responsibility
応答とは「名指し」に対する応答=response
「気がついたらすでにゲームが始まっていて自分はフィールドでプレイしているのだけれど、ゲームのルールが分からない状況」…周りにはこちらにボールを送ってくる人たちもいるし、血相変えてボールを奪いに来る人達もいる。ボールをパスしたり受け取ったりしているうちに、なんとなくルールらしき物が解ってくる。でもいつ、何のためにそんなゲームが始まり、何時どうやって決着がつくのか、そういうことは相変わらずわからない。すでに始まっているゲームに、ルールを教えられないままに投じられている存在者、ユダヤ人もそういう状況を人間性の原型として考えているんじゃないか。ぼくたちは、どうして言語があるのか、どうして宗教があるのか、どうして親族があるのか、どうして貨幣があるのか、そういう制度の根源について相変わらず何も知らない。「ルールというものはプレイしながら部分的に発見されるものだ…でも、その全貌は最後までわからないだろう」というふうにユダヤ人は考える。
>>2026年現在、ユダヤ人は「ルールなんてものはない」、あるいは「古いルールをぶっ壊す」と考えているようにしか見えない。
僕が今、何か言おうとしても、他人が作った、日本語なら日本語という言語体系の枠踏みの中でしか語ることができない。どんな過激な思考も、法外な感情も、限られた語彙と文法と韻音をやりくりすることでしか伝える事ができない。
ユダヤ神秘主義(カバラー)の創成神話はかなりヘンテコな話なんです。天地創造というと、普通は神様が無から有を生み出すわけですけれど、カバラーの創世神話では、そうじゃない、神が「自己収縮」して世界のための「場所を空ける」のです。宇宙に充満していた神が収縮するとスペースが空きますよね。人間はそこに到来する。
ユダヤ教の場合、神と被創造物のあいだの「時間差」、神の時間的先行性こそが神性を構築している。神を空間的表象にすると、神性の本質的な所が消えてしまうから「神を見てはならない」と言われるのです。視覚的な神像を持つということは神と人間が同一空間に同時的に存在する事になります。現前するのはあくまで主の言葉であって視覚像ではない。ユダヤ人はそんな風に造形芸術が原理的に禁止されてますから、いきおい、信仰の表現が音楽に向かうことになります。
(ホロコースト生還者のヴィクトール・フランクルの言葉)人生の意味とは、人生から何を期待するかではなく、人生が何をこちらに期待しているかを考えることだと言うのです。僕たちが人生の意味を問うているのではなく、問われているのだと。
>>俺は問うばかりだ。答えを求めるばかり。人生から問われているとは思わない。祖先が譲ってくれて俺が生まれたか…人生から「生きろ」と言われたから生きるのか…
近代人は無意識のうちに、言語と言うのは「理屈」であって、いつでも論理的な意味を持つと誤解しています。でも、言葉は相手の脳にじかに訴えるもっと強い力を持っている。言葉は「直達」する力を持っている。そういう力がなかったら、言葉だけでヒトラーはあれだけ大勢の人間を動かせたのか。
大学時代に出かけた九州では言葉が通じなくて困った。田舎でお婆さんに道を聞かれても「道を聞かれてるな」としか分からない。完全に外国でした。九州の中で一番ほっとしたのが対馬でした。田舎でも標準語なんです。インターナショナルということは辺境だ、ということがそのときはじめてわかりました。
世界を支配するのは常に辺境の国なんですね。長くロシアとアメリカが世界を支配しましたが、この二つともヨーロッパからすれば東西の辺境ですからね。アメリカが世界の中心になって辺境性を放棄したことをきっかけに国際性を失い、覇権も失って行く。
>>英語や米ドルが”世界標準”となってアメリカは覇権を握った。アメリカは軍産複合体の力で他国を攻撃する事しかできなくなり、米ドル離れ、米国離れが始まった。
日本はいつまでも辺境でいるのが幸せですよ。中国から見てもアメリカから見ても辺境です。
鎖国と言うのは非常に発達した制度だったと思います。情報処理の限界があったのではないでしょうか。つまり、情報処理のために決められた制度じゃあないかと思うのです。というのは、当時は、情報が入って来ても処理能力がありませんでした。新しい情報が入って来てるのに政府が処理できないとなると、それは政府の欠陥となってしまいます。そうならないためには情報を制限するのが一番安定してよいわけです。情報流入を防ぐには、テレビがある訳じゃないから、人間の移動を制限するのがいちばん早い。そうやって政府が情報を独占する。当時の状況で新しい知識があちこちから入ってきたら、コントロール不能になって中央政府はたまったもんじゃありません。つまり鎖国といっても実は「情報鎖国」であり、情報制限の制度だったと僕は思っています。情報の一番の典型は生きた人間です。だから、生きた人間をブロックすることが大切だった。
>>21世紀の今、情報なんて鎖国しようがない。しかし、アメリカやヨーロッパではと言った「出羽守」は防ぐことができる。食料も医療も移動も通信も江戸時代に戻る。電気なし。燃料は植物由来のみ。よっぽどのもの好きじゃあなきゃあ移民なんて来ない。(あきれて出ていく人はいるだろう…止めない)9条を素直に守って軍隊も武器もなし。アメリカ軍にも出ていってもらう。
中国が大きくなっていくと日本は鎖国しますね。遣隋使や遣唐使も、唐が盛んになるとやめてしまう。あんなに大きくなったら相手にするのはたまらないとばかりに関係を断ってしまう。もしかしたら、現代でも鎖国状態になっていくかもしれませんね。中国のことはもう知りたくない、影響があまりにも大きくなり過ぎると関係しない方がいい、となる。アイデンティティーが危機に瀕するとブロックする。伝統的に考えると、今のように中国が強くなってきたら関係を切るべきなんです。
>>鎖国しよう。辺境にいつづけよう。
国民の伝統や、文化を進んで放棄してアメリカにすり寄ろうとしている。これは日本人にとって屈辱的なことのはずなんです。屈辱的なことであるはずにもかかわらず、おおかたの日本人がその政策に同意している。これは理解しがたいことなんですけれど、僕はこれを我慢に我慢を重ねて、ついにある日、我慢の限界に達してブチ切れる…というシナリオ通りに事が進んでいるんじゃあないかと思ってる。
>>日本は、これが語られてから20年たってもまだ我慢している。アメリカがしびれを切らして縁を切ろうとしている。
(1950年生まれの内田さんが小学生時代)男の先生たちは、ほとんどが戦争経験者なのです。だから知的な先生たちは自分の「手が汚れている」ことについての自覚がある。だから先生たちには子供に対して倫理的な気おくれがあるんです。民主教育と言っても、先生自身そんなもの見たことも聞いたこともないわけで、彼ら自身は軍事教育を受けて育ったわけですから。自分の中にノウハウがないことを教えなければならない。だから「日本の未来はきみたちのものだ」と言う先生の言葉はあれは本音だったと思うんです。その頃の先生たちは子供に対して実に多くの権限を気前よく移譲していました。その時代に子供だったのがその後、全共闘になっちゃった。全共闘の時代の人たちは竹槍をもってわめいていました。ゲバ棒どころじゃありません。東大の御殿下グランドという広場を、竹槍をもった人が埋め尽くしていました。戦時中に見たのと同じ光景です。共産党の都学連の人たちは戦時中に竹槍を持っていた大人を見た経験がある訳ないのに、全く同じことをしているのです。
>>未来は子供のもの…そういう時代は絶望を生まない。1990年代に、日本では、未来そのものがなくなってしまった。大人も子供も絶望している。
「この非常時に研究室でのんびりと研究なんてしてる」と非難されたのです。「俺たちが一生懸命にやっているのに、お前らはこんなところで研究なんてしてなんだ」という。この論理は典型的な「非常時の論理」というやつで、戦争中と同じ論理です。女性はスカート履いてるだけで「非国民」といわれる論理です。
>>戦争するのも戦争反対するのも同じ論理。
談合は何故悪いかについて実質的なことが論議されなくなってきている。だいたい談合はやった本人が悪いと思っていない。でも、端的に言うとはっきりしています。要するに、アメリカの建設会社が入れないから談合をやめろ、という話しなのです。アメリカの建設会社をどうするかについては別にすればいいのに。
>>反談合の一大キャンペーンがあった。ここ数年は受注調整でなく、入札辞退・受注回避のための談合だ。
アメリカの都合で作られ、アメリカの国益を増大させることを目的にした制度であるという点で、9条と自衛隊は無矛盾なのです。これを「たしかに矛盾していない」と素直に受け取ると、それは「日本はアメリカの属国である」という事実を受け入れることになってしまう。真の矛盾は日本がアメリカの事実上の属国であり、それを日本人が認めようとしないというところにあるのですけれど、そのような真の病因はまるごと「存在しない」ことになっている。抑圧の典型的な症例なんです。でも、この抑圧は「それでいい」というのが僕の考えです。7抑圧のせいで、かなり日本人はゆがんでしまって、さまざまな神経症を発症していますが、「日本はアメリカの属国である」という現実を正面から見つめて、その衝撃的事実を受け入れられるほどの精神的成熟を日本人に期待することはできない。だったら、狂ったままの方がまだしも幸福ではないか、と。だから今にして思えば。「55年体制」というのは実によくできた政治的装置だったと思います。日本社会のすべての矛盾は護憲派と改憲派、革新と保守の間のドメスティックな対立に起因しており、この対立さえ止揚されれば、すべたはハッピーになる…という物語をみんな信じるふりをしていた。「ふりえおしている」だけで、本気で信じていたわけじゃない。だから保革の「終わりなきもたれ合い」という制度になっていたわけです。
でも、戦後60年たって、その「発狂ソリューション」についての国民的合意が段々壊れて来た。一つは経済成長で国際社会の中での日本のプレゼンスが増してきた…と日本人は思い始めた。一つは、日米関係が相対的に良好に推移してきたせいで、アメリカに対する伝統的な恐怖や嫌悪が軽減してきたこと。一つはブッシュ政権になってからアメリカの外交上の失敗が続いて、アメリカの凋落の予兆が見えてきたこと。そういったファクターが絡んで「日本はアメリカの属国である」という戦後日本の「出生の秘密」を隠ぺいするための「蓋」として存在して来た改憲・護憲、革新・保守という二項対立がリアリティーを失ってしまった。小泉さんがブッシュとため口をきいたり靖国参拝したりして嫌がらせするのは、その兆候だろうと思うんです。
>>小泉さんが嫌がらせしてたとは恐れ入る。俺は彼のことは単なる媚米だと思ってた。しかし、2026年現在、まだまだ、属国という言説はまだ大ぴらには語られていない。ところが、アメリカ側がもう絶縁したいみたいなことを言い出して、日本側も脱属国を言い始めた。しかし、アメリカ以外に組むとしたらアジアの国かロシアしかない・・・さて、組めるか???
大地震が起きたら、そのときは建築基準法をクリアしている建物もクリアしてない建物もどっちも倒れてしまうから責任の追及はなされない。阪神大震災のときも倒れた建物の中には建築基準法違反のものが多かったと思いますが、残部倒れちゃったからもう遡及そようがない。地震が起きるまで分からないし、大地震が起きたらもうわからない。だから、あの耐震偽装事件で一番道徳的に許せないのは、関係者全員が「どうせ起きるなら大地震が生きてくれ」と祈っていたに違いないということなんですよ。
「談合はいけない」という、ソフトを変えろという話しは厄介です。日本側でそれを変えるとなるとコストが高くなり、そのコストをこちらが負担しなくてはならなくなる。だったら、ある程度のコストをアメリカに払ってやればいいんです。アメリカでなにか建てるときに融通するとか少し損をしてやって高級なバーターを考えればいいことです。アメリカ人はすぐ自分たちと同じシステムにしろ、と言うけれど、まともに聞いていたらコストがかかり過ぎることもある。
>>談合は表面上なくなった。一方でアメリカのゼネコンは日本で仕事できない、同時に売り手市場になってコストのつけがゼネコンから客に回る。
農産物を入れるということは、商売としてお金を得るというよりも、食べ物は人間の体を作るものですから、アメリカ産のものを日本人に食べさせて日本人の食生活をアメリカ化し、日本人の体質をアメリカ化するということだと思うんです。だからこそ、ヨーロッパではマクドナルドのローマ出店に反対するスローフード運動が起こる。イタリア人にしてみたら、それはアメリカの牛肉がヨーロッパ人の身体を侵すことを拒否する身振りでもあるわけです。
>>身も心もアメリカ化…鎖国すれば…
根本的に牛肉を食べるということは勧めてはいけないことではないでしょうか。なぜというと当たり前で、あれだけ土地を疲弊させ、大量の水を必要とする食料はないからです。大量の水を使って牧草地にしてから牛を放し、それから牛肉にするわけで、大変な高コストです。事前環境の観点からいうと、あんなものは続けられない。同じだけの土地を小麦畑にして人間がそれを食べた方が食糧需給の能率から言ったらよいに決まっているのです。牛肉をわずかだけ蝕する日本型食生活の方が。環境的には早くからもう正解にたどりついていた。アメリカが未開拓の野生状態の広大な土地を抱えていて無尽蔵に牧場があったからこそ、牛肉の大量生産は成り立っていたのです。オーストラリアも同様です。
>>植物を牛に食わせてそれを食うよりは植物を直接喰った方が効率がいいのは当たり前。日本は鎖国時代、植物中心の食生活であった。
どの土地にもそこが受け入れられる人口容量の限界があり、一億三千万人という数値はすでに日本列島の人口容量を超えているのだから、少子化で抑制行動を取るのは生物として当然であるという主張があって、納得しました。
減ったらいけない、と言うけれど、減ったらどういう問題が起こるのか、ということをきちんと議論しなくてはいけない。僕が一番危ないと思うはそこです。日米関係に関しても即物的に、平たく基本を考えないと身も蓋もなくなる。
少子化局面で「どうやって少ない人数で社会を回して行くか」を考えずに、「どうやって子供をたくさん産ませるか」しか考えない…
減るのはダメというだけでなくて、減ったらどう困るのか、減ったらどうよくなるのかという即物的な結果を考えれば、少子化は悪いの一辺倒ではなくて、どう生かすかということも考え得ると思います。
>>移民もなしで少ない人口で有機農法で鎖国時代の生活…
テロ防止の一番いい方法は、テロリストに恨まれるような外交政策を取らないことなんですけど、そういう発想はアメリカ人にはない。テロ予防として思いつくのはアフガニスタンやイラクを攻撃してテロリスト供給源を根本から断つという手だけでそれがテロリストを拡大再生産しているということにどうしても気づかない。これは構造的な無知ですね。アメリカ人も日本人と同じようにどこかで狂っていて、狂っている事の代償として現在の繁栄を維持しているわけだから、しかたがないのかもしれないけれど。事の当否はともかく、どちらの政策がコストがかかるかというクールな計算を立てることができなくなっている。戦争するお金があったら学校でも病院でも福祉施設でも奨学金でもいくらでも使い道はある。平和で豊かな社会からテロリストは生まれない。だからテロ対策に金属探知機作るよりは、中東に人道支援した方が安上がりという判断はそろばん上は「あり」、でしょう。こういうのは正しい正しくないではなく、コスト計算なんですけどね。
>>軍産複合体という狂ったものによるコスト計算ではテロリストの拡大再生産がベスト。日本では「ごっこ」という狂気が現実を見ないで「公平・客観・中立」を追求する。
「公平・客観・中立」は「感覚」を考えから外している、ということなんです。感覚的にとらえる限り、誰一人として同じ体験は絶対にできない。にもかかわらずにその感覚的な部分を消してしまってあたかも公平中立な視点があるかのように語る。これこそが戦後日本の加工です。この奇妙な加工をずっと続けたおかげで、変なことを言うようだけど、自殺が増えた。誰もが同じ体験をしているのだとなったら「俺が生きていて何の意味がある?」となるでしょう。自分が生きているということは、ほかの誰が生きることとも違う。一瞬一瞬が違ってここまで来ているんです。それを「個性」とか変なことを言い出して価値観をつけているけど、どういうつもりで言っているのか、おかしい。単純に「俺は俺だ」というだけのことなのです。放っておいたって顔が違うのだから誰だって生まれた時点で個性的なのです。ことさら言う必要もない。それが「公平・客観・中立」な視点がひとつあるなら、「俺はいなくてもいいや」となってしまう。見ている物はそれぞれに絶対に違うはずなのです。「公平・客観・中立」があるとすると、「一般市民A」がいるから「一般市民B」「一般市民C」はいなくてもいいいじゃないか、という話しになってしまう。
>>55年体制体制=保革・メディアのもたれ合い=公平・客観・中立…「ごっこ」。2025年トランプ2期が始まり、ようやくこれがほころび始めた。「個性的でなくっちゃあいけない」という強迫観念が個性を見えなくさせ、自殺したり自分探しを始めたり…
戦後、「個性」が言われ始めて何が起こったかというと上役がさぼり、教師がサボるようになりました。なぜなら上役や教師というものは、人を見る目がなくっちゃできないことだったのです。それで、「お前はあっち。お前はこっち」って示してやるのが本来の役目だったんです。それを「個性」という内在型にしたら自己責任だけになっちゃいました。入学願書に「自分の個性」とか書かせるでしょう?本来、「個性」というのは他人の目にどう映るのかということのはずでしょう。そうやって年寄りが人を見ることをサボるから同時に年寄りの意味がなくなりました。長く付き合って見る目があるからこそ、「お前はああいうことをやれよ」って言って新聞読んでいればよかったんです。個性なんて違って当たり前だからこそ、「お前はこういう風に」「お前はこれは向かない」と違いを見る目が大事なのに、それが「個性」ですべて崩れてしまった。人がどう見ようが「個性」はあるものだということになってしまった。「見る目」がないと「個性」なんてないのも同じです。他人のことが分からなくて、どうやって生きられるでしょう。社会は共通背性の上に成り立つものです。「個性を持て」というよりも「他人の気持ちを分かるようになれ」という方がよいはずです。
だいたい自分の個性って、ほとんど人に言われて初めて気がつくものじゃないですか。「私はこれこういうものです」と自己申告するものじゃあないですよ。「個性は内在しているのではなくて、人を見る目だ」というのと同じで、オーラルな言語というのは、聞いている相手が判断するもののはずです。下手でも一生懸命喋ってる時にちゃんと聞いてくれる人はいい人で、それで分かってくれる人は頭もいい人なのです。
>>自分探し。自分に向いた仕事を求めて転職。バッカじゃないか。「人は一人では生きて行けない」という言葉の意味は「他人がいて、初めて自分の存在を認識する(一人っきりでいれば動物と同じで自意識がない)」という意味だ。
「ウチダ、勉強の邪魔をするな」と言って苦々しい顔をしていた優等生が、大学に入ったらあっという間に全共闘に衣替えして、その連中が今度は僕を捕まえて「ウチダ、革命の邪魔をするな」と叱り飛ばす。なんかいつも怒られるばかりなんだなと思っているうちに、みなさん髪を七三に分けて中央官庁とか一流企業にどんどん入ってしまって、またまた僕は取り残されてしまった。あの方たちはガリ勉高校生であったとき、全共闘学生だった時と出世主義のサラリーマンであったときの基本的な構えは別に変っていないんです。要するに、いばって、人を小突き回すのが好きなんですよ。だから、集団を作って衆を頼んで威張る。我々の世代はとにかく頭数が多いので世代単位で行動するといくらでも威張れるんです。
>>団塊の世代…我先にバスの乗るのは得意。だが、そのバスの行き先を知ろうとはしない。
正にそれが日本の世間の悪いところなのです。戦争中がそうでした。戦争中に威張っていたヤツが、全く同じでした。あそこまで状況が変になると、ほとんどほとんど精神に異常をきたしているんじゃあというヤツの声が一番でかくなる。だいたいが、声を大にして言うことは極端なことに決まっているのですよ。
>>天皇陛下万歳がマッカーサー万歳に
アメリカは自分たちは「グッドカガイ」で、自分たちに反対するのは「バッドガイ」だという、単純なストーリーラインの中に、全部を落とし込んでしまう。政治家も、難しいことを言う人には票が集まらない。ある程度の政治力を持たないと思ったら、嫌でもシンプルな政治的立場に立って発言しなきゃならない。その単純化圧力がアメリカ人の知性を深く損なっているような気がします。
>>日本では同調圧力。
日本もそれを追っている部分がありますよ。よくアメリカで起こったことは十年後に日本で起きるといいます。能率や効率を考えると、人間はみんな同じにした方が明らかにいいのです。ファーストフードがそうですが、同じものを食べさせておけば効率がいいに決まっています。「俺はこんなもん、食いたくねえ」という輩がいると厄介になります。ヨーロッパはそれが少しはわかっているから、そこがアメリカとヨーロッパの対立点になっている。
アメリカ人はもともとそういヨーロッパのぐちゃぐちゃしたところが嫌いで、すっきりした物語の中で生きたい人達が移民して作った国ですからね。老いて腐ったヨーロッパに後ろ足で砂をかけて出て来た人たちの国だから、建国の原理そのものがシンプル志向なのですよ。アメリカでは独立宣言に全て大事なことが書いてある。アメリカのあるべき理想がすでに最初に書かれている。達成すべき完成形がヴァーチャルにせよ最初から示されているわけですから、アメリカ政治では漸進的な改良ということがない。政治制度に改善の余地があるということは、そもそも最初の建国理念が不備だ、認めることになってしまうから。
それであの人たちは進化論を認めないのかもしれません。
科学技術の進化は認めるけれど、人間が進化するとか成熟するということは考えていない。あの国の人たちが老いてなおパワフルとかヤングアットハートとかいうありようを好むのは「老成」ということに対するほとんど本能的な嫌悪があるからでしょう。もしかすると、アメリカにおける大人やセリ塾五sた人間の複雑さや深みをユダヤ人が代表してしたかもしれませんね。だからこそユダヤ人が政治経済の実権やメディアを握っていたり、作家やフィルムメーカーに際立っているのかもしれない。アメリカ社会の成熟パートをユダヤ人に割り振って、自分たちは無垢で単純な「子ども」役に徹するという棲み分けがなされているんでしょう。
アメリカの場合は社会システムが破綻すると、必ず「原点に帰る」という形になる。実際に新しい制度を作る場合でも、そういう「原点回帰」という話型を通過しない限り、国民的合意が得られないようになっている。システムが「未熟」なせいで破綻したのだから、より「成熟」したシステムを構築しようという話しではなく、むしろ「老化」によってシステムが破綻をきたしたのだから生成の原点に戻ればすべては解決するという話しに持ちこもうとする。その物語がグローバリゼーションと一緒に日本に入って来たんじゃないでしょうか。成熟を価値として認めない。システム破綻の原因を「未熟」ではなく、「老化」として理解する。このチープでシンプルな物語が今の若手の政治家のほとんどに浸透しているんじゃないでしょうか。何かというと、「システムをもっと若返らせよいう」とみんな呪文のように唱えていますけれど、どうして「システムをもっと成熟させよう」とは言わないのか。その理由を吟味する知恵が働かないという一点をとっても、日本の政治家やメディア知識人のほとんどが外見は老人でも中身は「見聞の狭い子供」でしかないことの証拠として十分だと思いますけどね。
ヨーロッパだって社会をシステムとして完成させていこうとして散々やって、その中でまたフランス革命じゃアないけれど壊してみて、作り直して、ともかく人間が努力して何とかするというシステムを作っていった。でもアメリカの場合には、モノに余裕があったのですよ。土地は広いし、石油は出るし、豊かだったのです。だからシステムがいい加減でも、国として機能したのでしょう。アメリカの将来を考えると、旧世界のようにアメリカがシステム型に変換できるかという問題がありますね。
>>資源が豊富だったアメリカは他国(特に日本)の参考にならない。そして資源(=フロンティア開拓)に限界が見えて来たアメリカが今までの延長線上で成熟・進化するのでなく、先祖返りしようとして苦しんでいる。
(州知事が州政府スタッフを連れて大統領になるという)州が統治者養成システムとして機能していて大統領の失政をリスクヘッジしている。日本のメディアはアメリカ政治の事と言うと共和党・民主党の二大政党制のことばかり言いますけど、一番重要なのは州単位での自律が機能しているということだと思うんですよ。このフレキシブルでかなろでたらめなシステムこそ、近代アメリカの劇的な成功の秘訣だと僕は思うんです。
>>トランプはこの点でも例外だ。
ヤクザというのは「相手がどのようなことを言おうと、どのような行動を取ろうと、それが彼にとってつねに「想定のできごと」でしかないことを思い知らせ、同時に絶えず相手の想定を裏切る言動を取ることで相手に無力感を感じさせる」ことのプロである。
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