柄谷行人「哲学の起源」(2012年)より

柄谷行人「哲学の起源」より抜粋する。柄谷さんは、多数による支配=デモクラシーでなく、ソクラテスのように、無支配の(支配のない)世界を理想とした。 プラトンは、デモクラシーは衆愚に堕し、独裁になるとし、それを回避するには哲人による独裁が必要とした。ピーター・ティールもこれだ。哲人を王とするか、王を哲人にするか?今はトランプという、とても哲人にはなれそうにない男を王にしたが、無理なことは分かっているだろう。他の哲人候補(ヴァンス)を王に据えようということだろう。

日本人は元来、労働に価値を見出し、尊重した。この、労働によって生まれる価値によって民主主義のコストを多少とも賄うことができる。他国に植民してコストを賄うのではない民主主義は日本でなら可能ではないか?弱い軍隊か軍隊なしで行くしかないだろうから、侵略されてしまうか。それとも、強い軍隊に価値を置く国に守ってもらうしかないか?そう考えると、アメリカに守ってもらうのはそれほど悪い選択ではなかったかも。

・不平等を感じる人は他の土地に逃げる自由があれば、平等と自由の両立が可能

・スパルタでは平等を守るために自由を犠牲にした…アテネでは自由と平等を両立するコストを賄うために他国を侵略し、奴隷を増やした。(それを実現するための軍人を一番偉いとし、生産活動に携わる人間を蔑み、奴隷にした)…欧米で発達した「民主主義」はこれらのいずれかをモデにしたものである。

・イオニアでは、自由と平等を他の方法で両立させた。つまり、生産活動や商業活動を卑しいものとせず、コストを賄うための富を生み出した。侵略できるほど強い軍隊を持たずにフロンテイアを開拓したが、行き詰まり、他国に侵略された…アメリカに国防を肩代りしてもらった日本の高度成長モデルに近い。

「肉体」(感性)の束縛を超えた「哲学者」=理性の人・哲人=魂を肉体という牢獄から解放した人

・ナイル川の氾濫が生み出した数学、灌漑のために必要だった数学、金の計算に必要だった数学

過度の自由は、個人においても国家においても、ただ過度の隷属状態をもたらす…アメリカがそうだ


以下抜粋:

イオニアにあったのはデモクラシーではなくて、イソノミアである。イソノミアとデモクラシーは異なるのだが、ほとんど同一視されている。「歴史」において、イソノミアという概念を用いたヘロドトスも例外ではない。私の見る限り、この二つの概念を区別し、しかも、その差異に重要な意義を見ようとしたのはアンナ・ハーレントだけである。

政治現象としての自由(イソノミア)は、ギリシアの都市国家の出現と時を同じくして生まれた。ヘロドトス以来、それは、市民が支配者と被支配者に分化せず、無支配(ノールール)関係のもとに集団生活を送っているような政治組織の一形態を意味していた。古代人が述べているところによると、色々な統治形態のなかでこのイソノミアの顕著な性格は支配の観念(君主制monocrachyや寡頭制oligarchyのarchy・・・統治する・・・からきた・・・や民主制democracyのcracry・・・支配する・・・)がそれに全く欠けていることであった。都市国家は民主政ではなくイソノミアであると思われていた。「民主政」という言葉には当時でも多数支配、多数者の支配を意味していたが、もともとはイソノミアに反対していた人々が作った言葉であった。彼らはこう言おうとしたのである。「諸君たちの言う『無支配』というものは実際は別の種類の支配関係に過ぎない。それは最悪の統治形態、つまり、民衆(デロス)による支配である」すなわち、トックビルの洞察に従って我々はしばしば自由に対する脅威だと考えている平等は、もともと、自由とほとんど同じものなのだった。

イソノミアは何故イオニア諸都市に始まるのか。そこでは植民者たちがそれまでの氏族・部族的な伝統を一度切断し、それまでの拘束や特権を放棄して、新たな盟約的共同体を創設したからである。それに比べるとアテネやスパルタのようなポリスは氏族の盟約連合として形成されたため、旧来の氏族的伝統を濃厚に留めたままであった。それがポリスの中の不平等、あるいは階級対立として残ったのである。そのような所でイソノミアを実現しようとすればデモクラシー、すなわち多数決原理による支配しかない。イオニアでは人々は伝統的な支配関係から自由であった。しかし、そこではイソノミアはたんに抽象的な平等性を意味したのではない。人々は実際に経済的にも平等であった。そこでは貨幣経済が発達したが、それが貧富の格差をもたらすことがなかったのである。イオニアでは土地を持たない者は他人の土地で働く代わりに、別の都市に移住した。そのため、大土地所有が成立しなかったのである。その意味で「自由」が「平等」をもたらしたと言える。それに対してギリシア本土では貨幣経済の発展は深刻な階級対立をもたらした。多くの市民が債務奴隷に転落したのである。それを阻止するためにスパルタでは、貨幣経済や交易を廃止し、経済的平等を徹底化した。その結果、「自由」が犠牲にされることになった。一方、アテネでは市場経済と自由とを保持したままで、多数者である貧困者階級が国家権力を通じて少数の富裕者から富の再分配を強制するようなシステムが創り出された。それがアテネのデモクラシーだったのである。

アリストテレスは言う「民主制的国制の根本原理は自由である。そして自由の一つは順番に支配されたり支配したりすることである」「民主制においては貧乏な人々が富裕な人々より有力であることになる。というのは、彼らはより多数であるが、この多数の者が決定したことが最高の権威を持つからである。」そこでは平等は少数の貴族階級の自由を制限することによって実現される。そこに、近代の民主主義がかかえる問題が露出している。近代の民主主義とは自由主義と平等主義の結合、つまり、自由ー民主主義である。それは相克する自由と平等の結合である。自由を指向すれば不平等になり、平等を指向すれば自由が損なわれる。自由ー平等主義はこのジレンマを超えることができない。それはたとえば、自由を志向するリバタリアン(新自由主義)という極と、平等を志向する社会民主主義(福祉国家主義)の極を振り子のように揺れ動くという形をとることになる。現在、自由ー民主主義は人類が到達した最終的な形態(歴史の終焉)であり、その限界に耐えつつ漸進して行くしかない、と考えられている。しかし、当然ながら、自由ー民主主義は最後の形態などではない。それを越える道はあるのだ。そして、そのための鍵を古代ギリシアに見出すことが可能である。が、それは決してアテネではない。アテネのデモクラシーを範とすることによって、近代の民主主義の問題を解決するkとなどできはしない。むしろ、近代の民主主義に存する困難の原型こそ、アテネに見出すべきなのだ。

アテネの民主主義は奴隷や寄留外国人を搾取することだけでなく、他のポリスを支配することによって実現された。たとえば、ペリクレスは市民の経済的格差を解消するために、デロス同盟を通して他のポリスから収奪した金を流用した。それは市民に議会に出席する日当として分配された。つまり、アテネの「直接民主主義」は帝国主義的な膨張によって可能となったのである。それは大衆を扇動するデマゴーグ(民衆指導者)を生み出すことになった。

モルガンは、北アメリカの氏族社会について次のように述べた。「村落がその成員で人口過剰になると、移民団が同じ河流を或いはのぼり或いは下り、新しい村落を創設した。これが時折繰り返され、このような村落が数個発生した。各村落はそれぞれ独立し、自治的の集団であったが、相互の防衛のために、一つの連名或いは連合体に結合したのである」定住化と共に成立する氏族社会は拡大するにつれて、その内部に深刻な不平等、対立を生み出す。それを解消する手段の一つが植民であった。この問題に関して人類学者のテスターは次のように述べている。「遊動狩猟=採集民では、社会組織の柔軟性、集団分裂のたやすさ、可動性などが、皆の許容範囲の限界を超えた搾取を許さなかった。そんなことになれば、被搾取者はどこかに行って住み、集団は分裂したからである。従って、集団の決定は全員一致でしか行われなかった。定住生活の状況では、住民や備蓄の固定構造が人々の自由な移動をさまたげる要因となる。不満な人が出ていけないのだ。搾取が深刻になるわけである。

イオニア人が遊動性を回復したのは、広範囲の交易や手工業生産に従事することを通じてである。これは、ギリシアで一般的であった、戦士=農民の伝統を捨てることを意味する。ヘロドトスは職業的技術を軽蔑するギリシア人の慣習についてこう語っている。「ギリシア人が果たしてこのような慣習をもエジプト人から学んだかどうかは、私にも明確な判断が難しい。というのは私の見る限り、トラキア人、スキタイ人、ペルシア人、リュディア人はじめ殆どすべての異国人(非ギリシア人)が、職業的技術を習得する者達とその子孫を他の市民よりも下賤なものと見なし、このような手工業に携わらぬ者、中でも特に軍事に従事する者を尊貴なものとしているからである。ヘロドトスが指摘するように、技術的職業を軽視するのは他人から略奪したり他人を強制的に使役することを価値とするような文化だということである。対照的にイオニアで始まったのは、労働と交換によって生活することを価値とするような文化である。だがそれはなぜ階級分解をもたらさなかったのか。つまり、自由である事によって同時に平等であるというイソノミアの原理がどうしてそこに成立したのか。イオニアは独立自営農民が主であり、大土地所有者はいなかった。その原因は、使役可能な他者がいなかったことによる。土地を持たない者は、他人の土地で働くより、別の土地に移動したのである。その上、アテネやスパルタと違ってイオニアでは奴隷制生産に依拠することがなかった。大量の奴隷を所有し、かつその反抗や逃亡を阻止するためには、軍事的な国家でなければならないが、イオニアのポリスはそのような方向に進まなかった。彼らは積極的に商工業と交易に従事することによって生きたのである。

貨幣経済が貧富の差をもたらすのは、政治的な権限の不平等が存在する場合である。例えば、海外交易から大きな利益が得られるのは、それが国家によって独占される場合である。一般に、遠隔地交易は国家によっておこなわれる。官僚がそれを行う場合もあるし、商人にやらせて課税するという方法を取る場合もある。アテネも例外ではない。寄留外国人に交易させ、そこから税を取るのである。一方、アジア全般に広がったイオニア人の交易は、国家的でなく、私的交易だった。それは商工業者のネットワークによってなされた。そのような不平等や支配ー被支配の関係は、イオニアでは生じなかった。言い換えれば、イソノミア(無支配)が存在したのである。もしあるポリスに不平等や支配ー被支配関係が生まれたならば、人は別のところに移住すればよい。その意味で、イソノミアは根本的に遊動性を前提しているのである。さらに、イオニアに遊動性をもたらしたのは、商工業の発展である。イオニアでは交換様式AおよびBがCによって超えられ、その上で、交換様式Aの根源にある遊動性が高次元で回復されたのである。それが交換様式D、すなわち、自由であるとが平等であるようなイソノミアである。

アテネのデモクラシーが現代の自由民主主義(議会制民主主義)に繋がっているとすれば、イオニアのイソノミアはそれを越えるようなシステムへの鍵になるはずだ。

イオニアのイソノミアに類似するもう一つの例は、18世紀アメリカのタウンシップに見出される。これもまた、旧社会からの植民者によって形成されたのである。もちろん、北アメリカにおける植民と都市形成はどこで均一なわけではない。それらは、植民者がその母国とつながりを濃厚にもつか否かによって分けられる。例えば、スペインやフランスの植民地は本国の延長であった。そこでは、大農場が中心であり、労働力が不足すると、アフリカから奴隷が買い入れられた。一方、イギリスの植民地ではそのようなことが起きなかった。イギリスはすでに市民革命(1648年ピューリタン革命)を経ていたからである。イギリスはアメリカの植民地に対して、課税するほかには、ほとんど干渉しなかった。また、イギリス以外からの植民も許容した。こうしてアメリカ独特の市民社会のシステムは東部にあるイギリスの植民地において形成された。それがタウンシップと呼ばれるものである。例えば、入植者はタウンに入ると一定の土地を与えられる。それ以上の土地を持つことは許されるが、事実上不可能である。というのは、たとえ大土地を得たとしても、家族以外の労働力を得られないからだ。土地を持たない者は、他人の土地で働くよりも、フロンティアに向かう。また、タウンの政治に不満があれば出ていくことができる。つまり、ここでは成員が遊動性(自由)を持つことが平等をもたらすのである。タウンは評議会(タウンミーティング)によって運営され、自治的な裁判制をもっていた。タウンが大きくなることはない。その自治制を維持したまま、他のタウンと連邦して、ステートを形成する。このような連邦制はしばしば、モンテスキューの影響として語られる。しかし、タウンシップはそれ以前から、つまり、独立戦争によってアメリカ合衆国が形成される以前から存在していたのである。

第一にイオニアには移動可能なフロンティアが十分にあった、ということだ。そのため、自由であるがゆえに平等であるということがあり得たのだ。また、独立自営農民らの労働を重視するエートスに基づいて、商工業が発展した。第二に、イオニアの諸都市にも、周辺に彼らを脅かす国家がなかったということである。(イギリスの植民地であったアメリカでもイギリスに税を払うだけで、実質的な自治性をもっていたのだ。)

アメリカのタウンの場合、タウンシップを維持するためには、新たな空間が必要であった。それがなくなると、先住民が住んでいた地域を侵略・占領することになる。しかし、それはイギリスによって抑えられた。1763年にポンティアックという首長に率いられた先住民の反乱が起きた際、イギリスは先住民とアパラチア山脈から西の地域への移住を停止する協定を結んだのである。西部を開拓しようとしていた植民地の住民は、この措置に憤慨し、その後に政治的独立に向けての機運が高まった。イギリスから独立しなければならない、そのためには、分散していた州が結集せねばならない。そのように考えた結果、それまでのタウンの連邦は、独立戦争を通して、集権的な国家に転化したのである。タウンシップあるいは連邦制は有名無実となった。遊動性(自由)が平等をもたらすがそれを保持するために遊動性を可能にする空間を拡張しなければならない。ここに、イソノミア=タウンシップがはらむディレンマがある。アメリカの独立戦争は、タウンシップと連邦制を守るためになされたが、同時に、それを無化してしまったのである。一方、イオニアでは連邦は実現されなかった。そしてまさにそのために、隣国のリディアやペルシアの侵攻に対して抵抗できなかった。

民主制のもとでの貧困は、君主制のもとで幸福と呼ばれているものよりも価値があるとされるべきである。それはちょうど、自由が奴隷状態よりも価値あるものとされるのと同じことだ。

ペルシアの七長老の一人オタネスは、デモクラシーを採用することを主張した「独裁者というものは、父祖伝来の風習を破壊し、女を犯し、裁きを経ずして人命を奪うことだ。それに対して大衆による統治はまず第一にイソノミアという世にも美しい名目を具えており、第二には独裁者の行うようなことは一切行わぬということがある。職務の管掌は抽選により、役人は責任を持って職務に当たり、あらゆる国策は公論によって決せられる。」

アテネ人は労働(手仕事)を軽蔑するからこそ、奴隷制に向かったのである。手仕事への軽蔑はむろんアテネに限らない。遊牧民や戦士的な人々は手仕事を軽蔑する。また、家産官僚国家や奴隷制社会では当然、労働は軽視される。ゆえに、古代において、労働を肯定し技術を高く評価するような社会は稀有なのだ。たぶん、イオニア以外にはない。もし、ウェーバーのように、近代資本主義を支えた労働倫理を宗教改革に見出すなら、イオニアにおける商工業の発展の陰に一種の「宗教改革」を見るべきだ。

ピタゴラスは輪廻転生という観念をもたらしたと言われる。それによれば、魂は元来、不死すなわち神的な存在であるが、無知ゆえにみずからを汚し、その罪をつぐなうために肉体という墓に埋葬されている。われわれが生と呼んでいる地上の生活は、実は魂の死に他ならない。再び神的本性を回復しないなら、永久に輪廻転生の輪の中にとどまるほかない。それを脱するためには、魂は知恵(ソフィア)を求めなければならない。その意味で哲学(フィロソフィア)とは、輪廻転生の輪から解脱するための方法なのである。ピタゴラスは人生を競技会にたとえ、そこでは観客が最もよい、と述べたといわれる。それは、瞑想(観照)によって真理を把握することである。

ピタゴラスが目指したのは、全員が経済的に平等であり、また、男女も平等であるような共産主義的な社会である。このため、ピタゴラス教団と国家の間に確執が生じ、最終的に教団は弾圧されたのである。教団は各地に散らばり秘密結社として存続した。

ピタゴラスが親友ポリュクラテスとともに目指したのは、階級的に分裂した社会にイソノミアを回復することであった。そのために、デモクラシー(多数者支配)によって富の再分配を図ることになる。が、そこから現実に生まれたのは僭主政であった。ピタゴラスはそれをポリュクラテスの野望によると考えたようである。が、これは個人の野望の問題ではない。実際、ポリュクラテスが僭主になろうとしたのは、民衆がそれを熱望したからである。民衆は、彼らの欲望を満たしてくれる強い権力を望んだ。教訓の一つは大衆の自由な意志に任せてはならないということである。それは結果的に、大衆の自由を抑圧する独裁制に帰結するからだ。もう一つは、指導者が「肉体」(感性)の束縛を超えた「哲学者」でなければならないということである。さもなければ、指導者は単なる独裁者になってしまうからだ。

ピタゴラス教団には徹底的な平等があった。しかし、「自由」はなかった。ここでは一切の教説がピタゴラス一人のものであった。彼は絶対的権威をもったグルであった。しかし、ピタゴラスはの考えでは、グルは独裁者ではない。また、通常言われるような個人の自由は、真の自由ではない。それは肉体(感性)に支配された状態でしかない。真の自由は他人との関係においてではなく、個々人が魂を肉体という牢獄から解放することによって実現されるのである。ピタゴラスは、知と非知を峻別した。感覚による知は非知(仮象)であり、真の知は感覚を超えたものだ、と考えたのだ。しかし、このような考えは輪廻転生の観念と同様、アジアではありふれている。ニーチェは「この現世が『仮象』の世界で、あの世が『真』の世界であるとみなされるということが、或る症状の表れである。『別の世界』という表象の発生地は、すなわち、哲学者である。哲学者は理性の世界を捏造するが、この世界では、理性と論理的機能がふさわしい、ここから『真』の世界が由来する」

ピタゴラスは確かに「二重世界」を見出した。しかし、彼はそれを輪廻転生よりも、むしろ、数学に求めたのである。数学は文字と同じように、神官によって独占された知であった。たとえば、エジプトで数学が発展したのは、ナイル川の洪水の後に土地所有を確認するために測量する必要があったからだ。そこから測量地学=幾何学が生まれたのだが、それは神官によって研究され、その知識が大衆に公開されることはなかった。数学のもう一つの源泉として、バビロニアで発達した天文学がある。これも灌漑農業の必要から発展したものであり、神官によって研究され、占星術と不可分であった。しかし、イオニアでは神官が知識を独占するというようなことがなかった。また、天文学を受け入れながら、神官や呪術と結びついた占星術を拒んだ。イオニア人は「神々」を斥けた。イオニアでタレスらによって発展させられた数学は、その意味で、実用的であり、神秘的な要素はなかった。イオニアで数学への関心が増大した理由は、何よりも貨幣経済の発展である。そこでは、すべてのものの価値が貨幣によって量的に教示される。ゆえに、数が根源的なものとなる。ピタゴラスが数学を学んだのも、イオニアのそのような風土においてであった。ピタゴラスの教団では、音楽は特に、魂を浄化し輪廻から解脱するための手段と見なされていた。彼が明らかにしたのは、音楽の魔術的な力と感じられるような秘密が数(比例関係)にあるということである。ピタゴラスは魔術的ではなく、極めて合理的だった。音楽の他に彼が研究したのは天文学である。人々は早くから星座を知っていた。それは和音が比例関係によることを知らなくても、和音を用いていたのと同じである。ただ、和音の秘密を明らかにしたのは、ピタゴラスなのである。同様に、天体の運動の秘密をも明らかにしうると考えた。彼にとって天文学は「天界の音楽」を聴くことであった。弦楽器の音を何オクターブか高くすると、人間には聞こえなくなる。逆に、人間には聞こえなくとも、数学的な認識によって「天界の音楽」を知ることができる。そのような音楽は感覚を超えていると考えられる。ピタゴラスが二重世界(感性的世界/超感性的世界)という考えを唱えるようになったのは、ここからである。つまり、それはもっぱら数学にかかわるものだ。数学とは物と物との関係を把握することである。例えば、和音について言うと、個々の音がなければ、それらの比例(関係)は存在しない。逆にそれらの比例(関係)がなければ、音は音楽とならない。さて、音が存在するのと同じように、音の関係も存在するのか。しかり、とピタゴラスは考えた。のみならず、後者こそ真の実在である、と。ピタゴラスは万物のアルケー(始原)を数に見出した。

ソクラテスは私人としての「徳」と公人としての「徳」を区別しないのである。更に彼は自由民と奴隷の区別もしない。例えば、自由民の身内が多いので貧窮しているというエウロテロスに対して、奴隷と同じように労働すればよいではないか、という。また、奴隷のようなことはしたくないというエウロテロスに対して、ソクラテスは言う「だが、事実、国家の頭に立って国の仕事の面倒を見る人々は、その仕事のために前よりも奴隷になったとは考えられず、かえって一層自由性を高めたと考えられている」ソクラテスと共に、倫理が初めて問われたと言われる。だがそれは、ソクラテスによって「徳」が公的なものと私的なものの区別を超えたところに見出されたということ以外ではあり得ない。それはまた、公人であること私人であることの亀裂が生じないような市民社会を示唆するものである。そのような社会は現にイオニアにあった。それに対し、アテネのデモクラシーでは、公的であることそしてそのための「行動」がもっぱら尊重され、家政あるいは商工業のような「労働」が一般に軽侮されていたのである。

社会全体を制度的に変えようとすると、民会に行って人々を動かすというやり方、つまり、自ら公人として活動することになる。ソクラテスは民会に行く代わりにアゴラに行った。アゴラには決して公人となりえないような人々、すなわち、外国人、女性、奴隷がいた。民会にデモクラシーがあるとすれば、アゴラにはイソノミアがある。つまり、アテネではアゴラにしかイソノミアはありえなかった。ゆえに、彼はアゴラで活動することによってイオニア的な思想を回復させたのである。

プラトンは哲学者を王にするのが困難である以上、王を哲学者にすればよいと考えた。そして、シケリアの王を哲学者にしようとして、失敗し、奴隷として売られそうになった、このようにプラトンが他者との対話を試みたことはあるが、その他者とは王であり、民衆ではなかった。

デイオゲネスは、あいつに噛みつかれないよう用心しろと言われて、「心配するな、犬は青二才には噛みついたりしない」と応じた。彼はそのようなやり方を、問答として怒らせた相手になぐられても我慢し、「もしロバが僕を蹴ったのだとしたら、僕はロバを相手に訴訟を起こしただろうか」とうそぶいたソクラテスから学んだはずだ。プラトンと違い、ディオゲネスは実際に奴隷として売られた。奴隷の仕事として何ができるかと聞かれて彼は「人々を支配することだ」と答えた。

プラトンの「国家」では、ソクラテスは次のように語る。「数少ない哲学者たちが、何らかのめぐりあわせにより、欲すると欲しないとにかかわらず国の事を配慮するよに強制され、国の方も、彼らの言うことを従順に聞くように強制されるのでなければ、あるいは、現に権力の座にある人々なり王位にある人々なりの息子、ないしはその当人が、何らかの神の霊感を受けて、真実の哲学への真実の恋情に取りつかれるのでなければ、それまでは国家も、国政も、さらには一個人も同様に、決して完全な状態に達することはないだろう。」

プラトンは「過度の自由は、個人においても国家においても、ただ過度の隷属状態へと変化する以外に途はないもののようだね。それならまた、当然考えられることは僭主独裁が成立するのは民主制以外の他のどのような国制からでもないということだ。すなわち、思うに、最高度の自由からは、最も野蛮な最高度の隷属が生まれてくるのだ。」と言う。

ピタゴラスが直面したのは第一に民衆の問題である。民衆の自由に任せれば僭主政治になってしまう。なぜなら、彼らは真に「自由」ではないからだ。彼らを閉じ込めている肉体から解放しなければならない。そのために教団がいる。第二に指導者の問題である。ピタゴラスの親友ポリュクラテスが僭主になってしまったのは彼自身に問題があるからだ。指導者もまた肉体のくびきから自由にならなければならない。感覚による仮象世界を超えた真の世界を認識する者でなければならない。いいかえれば「哲学者」でなければならない。そこで彼は、哲学者が統治する教団を作り、それによって社会を変えようとしたのである。

プラトンは哲学王という考えをソクラテスに語らせているが、それはピタゴラスに由来するものであリ、ソクラテスには縁遠いものである。公人として活動することをしなかったソクラテスが「王」となることなど決してあり得ないからだ。ソクラテスは、公的なものが私的なものに、精神的なものが物質的なものに優越するという考えを拒否した。いいかえれば、彼は、アテネ的な二重世界にもピタゴラス的な二重世界にも異議を唱えたのである。

アテネ的な二重世界とは、公的なものと私的なものの分割である。ソクラテスはそのような二重世界の克服を私人として行おうとした。それは下からの変革、個々人からの変革である。つぎに、ピタゴラス的な二重世界について言えば、ソクラテスは自分が真理を握っているとは考えなかった。その意味で、彼は自分が無知であると考えた。そして知(真理)を握っていると考える人たちに虻のようにまとわりついて、問答に巻き込んだのである。「イロニー」と呼ばれるのは、そのような問答法である。それは「真の世界」への到達を目指すものではない。知と無知と言う二重世界の前提にある、「知」(真理)そのものの廃棄を目指すものである。

プラトンが目指したのは、魂が肉体を統治するような状態である。しかし、ソクラテスが目指したのは、統治そのものの廃棄であり、イソノミア(無支配)である。

ソクラテスはデモクラシーについて批判的だった。アテネの市民はソロンの改革以来、イオニア的なイソノミアの精神に触発されてきたが、現実には、イソノミアの堕落した形態であるデモクラシー(多数派支配)にとどまっていた。それは、公人と私人の分割、精神労働と肉体労働の分割を決して超えることはなかった。その中でソクラテスはデモクラシーが前提する公人と私人と言う二重世界を解体しようとした。それはイソノミアを回復することにほかならない。、他方、プラトンはデモクラシーそのものがソクラテスの死に責任があるとみなした。僭主政やデマゴーグ支配はデモクラシーから生れる。それを避けるためには民衆の意見ではなく、哲人によって統治される体制でなければならない。こうしてプラトンはデモクラシーを抜本的に否定する方向に向かった。

プラトンは、アテネにデモクタシーをもたらしたイオニアの精神を駆逐することを生涯の課題とした。それはイオニア派が神々の批判によって見出した運動する物質という考えを否定し、魂による物質の支配という考えを確立することであるそれはまさに「神学」の構築である。


>>独裁者というものは、父祖伝来の風習を破壊し、女を犯し、裁きを経ずして人命を奪うことだ…正しくトランプだ。

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