日本人には理解できない…

 「海峡を越えたホームラン」(1988年、関川夏央)を読む。韓国のプロ野球に移籍した在日の野球選手の話。韓国人論だ。ひっくり返せば韓国人論を通した日本人論。韓国人から見た日本・日本人が描かれていて結構面白かったが、唯一理解できないのが以下に引用したくだり:

同姓同本の男女の婚姻に対して、(日本人に言わせればだが)異常なまでの警戒心を見せるのは、近親婚の可能性を忌むというより、すでに家系樹(書かれたものとしては族譜=チョクボ)のなかで安定している代数(ジェネレーション)が崩れてしまうことを恐れるからだ。第30世代の女子と第31世代の男子が結婚して生まれた子供を、族譜のなかにはめこむことはできないのである。

>>Wiipedoa「族譜」の「朝鮮の族譜」には「伝統的な族譜は、宗族の男性構成員について、生没年月日、経歴、配偶者などが記載される。配偶者は姓と本貫のみの記載であり、女子には本人の名が載せられずに夫と子の姓名・本貫が記される。」とあるが、上記の記述の理解には役立たない。族譜作成上、嫁さんなんてどこの馬の骨ともしれない女でもいいんだから、本貫も世代も無関係としか思えない。

うっすらと分かるのは、朝鮮は階層社会で、身分が厳しく分かれていたが、その身分を証明するのは族譜だと信じられていたということだ。従って、族譜は両班のような、「働かなくても偉そうにしていられる」階級にとっては非常に大切だった。上記の通り、族譜がうまく書けなければ、結婚もできなかった。朝鮮には、「下剋上」がなかったのか?日本人は卑しい身分の貧乏人が天下を取った。つまり、韓国に比べれば、身分や階層が流動的だった。元々偉かった天皇皇族を除き、一般人は偉くなった後、適当に祖先を見繕って家系図を作ったが、誰もそんなもの有難がらなかった。もしかすると、朝鮮人にとって「働く」ということが死ぬほど恥ずかしいことで、「働かなくてもいい身分」を保証してくれる族譜は、命に代えても守るべきものだったのか?

朝鮮人にとっては族譜によって証明される「家柄」というフィクションが「労働」に対する免罪符として重要だったのに対し、日本人にとって重要だったフィクションは土地や家屋の所有を担保する「家」だっだ。両方ともアイデンティティーの拠り所だった。簡単に言えば、朝鮮では身分が、日本では土地がアイデンティティーの源泉だった。

梶山季之の「族譜・李朝残影」をもう一度読み直してみようか。

コメント

このブログの人気の投稿

”関口宏の一番新しい近現代史”を見る

IQ188という記録で注目を浴びた太田三砂貴(おおた・みさき)さん

長嶋追悼:広岡さん