おじさん、おばさんが死に絶えた

母親の兄弟は10年くらい前に全員なくなった。そして、父親の兄弟で最後まで一人生き残っていた末の妹が昨日亡くなった。
これで父親、母親の系列でそれぞれ6,7人いたおじさん、おばさんは死に絶えたことになる。
ある種の感慨を覚える。また、一時代が終わった、寂しい、とでも言うべきか。
あるいは「次は自分」と言うべきか。
”気の早い”いとこはもう何人か死んでいる。
母親の兄弟で一番最後まで生き残っていたのは誰だったか、その人が亡くなったとき、葬式で集まったいとこ同士で「親戚が会うのは葬式だけになったねぇ。これからは俺たちの世代の葬式で集まるんだ」と冗談半分に言い合ったことも思い出される。

3、40年前、「軽薄短小」という言葉が流行ったが、象徴的なのが半導体だ。同じサイズで機能が倍になる。見方を変えれば、同じ機能の半導体のサイズが半分、また半分と小型化する。俺たちの世代のビジネスは軽薄短小化の競争だった。その軽薄短小世代の俺から見ても、あらゆるものがますます軽薄短小化している。競争も激しい。
30年前、半年ごとに機能性能が上がってバージョンが変わっていくパソコンを見て「こんなに早く変わって誰が得するの?」と思ったものだ。これも当時の流行語だが、「サクサク」するから、いいらしい。より便利に早くできるようになる、のがいいということか。ソフトウェアがますます性能のいいハードウェアを要求し、ハードウェアの性能が上がればソフトウェアも変わる。
俺から言わせえば、何年かに一度パソコンを買い替えさせようというパソコン屋の謀略だ。みんなで一斉に競争をやめて同じハードウェア、ソフトウェアを10年くらい使い続けることができる、くらいのサイクルが俺には合っているし、人間の能力にも合っているように思う。どんどん性能が良くなるハードウェア、ソフトウェアを使いこなすのをデジタルリテラシーと呼んであたかもこれがないとバカで時代につていけないということになった。
競争に勝つこと、性能をよくすることが自己目的化しているが、これはやめられないだろう。競争に勝てば豊かになれる。負ければ貧しくなる。下手すれば死ぬ。
ただし、豊かになったからといって幸せになるわけではない。人間はますます忙しくなり、接する情報量は何倍にもなる。
進歩だ。
俺は、退職して進歩・競争をしなくてもよくなったが、そんなに幸せではない。進歩・競争以外に幸せを感じる術はなんだろう?
おじさん、おばさんたちはそれこそ何十年も同じハードウェア、ソフトウェアを使い続けることができた。そして、戦争を味わった。核が誕生してから戦争も軽々にはできなくなった。進歩が戦争の形を変えた。核大国同士の直接対決はできなくなった。朝鮮戦争が米中の直接対決の最後だった。

幸福の総量はどの世代も変わらないということなのかも知れない。

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