仕事における「成長」を目指す「優秀なビジネスパーソン」に共通している「危うさ」
現代ビジネス2025.05.30 記載記事:
東大生の就職人気ランキング上位をいつのまにか独占するようになった「コンサル」。この状況の背景にある時代の流れとは? 「転職でキャリアアップ」「ポータブルスキルを身につけろ」そんな勇ましい言葉の裏側に見えてきたのは、「仕事で成長」を課せられて不安を募らせるビジネスパーソンたちの姿だった。 『東大生はなぜコンサルを目指すのか』 より、一部を抜粋して紹介します。
もっと成長して俺が生きた証を…この世界に爪痕を残したい
自分の生きている世界と生きていない世界がまったく同じだったら
自分の生きている意味ってなんなんだろうって思っちゃうんだよ!
2021年に「コミックDAYS」で連載が開始され、ビジネスパーソンの「あるある」を描いているとSNSなどで話題を呼んだマンガ『夫は成長教に入信している』。昨今のビジネスパーソンがキャリアを語るうえでの決まり文句となりつつある「成長」をテーマに、会社での出世やスキルアップを目指す主人公のコウキが、頑張りすぎるあまり徐々にバランスを崩していく様を描いた作品である。冒頭に引用したのはコウキが心身ともに追いつめられていく中で切迫感とともに発するセリフだが、この作品の原作者の紀野しずくによると、このセリフは「いわゆるハードワーカーと呼べるような働き方をしている人たち」への取材の中で感じ取れた仕事へのスタンスを言語化したものだという(「『仕事で成長しなきゃ』は危険サイン? ビジネスパーソンが陥りがちな『成長』のワナ」ミーツキャリア、2024年7月8日)。
紀野は作品のタイトルに「成長教」という言葉を使っているが、この表現は成長という言葉を取り巻く今の時代の空気を的確に捉えている。何かを揺るがない信じるべきものとして捉える宗教的な態度と、現代のビジネスパーソンが成長に向き合う姿には、確かに共通項がある。「成長すること」を疑いようのない善と定義して、そうしない人たちを異端のものとして扱うような排他性を漂わせることすらある。
ビジネスパーソンとしての成長のために突っ走るコウキの行動は、傍から見れば非常に滑稽である。「今季の目標は年収1千万」「同期の中で最速でマネージャーへ昇進すること」と鏡の前で発声して自己暗示をかける。どんな時間も成長につなげたいと考えて、週末であっても仲間たちとの自宅会議で横文字だらけの会話をし、旅行の最中にもマインドフルネスに勤しむ。「極めれば僕もジョブズに近づける」という言葉とともにヨガを行い、スティーブ・ジョブズの「決断コストを減らす」生活スタイルを取り入れて、食事として常にサラダチキンを用意する。もちろんこれらはマンガ的な演出が付与された創作ではあるものの、取材をベースに形作られたコウキというキャラクターの姿は、成長を目指すビジネスパーソンたちの特徴をうまく描き出している。ジョブズをテーマにしたビジネス書は枚挙にいとまがなく、ジョブズがヨガや禅など東洋的な精神の捉え方に傾倒していたこと、さらにはジョブズが率いたAppleと並んでテック企業の雄であるGoogleもマインドフルネスを企業として採り入れていたことなどは「エリート」にとっての常識でもある(『外資系エリートがすでに始めているヨガの習慣』〈竹下雄真、ダイヤモンド社、2016年〉という本もある。ちなみにこの本の帯のコメントは高城剛とメンタリストDaiGo)。
コスパ・タイパ思考との密接なつながり
『夫は成長教に入信している』から読み取れるのは、あらゆる時間を成長のために投じようという姿勢であり、それは「時間を無駄にしたくない」という短期的視点でのコスパ・タイパ思考とも密接につながっている。そして、ビジネス書で謳われることを忠実に再現する素直さと勤勉さも持ち合わせている。優秀なビジネスパーソンの鑑とも言えそうな特性だが、それゆえの危うさも秘めている。
頑張りすぎた結果としてコウキは体調を崩し、休職を余儀なくされる。ここで認識しておくべきなのは、そこまでして成長を目指すことを会社は決して強制していない点である。作品の中にはパワハラ気質の上司や無理難題を吹っかける顧客が登場するなど、コウキをめぐる職場環境は決して良くはない。それでも、コウキはあくまでも自主的に自己研鑽に励む。休職しても、自らの意思でビジネスプランのコンペに参加する。「成長しなければならない」というスタンスを完全に内面化しているコウキは、自分が限界を迎えていることに気づくことができない。
自発的に過剰な努力へと身を投じてしまう
コウキは仕事の移動中に駅のホームで倒れるという一大事を起こすものの、結果的に命を落とすようなことにはならなかった。一方で、彼のように頑張りすぎたすえに最悪のケースが起こってしまうこともある。熊沢誠『過労死・過労自殺の現代史 働きすぎに斃れる人たち』の冒頭で紹介されるのは、社内で圧倒的な成果を残していた26歳の証券マンである。「意欲と迫力に満ちた営業活動を積極的に展開」することで「東の横綱」と呼ばれるような実績を残していた彼は、「顧客がそれを契約条件とするならば必死で一升の酒を飲み干したり、顧客宅の門前で早朝ごとに何日も立ちつくして資産預かりを依頼したりした」という。倒れる直前までバブル崩壊による自身の業績への影響を小さくすべく必死に働き、新人研修では講師も務めていた。そして、これらの行動はやはり必ずしもすべてが企業に無理やりやらされていたわけではない(もっとも、このケースは労働基準監督署が彼の死を「業務に起因するもの」と認めている)。
熊沢はホワイトカラーの過労死について企業側の責任を糾弾しながらも、ビジネスパーソンがアンバランスな労働のあり方にはまり込んでしまう状況を「企業の期待の高さ、その期待に応える職務遂行での一定の裁量性、それゆえいっそう自覚される責任意識があって、その働きすぎにも、『出世欲』ばかりとはいえない『仕事のやりがい』というものに駆動された『自発』の色彩が混じる」と解説している。コウキが目指す成長もまさに仕事のやりがいとリンクしており、その結果として自発的に過剰な努力へと身を投じてしまっている。一命をとりとめたコウキも、実は死ととなり合わせだったのかもしれない。生死を賭けた成長への挑戦は、やはり紀野がつけたマンガのタイトル通り宗教的な色合いを帯びている。
『夫は成長教に入信している』の終盤、コウキは「自分も今まで頑張ってきたけどそれってなんのためだったんだろう」「いつしか成長することがゴールになってしまっていたのかもしれない」と自省する。成長というキャッチーな言葉に精神が引っ張られる中で、成長とは何なのか、何のために成長したいのか、といったそもそもの問いが成長を目指すビジネスパーソンの頭の中から抜け落ちていく。この状況は、今の日本のあらゆる場所で発生している。
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会社は生涯社員の面倒見る神様だという「会社教」に入信した俺は、社員をクビにしたり別の会社に移したりするようになった会社を認めることができずに、二十数年前に入社した時の会社を理想化し部下同僚を守ろうとして、燃え尽きた。会社教信者にとって「会社は株主のモノ」なんていう教えは受け入れがたかった。
『夫は成長教に入信している』の主人公コウキは十数年前に死んだジョブズを目指し、あれもこれもと寸暇を惜しんで様々な自己研鑽に励み、燃え尽きる。
会社なんて信じられないから自分自身を成長させ、会社がどうなっても自分だけは生き残る・・・成長教の教えは正しい。
成長教と会社教に共通する問題は「自己目的化」だ。何のための成長か?会社が社員全員の面倒を生涯見続けようとすると潰れるとなったら潰してもいいのか?俺は会社が社員全員の面倒を生涯見続けようとすると潰れるとなったら潰れてもよい、(潔く潰れるべきだ)と思っていたが、多分その考えは少数意見だったろう。一部の社員を犠牲にしてでも会社が変質しても会社を生き残らせるべき・・・これが先の大戦以来の日本の正統な考えだ。
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