辺野古の女子高校生溺死事故へのアプローチ
辺野古の女子高校生溺死事故への投稿や記事を様々見るが、安全とか、学校や基地反対運動家たちのの無反省・誠意のなさや沖縄県知事・共産党・社民党と基地反対運動との関係やらが取り上げられている。俺は学校や基地反対運動の反省のなさ・不誠実は過去の日本の左翼運動の歴史を振り返ればごく当然だ、皆さん、現代のハラスメントとかポリティカルコレクトネスなどという「wokeな」視点でなく、日本の左翼運動の歴史を振り返ってみれば、学校や基地反対運動の連中の「人命・安全より革命」という姿勢・態度はごく当たり前だ、と理解できるよ、と言いたい。俺が一番驚いたのは、このような「極左」活動家が残存しているということではなく、一見穏健そうに見えるキリスト教系の大学や高校がキリスト教の皮をかぶった「極左」に浸食されているということだ。この「浸食」のメカニズムには非常に興味がある。他にも様々浸食されている学校や組織があるだろう。このメカニズム及び「浸食」されている学校・組織は名前は公表されるべきだ。俺の興味はそこにある。
日本の左翼運動は戦後大いに盛り上がったが、1950年代以降GHQに押さえ込まれた。これが1960年の安保反対から再び大衆に広まった。左翼運動は学生運動と組合活動の二つが主流だが、学生運動は、1960年代前半、共産党系の「全学連」が、次いで1968~1969年には世界的な革命ムードの盛り上がりとともに反共産党の「全共闘」がリードし、学費の値上げ反対を口実にストライキをして学校を封鎖し、大学の教授たちを吊るし上げるという、今考えると信じられないような「革命」運動をしたが、本当は革命なぞ無関係で、ただ単にストレスや不満、不安のはけ口として学校を「体制側・反革命」に仕立て上げ、そちら側の人間を吊るし上げて留飲を下げていただけということではないか。そして、多くの「学生革命家」は、学校を出れば、「体制側」の企業に就職した。(養老孟子さんは自分が東大の助手時代に全共闘から吊るし上げられた経験から、「全共闘の連中は戦争中の竹槍持った軍国少年と同じだ、軍国少年は意に沿わない者は『非国民』と決めつけ、全共闘は「反革命」と吊るし上げた。全共闘は初期には本当に竹槍をもって集まっていた」と言う。)
日教組や自治労や国労・動労など官公庁や国鉄の組合も、同様に使用者の横暴・労働強化に抵抗するという名目で仕事をさぼり、使用者側を吊るし上げた。1960年代の10年間は、日本中(世界中)が「はしかにかかった」ように「革命病」にかかって狂っていた、としか言いようがないが、この、60年も前の革命病が治らない連中がわずかだが残存していて、日教組や自治労や共産党、社民党あたりから金をもらって基地反対運動その他の”革命運動”をしているのだ。
1960年代後半に世界中に巻き起こった「革命運動」にはモデルがあって、それは中国の毛沢東が生み出した紅衛兵だ。以下Wikipediaから抜粋した通り紅衛兵が華々しく活躍したのは1966年1年間だけだが、中国の紅衛兵や文化大革命は美化されて世界中に伝わり、あの、John Lennonだって、revolutionなんて歌を作って毛沢東を賛美していた。日本の学生同様、世界中の若者はみんなストレスや不安・不満を抱えて革命病にかかってたんだ。そして、各国で燃え上がった左翼運動は紅衛兵と同じように、1970年以降急速にしぼんで行く。
俺が大学に入ったのは1972年で、学生運動全盛時には俺は学校の外で何が起こってるのかなんて興味を持たず、受験勉強してた。学校に入ったら、学生運動の余韻だけが残っていた。学生運動って「大学はいい会社・出世へのエレベーター」だという考えに反抗して、エレベーターから降りてエレベーターを壊そう、というものだったとも言えるが、俺は、入学当時は「エレベーターに乗れたから受験勉強から逃げられた」とただひたすら嬉しく、解放感に浸っていた。卒業する時には、いい会社・出世なんて考えず、「俺みたいな人間でも長続きしそうな会社」を選び、その選択は見事に当たって、途中嫌になることはあったが、出世なんかに興味を持つ輩は会社にほとんどおらず、結局、定年退職するまで43年間も勤め続けた。
以下、Wikipediaより「紅衛兵」を抜粋する。過激さを競って内輪もめ・殺し合いをしたり、「造反有理」などと訳の分からないお題目で年寄り・親・上司・セレブなどを吊るし上げ殺す、という無法が罷り通ったが、こういう現象は日本でも全く同じように起こった…結局そういう無法・不作法によって大衆の支持を失ったのだ。
紅衛兵(こうえいへい)は、中華人民共和国の文化大革命時期に毛沢東によって動員された全国的な学生運動を行った組織・人々[1]。学生が主体であるが、広義には工場労働者を含めた大衆運動と同じ意味で使われることもある。紅衛兵の動きは、1966年の北京の「赤い八月」の最中とその後に最高潮に達した[2][3]。(略)
1950年代の人民公社政策や大躍進運動の失敗によって実権を失っていた毛沢東は1965年から実権派に対する奪権を目指し、文化大革命を計画。1966年5月29日、清華大学附属中学(日本の高等学校に相当)の学生たちがこの動きを支持するために秘密裏に紅衛兵を組織したのが始まりである。(略)
北京の紅衛兵は『毛主席語録』を掲げて「破四旧(四旧打破)」(旧い思想・文化・風俗・習慣の打破)を叫んで街頭へ繰り出し、劉少奇や鄧小平に代表される実権派、反革命分子を攻撃した。人民服ではなく、ジーンズをはいた若者を「西洋的」であるとして取り囲んで服を切り刻んだり、貴重な文化財を片っぱしから破壊し(文化浄化)、果ては多くの人々に暴行を加え死傷させた。同年8月1日、中国共産党中央委員会主席毛沢東は清華大学付属中学紅衛兵に書簡を送り、「造反有理(造反にこそ道理あり)」として支持を表明した。のちにこの言葉に「革命無罪(革命に罪なし)」が付随した。8月12日、中国共産党中央委員会全体会議が発表した「プロレタリア文化大革命に関する決定」でも革命的青少年が大字報・大弁論の形式で「資本主義の道を歩む実権派」を攻撃することを擁護し、紅衛兵運動は党に公認された。
1966年8月18日、天安門広場で約100万人の紅衛兵が集会を始めると、同年11月26日まで8回もの集会が行われた[8]。毛沢東は紅衛兵延べ1000万人と北京の天安門広場で会見し、紅衛兵運動は全国に拡大する。しかし、紅衛兵運動は派閥に分裂し、大規模な武力闘争(武闘)を繰り返すようになり、毛沢東にも統制できなくなった。各派閥が「自分達の方がより革命的である」ことを証明するために他のグループよりさらに過激な運動に走ったり、敵対派閥を「反革命的だ」と攻撃するような事態に陥ったためである。最終的には毛沢東の父が富農だったことを批判する壁新聞まで出現し、もはや毛沢東すら紅衛兵をコントロールできないことが明らかになった。武闘の結果、大量の死者が発生してもいた(重慶の文革墓群は、現存する唯一の武闘犠牲者集団墓地である)。紅衛兵は中南海、紫禁城、核開発関連の軍事施設への侵入を試み、毛沢東の護衛を担当する8341部隊はこれを撃退していた[9]。
1967年2月までには中国共産党政府は人民解放軍を投入して紅衛兵を排除することを決定し[10]、同年9月5日に中央軍事委員会主席の毛沢東は中国に秩序を回復させることを人民解放軍に命じ[11]、人民解放軍と紅衛兵の武力衝突が起き、広西チワン族自治区では人民解放軍が多数の紅衛兵を処刑した[6]。
1968年から1969年にかけては狂信的な紅衛兵残党の追放を画策した毛沢東によって知識青年上山下郷運動が展開され[4]、農村支援の名目のもとに約1600万の学生が農村や辺境に駆り出され[12][13]、多くの学生は過酷な環境に適応できなかったために亡くなった[14]
コメント
コメントを投稿