倉本圭造さんと御田寺圭さんの対談@現代ビジネス

「保守派を論破する」「リベラルに失望する」だけでは前には進めない…ポスト・ポリコレ時代に最重要となる「メタ正義」とはなにか?と題して以下(対談):

二人の対談を見ると、「日本もまだまだ捨てたもんじゃない」と思える。そうだ、老人は絶望しとけばいいが、若い人はそうはいかない。

・トランプの当選を嘆くのではなく、「何故当選したの?アメリカで何が起きてるの?」と考えること。
・ポリコレを嫌ったり無視する人間をバカにしないこと
・敵を論破することでなく、問題解決しようとすること
財務省解体デモを笑うのでなく、「彼らは何故そんなことをする(言う)のか?」を考えること
・クルド人問題も「政府が悪い」で片づけず、具体的な解決策を積み上げることが重要。そういう人たちの活動・言動は地味になりがちだから「拡声器」が必要なこと
・政治家に直接会って「陳情」すること
れいわや参政党は批判され、馬鹿にされているが、支持者はかつての共産党や社会党(公明党)の支持者のように、熱心に友人や親せきに投票を依頼する
アメリカでは、既存メディアも新興メディアも全部マネーゲームに放り込まれ、SNS的に煽りまくらないと生きていけなくなり、その結果として国全体が分断されてしまったが、日本はそこまで状況が悪化していない・・・まだ脈がある(かな?)

(前略)

 倉本 私は全くもってトランプ支持者ではなく、むしろ必死に反対している側ですが、御田寺さんが「予言」していたようなリベラル側の欺瞞性や独善性が、アメリカでは回り回ってトランプ再選という結果につながってしまったのは否定できません。

トランプのダメなところは無限にあげられると思いますが、それより「なぜ彼が選ばれるのか」という“原因”の部分に真摯に向き合い、新しい本当の理想を立ち上げ直す必要がある——というのが、私の言論活動の根本テーマのひとつですね。

「リベラルが労働者の味方をやめてしまった」

御田寺 日本では2016年のトランプ大統領の初当選時にも、トランプ氏の当選を予測する、あるいは当選の理由を正確に分析するメディアや識者はほとんど皆無でした。それは日本から見るアメリカ像、取材源がエリート層の世界に偏っていたからでしょう。

トランプの最初の大統領就任直後、オンラインゲーム上で10年ほど交流していたアメリカ人の青年に話を聞いたことがありました。その人は伝統的に民主党が強いオハイオ州在住で、親の代からの熱心な民主党支持者でした。ところがオハイオでは、2016年、2024年の大統領選でいずれもトランプが勝利しています。その背景について2017年当時、彼は「リベラルが労働者の味方をやめてしまったせいで、トランプが勢いづいた」と語っていました。

第二次トランプ政権で副大統領になったJ.D.ヴァンスの自伝『ヒルビリー・エレジー』が刊行されてベストセラーになったのは2016年夏、トランプ初当選の直前でした。同書でヴァンスが語っている自身の物語も、この青年の話と通底しています。

しかし日本では、アメリカでは中間層の崩壊が社会の保守化とトランプ現象につながった、つまりトランプの出現は社会の変化の「結果」にすぎない——という見方はつい最近まで、ほぼまったく顧みられなかった。主要メディアは「なぜトランプみたいな悪人が支持されるのか、見当もつかない」「われわれが知っている良識あるアメリカ人は皆、民主党支持なのに」という話に終始していました。ヴァンスの著書が現代アメリカを理解するための最重要書であるという認識さえ、昨年のトランプ再選までなかったほどです。

倉本 おっしゃるとおり、かつてのアメリカ政治は「労働組合などに支えられた民主党vs.富裕層に支持される共和党」という構造でしたが、昨今は「都会のインテリエリートの民主党vs.それに反発する大衆に支持される共和党」という構造になってしまっています。クリントン政権以後、民主党はグローバル経済で稼ぐために邪魔になる「労働組合的な価値観」と距離を置くことを正当化するため、代わりの〝理想の旗〟として、「いわゆるポリコレ的なもの」を前面に押し出すようになったのだという批判がある。

私は「いわゆるポリコレ的なもの」自体は重要だと思いますし、たとえ極論でも、ある時期にはポリコレを強く主張することで、社会に定着させる意味があったと考えています。一方で「いわゆるポリコレ」論者がとりがちな「自分たちのニーズこそが社会で最も重要な価値であり、それ以外は全部どうでもいいことなのだ」というような——少なくともそう見られがちな——姿勢がアメリカを分断し、選挙結果に納得しない群衆が議会に乱入する事件にまで発展してしまった部分はあるでしょう。

御田寺 倉本さんがおっしゃるような、リベラル政党が高学歴・高収入・都市部在住の支持者ばかりを見て一般労働者を顧みなくなったことの問題は、今でこそ日本でも同様の問題があると認識されるようになりましたが、しかしつい最近まで、政界でも論壇でもまったく無視されていた印象です。

2021年に日系イギリス人の作家カズオ・イシグロがインタビューで「縦の旅行」という言葉を提唱し、日本でも大きな話題になりました。「各国の意思決定層であるリベラル・エリートは、同じような恵まれた境遇で育った高学歴・高収入の人とばかり交流して、世間知らずになっている。それがいまの社会不安の根底にあるのではないか」「エリート層こそ、もっと社会階層を移動する『縦の旅行』をしたほうがいい」という提言でした。

日本が「完全な分断」から逃れられている理由

倉本 カズオ・イシグロだけでなく、トマ・ピケティやマイケル・サンデルみたいな、有名な欧米の知識人による「全く同じ指摘」がベストセラーになる時代になってはじめて、日本のネットでかなり前から御田寺さんのような人が言っていた問題意識が、やっと共有されるようになってきた面はありますね。

いわば欧米の知識人を”何年も先取りしていた”ような、そうした日本人の考え方は、ほんの数年前までは「欧米の最新型の理想を理解できない時代遅れの閉鎖性」だと扱われていました。しかし、いまやアメリカをはじめ、世界中の民主主義国家が大混乱の時代です。

そうなると、なんだかんだ言っても「どれだけ考えや立場が違う相手でも、同じ国に住んでいる社会の一員なのだ」という部分を重視し、少数与党の政権でも一応予算は通せちゃう、というような安定性が維持されている日本のあり方は、徐々に再評価されつつあると感じます。

もちろんSNSでは右も左も問わず、あらゆる社会問題すべてについて「『敵』が元凶なのだ」と騒ぐばかりで、具体的な課題の掘り下げや解決策の模索は全くしないような「論破という病」も、まだ蔓延してはいます。しかし一方で、「やっぱ、そういうのじゃダメだよな」という認識も、政治的志向とは関係なく徐々に共有されつつある。

最近、私の本や記事の熱心な読者になってくれた人たちの中には、安倍政権時代に「ガチの反アベ」だったという人も多くて、面白いなと思っています。そういう人が私の『論破という病』のような本を読んで、当時なりに日本社会が安倍政権を必要としていた切実な理由について、理解を示してくれるようになっている。

政敵は、自分たち善人とは違う“邪悪な存在”だ」というふうに相手を否定しているだけでは「そこにある具体的な問題」に協力して対処していくことはできないのだ、という意識が共有できるようになってきた——そんな変化を感じます。

今のように、アメリカが「世界の中心」であり続けることを自ら放棄しつつある時代には、10年前には切実な課題だった「親米か反米か」みたいな議論も、根底から無意味になる。短期的には、対米関係を重視し軍事的均衡を保たないとヤバいということは、ウクライナの例を見ても明らかですが、その反面、米中だけでなくグローバルサウスまで視野に入れた、全方位の外交や経済関係の構築が絶対に必要になりつつあることも疑いない。

つまり「10年前は、絶対にわかりあえない敵だった勢力」とも協力して、具体的な問題解決をしなくちゃいけない時代になっているのは明らかです。

山積みの問題に対して、立場や政治党派を超えて知恵を持ち寄り、イデオロギーでなく、徹底して実用的に解決を目指す。私の言葉でいえば、そうした「メタ正義」的な議論ができる国に日本を変えていけるかどうかの、重要なタイミングを迎えていると思います。この記事を読んでいる方も、ぜひ一緒に考えてほしいですね。

「財務省解体デモ」を「笑わない」ということ

倉本 今年は霞が関などで「財務省解体デモ」が盛り上がりましたよね。こういう“ポピュリズム的な問題意識の沸騰”に対して、私は「彼らが言っていること」自体ではなく「彼らのメッセージの存在意義」と向き合う、という精神が必要だと考えています。つまり、この例でいえば「お願いだから、現役世代の負担を軽減してくれ」という心の叫び自体は受け止める。しかしその「やり方」については、専門的な知識がある人が協力して丁寧に考えるという方針です。

御田寺 「財務省をぶっつぶせ」とか「消費税をなくせ」といったシュプレヒコールは、それ自体には現実味はないけれど、いわば炭鉱のカナリアが鳴いているようなものですよね。それを「陰謀論者が集まっている」と嘲笑して、エスタブリッシュメント側が一切相手にしないでいると、アメリカみたいになってしまいかねない。

倉本 その通りです。そういう庶民の心の叫びをしっかり受け止める。そこを無視し続けると、もっと過激な方向に暴発してしまいますし、そもそも民主主義とはなにか? という原則論から言っても望ましくない。一方で、その先にある「では、どうやったら問題を解決できるのか」という理性的な議論のフェーズは、やはり実務経験者や有識者が集まって力を合わせないと前に進みません。こういう二段構えの発想が、私の提唱する「メタ正義的な発想」です。

例えば、最近SNSで喧しい外国人との共生問題も、外国人が増えると「トラブル」自体は実際問題として起きるので、その解消を求める声まで一緒くたに「差別主義者め!」と罵倒していては、解決できるわけがない。

川口市の問題について、私が昨年2月に現地を取材して書いた「(右翼さん以外のための)『川口市のクルド人問題』まとめ」という記事が非常に多くの人に読まれたのですが、地元でクルド人の知り合いがたくさんいるような、共生環境を整えるために奔走している川口市議や地元有志の方——かなり左派寄りの人も含みます——からも、「やっとちゃんと話を聞いてもらえる環境をあの記事が作ってくれた。自分たちが実際に体験している問題を聞いてもらおうとするだけで、ものすごく極悪な差別主義者扱いされていた」と言っていただいたのが、印象的でした。

具体的なトラブルを訴える声に対して、左派が「断罪」するのではなく「具体的に対処する」という姿勢を見せられるかどうが大事です。なぜなら、そうした「対処」を保守派側だけでやると「中東系の人を見かけたら、全員職務質問しろ」みたいな人権侵害的な方法になりがちだからです。

左派側の人が、むしろ真剣に当事者意識を持って対処し、「ニューカマーにゴミ出しのルールをどうやって守ってもらうか」といったレベルの具体的な解決策を、無数に無数に徹底して積みまくることによってのみ、はじめて排外主義は克服できるのだと思います。

こういう考え方は「何でも『日本政府が悪い』と騒いで満足する素人左派」ではなく、いま真剣に移民難民問題に取り組んでいる専門家なら持ち合わせている感覚だし、移民問題で先行する欧州でも、当然の問題意識としてある。アメリカみたいに解決不能なほどこじれる前に、思想の左右を問わず団結して対処していく必要があります。

そういう「当事者意識」が全然なく、ただSNSで「お説教」することが目的、という態度は、当然住民から反発を受ける。むしろ「排外主義者を増やす、最も効率的な振る舞い方」と言ってもいいほどです。

この問題に限らず、党派的な罵りあいでなく問題解決志向の議論の積み上げをやっている「本当の専門家」の声は、かき消されがちなんですね。最近私が個人的に話しただけでも、医療問題、大学制度問題、再開発問題など、それぞれの分野に「ちゃんと考えているがゆえに、地味になってしまっている人」がいる。そうした人を見つけ出し、彼らの「拡声器」になって必要な議論をシェアしていくことが、私自身の重要な役割のひとつだと考えています。

地元の政治家に会いに行く

御田寺 僕自身はTwitter、XやnoteといったまさにSNS言論の恩恵を受けてきた人間ですが、最近はもうSNSの「空中戦」からは距離を置いています。

Xで読者から質問や悩み相談をされたときには、「まずネットから離れて、しっかり食べて寝て、外に出かけてください」「なんでもいいから資格取得をめざしてみてください」そして「困っていることや、世の中で問題だと思うことがあるなら、関心がありそうな地元の市議や町議を調べて、陳情に行ってみてください」と答えています。陳情なんてハードルが高いだろうと思うかもしれませんが、じつは政治家は自分の地元の人の声をものすごく気にしています。事務所に行くのが怖ければ、辻立ちのときに少し話しかけてみるだけでもいい。

というのも、倉本さんが目指している「対立を超えて具体的な課題解決に動く人」を増やすことには僕も賛成ですが、そういうムーブメントを実際の政策に反映していく役割を担うのは、やっぱり究極的には政治家なんですよね。そのためには政治家に「この世論には乗っても大丈夫だな」「しっかりした民意に裏付けられているな」と認識してもらうことがすごく大事な作業になる。ネットで怪しげなアカウントがハッシュタグをつけて騒いでいるだけとか、延々と暴言放言を撒き散らしているばかりといった状況だと、プロの政治家はちょっと乗っかれない。僕自身、最近はSNSで発言するよりも地方議員やメディアの人と会って話す機会を増やすようにしています。

倉本 『論破という病』にも書いたのですが、川口でも、住民同士のトラブルが起きたときに当事者の話を聞いたり、会って話をつけたりする活動に地道に取り組んでいる、市議や有志の人がいる。彼らのような人を私は「現場の良心さん」と呼んでいます。そういう人とキチンと関係を取り結び、党派的なSNSバトルとは違う場所で問題解決の議論を育てていく必要がある、というのは全く同意ですし、御田寺さんは「ネット論客」的なイメージがあるけれど、その背後で意外に地に足のついた活動もされていることには、敬意を持っています。

私はコンサルタントとしていろんな会社や経営者を見てきましたが、優秀な経営者に共通しているのは、目標と現状、つまり理想と現実の「ズレ」を鋭敏に察知して対策を打つ力があることです。

社会の運営も同様で、たとえば排外主義的な言説が世の中に広がっていることをいわば「センサー」として、じゃあ住民がどんなことを問題視しているのかとか、外国人の側にはどんな事情があるのか、といった声に耳を傾けることこそが重要です。具体的な問題を訴える声や対策を求める声まで、「差別主義者を許すな!」と言って口をふさぐことが、本当に「正義」と呼んでいいようなものなのかについて、真剣に考えるべき時ですね。

なぜ参政党は急伸しているのか

御田寺 参院選を控えて、多くの野党が「消費税減税」を打ち出しています。ついこの間まで、それこそ消費税減税や廃止といった主張は、れいわ新選組や日本共産党の専売特許で、その支持者以外には「そんなこと、できるわけないだろ」というような受け止められ方でした。しかし、いまでは世論調査でおよそ7割が減税に賛成するようになっている。

僕は以前から、「次の参院選では、れいわ新選組が台風の目になる」と言い続けてきました。自分自身はまったく支持していないのですが、山本太郎代表の演説を見に行くと、いわゆる「SNSの政治論争」に参加している人たちとはまったく違う層の支持者が集まっている。加えて今回の東京都議会議員選挙では、SNSでは「カルト」と批判されている参政党が党勢を伸ばしました。まだネット上では、れいわ新選組や参政党をバカにする風潮が強いですが、7月の参院選ではどちらも勢力をさらに伸ばすと思います。

いま、共産党や社民党が支持層の高齢化で党勢を大きく落としつつあります。かつてなら、そうした左派政党を支持していたような30代・40代の人びとを、れいわや参政党は取り込むことに成功している。「いや、国民民主党だって伸びているじゃないか」と思う人も多いでしょうが、たとえば倉本さん、もし自分がある政党を強く支持しているとして、知人にも「この候補者に投票して!」ってLINE送ったりします?

倉本 うーん、正直言って、そういう行動は苦手分野ですね。

御田寺 れいわや参政党の支持層は、それをやるんです。インテリは、どんなに政治意識が高くても「表で政治の話なんかしたら、引かれるかな」と逡巡するんですが、彼らにはそういうためらいがない。友人にも親戚にも全力で拡散するわけです。これは強いですよ。

倉本 そういうパワーは侮れないし、普通のインテリは腰が引けてしまいがちな要素ではありますね。だからこそ、「ポピュリズムに流れる人々の気持ち」にも耳を傾けつつ、それに対してただ「けしからん!と叫ぶだけで満足する」のではなく「本当に問題解決を目指す有志」で受け止め、細かい事情を吸い上げる議論がシェアできるようにしていかないといけないのだと思います。

それを目指すにあたっては、メディアの力も重要です。アメリカでは、既存メディアも新興メディアも全部マネーゲームに放り込まれ、SNS的に煽りまくらないと生きていけなくなり、その結果として国全体が分断されてしまいましたが、日本はそこまで状況が悪化していないのは、大きな可能性ですね。

日本では、左右問わずメディアの中にもそういう問題意識を切実に持っている人がいて、私に声をかけてくれる人も増えている。そういう人たちとは、ぜひ共闘して新しい流れを作っていければと思っています。

一方で、さきほど御田寺さんがおっしゃったれいわ新選組や参政党がやっているように、市井の人々の「ナマのお気持ちや不安感」を、断罪せずに、身体性をもって、丸ごと丁寧に受け止めていくということを、ポピュリズム以外の政治ムーブメントが軽視してきた面は確かにあるなと思います。

中道の良識派も、そういう「気持ちの共有」みたいな部分まで、ちゃんと責任を持ってやるべきだ——という問題意識は私も持っています。そういう人たちが「どんどん治安が悪くなるオープンなSNS」から距離をおきつつ、素直な気持ちを共有しあい、不安を癒やしあい、過激な極論に頼らずとも、もう一度「平熱」で未来への希望が持てるようになるような場を作れないかと、最近は考えています。


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