書名の「平和の代償」の『代償』とは、敗戦直前の1945年、沖縄と満州の日本人を棄民したことが第一。沖縄、満州で米ソ軍に無残に殺された人々は、「自分たちは早く死ぬが、いずれ、本土決戦で本土の人たちも死ぬ」と信じて死んでいった。その思いを裏切って天皇が敗戦の聖断をし、本土決戦はなくなった。そしてその生存優先の意を戴して(忖度して)平和憲法を盾に、吉田茂は独立を捨てて米国の属国になり、安全を取った。平和憲法をいいことに独立を捨てたのが代償その2。
代償は大きい。加えて戦後、沖縄をアメリカに売り、沖縄に国防の負担を押し付けた。本書で初めて知ったが、日米安保条約から沖縄をはずす、という裏切りまでした。
沖縄を何回も捨てたという代償も大きいが、他に日本人に「戦争嫌い・嫌」病を蔓延させたのも大きな代償だ。この病に侵された人々は「戦争に巻き込まれる」と日米安保にも反対する。これは明らかに、そう言えば一定の支持が得られるという打算と、「反対したって安保条約は維持される=アメリカに守ってもらえる」、と確信してのものだ。
本書で一番印象深かったのは、自分で自分の国を守ることができない国は、国際関係を不安定にするから他国にとっていい迷惑だ、ということだ。俺は、自分の国をどうやって守るか考えないことは国民としておかしい、欠陥だと考えてきたが、それにとどまらず国際社会の常識から見ておかしく、欠陥だ、ということだ。
朝鮮半島と違って、日本が共産国に侵攻されなかったのは全くの幸運と言っていい。アメリカは日本を防共上必要とし、朝鮮半島を捨てていた。そしてそのことを公表した。もともとは日本もその防衛にコストがかかり過ぎると評価されていたのが、アメリカの考えが変わって日本を守る姿勢を見せたから、攻められなかったのだ。
朝鮮戦争後、アメリカは核兵器で優位を保っていたが、核兵器の質・量は地球を滅ぼすには至っていなかった。ソ連はアメリカ(属国日本も含む)には手を出せなかったし、中国は内輪もめに忙しかった。ソ連がアメリカに追いついた(と自称した)1960年代以降、両国の核は地球を滅ぼしつくす質・量に達し、両国はぎりぎりのところで直接対決を思いとどまった。これは日本はもちろん、全人類にとって幸運なことであった。
1991年崩壊したソ連を反面教師として改革開放政策を本格化し、西側諸国の期待と支援を得た中国は、グローバリゼーションの波に乗り、20年後の2010年代にはソ連に代わってアメリカに対するチャレンジャーとなった。
アメリカはソ連の崩壊後、ロシアその他旧ソ連諸国に乗りこんで市場経済を教えようとして失敗した。(あるいは教える振りをして食い物にした)これはクリントン、オバマ時代の民主党がやった・・・今でもトランプはこれを非難する。もしかすると、トランプのロシアびいきはこの辺に原因があるかも。
筆者の最大の心配は、日本人は戦争アレルギーで戦争の事も軍隊の事も全く知ろうとしないが、一方で自衛隊は厳然と存在していること、つまり、日本人が自衛隊をコントロールできなくなることであった。俺はそれは心配に及ばないと思う。心配なのは、自衛隊の戦争遂行能力だ。だって、何十年も実戦経験はないし、日陰=違憲の存在で、まともな人材は入っていないから。そしていざ、侵攻されて戦争だ、となったとき、平和大好きな有権者・野党の皆様がものすごい足かせになることだ。もう一つの心配は自衛隊のクーデターだ。自衛隊員は、昔の軍部同様、もともとまともな人材が少ないうえ、甘やかされているはずだ。
「平和の代償」に収められた3つの論文から以下引用:
1965年「米国の戦争観と毛沢東の挑戦」より:
(ヤルタ会談において、ルーズベルトは)日本本土上陸作戦で、統合参謀本部の想定では、100万に近い死傷者の予想(とくに、健在と信じられた精鋭関東軍の内地軍編入への恐怖)とアジアにおける英仏軍の旧植民地回復との恐れから、およそ政治的配慮を無視した対日参戦の密約をスターリンと結ぶのである。
>>単にルーズベルトが容共的だった、というだけでなく、こんな事情があって、ソ連は日本を裏切ったのか・・・その後、アメリカの宣伝・洗脳によって、日本人は「ロシア人は平気で条約を反故にし、満州に攻め入って残虐なことをした」、と思い込まされている。
第七艦隊の盾に隠れ、ノンビリと平和を享受し、一種の孤立主義のムードに閉塞している点でも、また、熱核戦争の時代には、通常兵力は役に立たないという時代遅れの神話をいまだに信じている人が多い点でも、全ての紛争や問題を、法的な機構(例えば国連)に訴えて、解決できるという一種の”機構信仰”に陥っている点でも・・・
現在の自衛隊が、アメリカのために、ソ連と中国に対して、アメリカの基地を防衛しているにすぎないのではないか、という深い危惧
戦後我々日本人が、いかに国際的責任感と、平和への連帯意識を喪失し、一種の孤立主義に陥っていたか
国連中心の日本が、海外派兵を拒否して、権利のみ主張する態度にもそれが現れているが、防衛とは、自国のためだけでは決してないのだ。隣人のためなのである。アメリカのためであり、ソ連、中国のためであり、南北朝鮮、台湾、あるいは東南アジア諸国民のためでもある。今仮に米ソ中三国が、いずれも独占的に日本を軍事的、政治的にコントロールしていない状態(中立状態)を想定し、しかも、日本が非武装中立(いったい、この語は丸いトウフというような一種の形容矛盾であって、英語で、どう表現してもピンとこない、英語がマズいのでなく、そもそもそういう概念がないのだ)でいるとしよう。アメリカはさておいて、中ソ両国間紛争がいつ何時、軍事的緊張にたかまらないとも限らない。不明確で長い国境線を接して相対峙する二大陸軍国が、将来、いつ何時、極地戦闘に入らないと、だれが保証できるか。その緊張が高まるにつれて、ソ連の政策決定者の目には、無力な日本が、中国によって軍事的・政治的にコントロールされる可能性の増大を予見し、激しい不安に駆られ、中国もまた、同じ不安に駆られる。なぜなら、日本が、自らの力でアジアの安定勢力とならない限り、先制攻撃ないしその威嚇によって先に基地化されれば、力のバランスが急速に崩れるからだ。いわんや、アメリカのペンタゴンが、その可能性を黙過するわけがない。現代の戦争は、この予見による予防行動から始まるのである。ユーラシア大陸の支配権を巡って第一次第二次世界大戦、そして現代の冷戦が始まったが、それはいずれも政治的に不安定で軍事的に抵抗力の弱い東ヨーロッパと中国を主戦場として始まったのは、決して偶然ではない。日本を極東のバルカンにしてはならない最小限度の義務を我々は国際社会の一員として担っている。自らの力で、周囲の善意ある第三者に対して、最小限度の安全感を与えるだけの政治的安定性と抵抗力を培養することは、現代のすべての国民に課せられた平和への最低限の義務である。この義務を怠って他人依存の平和国家を誇ってみても、国際社会で尊敬を勝ちうるものではあるまい。たとえて言えば、若い女性は、身だしなみをキチンとして、自己防衛するエチケットを要求される。これはなにも、彼女のためばかりではないのだ。過少防衛は、過剰防衛と同じくらい、ハタ迷惑なのである。
>>日本の安定、防衛は国際秩序を守るために必要。単に日本一国のためではない・・・これには目を覚まされた。確かにそうかもしれない。でも、鎖国の道はないのか?
つまり、一定の国家の軍事的・政治的支配によって得られる利得(軍事的重要性、経済的、政治的利益の重要性)と、その獲得に要するコスト(政治的、軍事的、道徳的代償)の差を、つねにマイナスの状態にしておくことが、周囲の善良なる第三者に対して、安全感を与えるのである。スイスは、さして、支配による利得は多くないのに、国家予算の35%近くを国防費にさき、しかも民兵の日常的訓練によって、コストを極度に高くしている。これが、ヒトラーすらも中立を尊重し、避けて通った理由である。
日本はスイスに比べて、比較にならないくらい大きな利得をもっている。アジアにおける重要な地位を占め、近代的工業生産力を持っているアジア唯一の近代国家である。これに見合うだけのコストを、自らの手で完全に調達することはいまのところ不可能である。むろん、コストはせまい軍事力だけでなく、政治的安定の確保、経済力の充実、大衆福祉の増大、階級差の減少、高い士気、抵抗の精神などの培養が第一であるが、やはり、同盟と連合を作る以外にはない。だれと連合を作り、独立の主体性を可能な限り保持するか、その防衛力の比率をどのくらいにしたらよいか、兵器体系と兵力構造はどのように配分するのが最適か、これはずべて現状維持国としての日本の利益に立った基本的な外交政策の確立と、長期と短期の国際情勢の冷静な分析の上に、理性的、総合的に決定されるべきであろう。
>>膨大なコストをかけて安全と独立を確保するスイスは一つのモデルではある。しかし、幸か不幸か、日本には、歴史的に様々な民族に蹂躙され、支配された経験がない。吉田茂が選択した「独立を捨てて、安価に安全を」から「少しずつ独立重視」にというのが筆者の意見。
1966年「日本外交における拘束と選択」より:
「全能の幻想」とは、自国だけの「一方的行為」で国際問題や紛争が、全て片付くと考える妄想である。国際政治は常に、対他的行動であって、相手方の出方に依存していることを、無視することである。この「全能の幻想」は二つの極を持っている。ひとつはベトナム戦争で、核兵器の使用か、その威嚇で万事解決するという「軍事万能主義」が位置し、他の極には一方的軍縮とか、南ベトナムからの米軍の全面撤退ですべて解決するという「平和万能主義」の幻想が位置する。
米国の共和党はよく民主党を”戦争の党”と非難する。実際、ウィルソンの第一次世界大戦、ルーズベルトの第二次世界大戦、トルーマンの朝鮮戦争、ケネディーのベトナム戦争と、まるで、戦争は民主党の専売特許の感がある。これは、むろん偶然もあり、さまざまの複雑な要因の産物であるが、ひとつには、「無為の蓄積」と「全能の幻想」の悪循環の法則がひそんでいるように思われる。1920年代の共和党三代の無為無策(無為の蓄積)が、ウォール街に発する世界恐慌となりやがてファシズムの台頭、第二次世界大戦を引き起こした。東南アジアにおけるアイク/ダレス外交の「無為の蓄積」が大衆の「全能の幻想」に拘束されるケネディ政権の誤った判断による本格的軍事介入をよびおこし、今日のジョンソン政府にしわよせされ、エスカレーションをひきおこした。もし、「平和」が「無為の蓄積」を意味するならば、かかる平和は早晩、目に見えない小紛争と小失敗の積み重ねで、大紛争を引き起こすだろう。「戦争に巻き込まれたくない」という単なる消極的な孤立主義のムードからは、なんら積極的な平和は生まれないし、自主外交なるものが、政治の世界で、「何でも可能である」と思い込む大衆のイリュージョンにおもねり、刺激するジャーナリズムの軽薄さゆえに、いたずらに大衆の焦燥感のみを増長させるならば、日本の将来にとって、この上ない危険を意味するだろう。
>>全能の幻想は、アメリカ民主党より日本人の方が深刻だ。誠意をもって当たれば理解してもらえるなんて日本人の大得意。ヤルタ会談で日本を裏切ると決めていたソ連に戦争終結の斡旋を頼むなんて・・・
いったい、フランスのゴーリストと、西ドイツの右翼政治家が、中国との国交回復を促進し、中国の経済交流に力を入れる真の政治的動機がどこにあるか、知っているのか。欧米の外交専門家には常識であるが、かれらの構想の中には、長期的に見て、中国のパワー(経済、政治、軍事力)が増大すれば、国境を接するソ連の対抗力を刺激し、中国の圧力でソ連は西側に接近するだろう、との期待があるのだ。もっと具体的に言えば、中国の軍事力が増大すれば、ソ連は、中ソ国境の軍事力増強のために、東ヨーロッパの軍事力をさかねばならず、その結果、東西の緊張は緩和されるのみか、やがて、ソ連は西側と接近し、西側と同盟を結び、やがて西側の国家となるだろうという見通しと期待にもとづいている。その結果、短期的には、中国周辺の脆弱な中小諸国に脅威を与えようと、中ソが衝突しようと、どうでもいいので、かれらは基本的にヨーロッパ第一主義である。
>>うらやましいのはドイツであり、韓国だ。アメリカの機嫌をそこねてもロシアや中国とも仲良くしたりして・・・日本のように、アメリカ一筋で誠意を見せても・・・
日本は、徳川の鎖国時代を平和に生存し得た貴重な経験を持つ民族として、平和な、非競争的な目標価値で民族の生存を意味づけ、この激動の世界を切り抜ける貴重な歴史的実験をなしつつある。また、その高い自負を持たねばならない。そのためには人間の実存に深く根を下ろした哲学の復活と、最も前衛的な科学的思考が要求される。
>>ここで、筆者は鎖国時代を貴重な経験と言う。哲学つまり「自分の頭で考える」を失ったのも平和の代償だ。だって、憲法も、民主主義も、自衛隊も、外交もみ~んなアメリカ様が考えてくれるんだから。
この無為の蓄積と全能の幻想との悪循環にあって、政治家にできることといったらただ、忙しく会談し、レセプションを開き、外国人と握手し、ときどき、外国雑誌の記者に目をむいて、米国に抵抗しているかのようなポーズを取ったり、ただ、”疲れたい”という欲求に身を委ねるほかあるまい。デモをやる学生、国会をレスリング場と錯覚している代議士たち、ひたすら、栄養剤を飲み、注射し、格闘し、ときどき「米帝国主義は人類の敵」と怒号する。いまのところ、それらの怒号も空気の振動に終わっているから、無害であり、個人ないし集団生理の次元に解消されているので、これを「運動の快感」と呼ぶ。別にふざけているわけではない。現代日本の政治は、保守官僚による「無為の蓄積」と大衆の「全能の幻想」と政治家の「運動の快感」の微妙なバランスの上に成立している。このバランスが、いつ、どのように崩壊し、運動の苦痛と全能の幻滅が野合して”アジア人のアジア”のスローガンのもとに、右に左に鬱積した悲憤慷慨の民族主義エネルギーが、鬼畜米英=反帝路線に結集し、核武装=中立という危険な方向へ突っ走り、やがて、「愚者の楽園」を「狂者の地獄」に一変しないとも保証しがたい。
>>筆者の心配する「狂者の地獄」なんて実現しそうにない。残念ながら、アメリカから独立して中立になろうなんて考える者は少ない。そういう選択肢だってあるんだよ、と分かった上で選択しないならまだしも、そういう選択肢を並べ立てることすらしないこと、つまり、日本は立派に独立しているという幻想に支配されている者が多いことが心配だ。
日本は敗戦後、選択によってではなく、運命によって米ソ対立の二極構造の中に編み込まれたのであった。これは、米国も同様である。米国はかつて国際秩序が英仏の手に掌握されている限り、孤立主義を選択し得たが、第二次世界大戦後、ソ連と言強大な新しいパワーに対抗し得る唯一の強国が米国以外になくなったという歴史的運命によって、冷戦にコミットせざるを得なかったのである。米国にとって歴史過程から離脱した冬眠的孤立か、それとも危険な強国の生活かと言うアカデミックな選択しかなかったことに気づくには、かなり時間を要した。これは日本の場合にも当てはまる。全面講和論の理想主義的主張にもかかわらず、結局当時の日本はオーストリーかスペインのような冬眠的平和国家か、それとも危険ではあってもアジアのパワーとして生き抜くかの、アカデミックな選択しかなかったのだ。
(日本敗戦前)中国の国内的安定と統一は、一方ではソ連・日本の脅威と、他方ではそれに対抗する英米勢力と言う微妙な力の均衡の上に成立していた。日本の敗戦がもたらす重要な副産物は、極東におけるこの力関係が根底から解体し、英米勢力にとって、アジアにおける唯一の潜在的脅威がソ連となったことである。ソ連による東ヨーロッパの勢力圏拡大の意図が、少なくとも英米仏の目に明らかになるにつれて、当然、北支・満州・朝鮮に関するソ連の出方に対する十分の警戒心と恐怖を与えたのである。
大半の米国の政策決定者の希望は、中国がふたたび極東における強力で独立した安定勢力となることの漠然とした期待であった。その目的のために米国は国民政府の威信を回復すべく、あらゆる軍事、経済援助を行ったが、1945年、日本の降伏後、統一中国は国民政府と共産党との連合政権しかありえないという結論に達し、マーシャル元帥が45年12月、中国に派遣された。しかし、この任務に失敗し、中国は中国共産党の制圧下に入ることになる。その当時、日本を共産主義の膨張に対する防壁とするという考え方は、必ずしも軍部一般の意見ではなかった。ロイアル陸軍長官の意見に代表されるように、米ソ戦が勃発すれば、兵端補給の点からも、日本列島の戦略的価値は、その高価な犠牲に比して引き合わぬという理由で放棄を決意していたのであった。マッカーサー元帥も、ソ連が日本を攻撃したら、日本を防御する、と口では言っていたが、ソ連が日本を攻撃することはあるまい、と内心考えていたにすぎない。ともかく、マ元帥は次の大戦では「我々は日本が闘うことを欲しない」とつねに主張していたし、米国の防衛戦略における、日本の役割については、「我々は日本を同盟国として使用するつもりはない。我々の欲するすべては、日本が中立にとどまることだ」と、「太平洋のスイス」としての日本の中立化が、合衆国、英国、ソ連の三国による軍事保障によって確保される、と楽観的に考えていたのである。新憲法第九条は、かかる蜜月時代の残像を反映している。
>>こんな蜜月時代が長く続くはずもない。アメリカもひでえ憲法を押し付けたもんだ。そして、戦争に飽き、疲れて嫌いになった日本人はこれをもろ手を挙げて受け入れた。そして蜜月が終わって再軍備を迫られた時、吉田茂はこのひでえ平和憲法を盾に再軍備しなかった。(軍隊嫌いの吉田は自衛隊はあくまで警察だ、と言い張った)
長期の外交目標として米ソの合意のもとに、日本が非同盟・中立の方向に進むことが正しいとしても、それは、あくまで、米ソ中三国間の緊張緩和のテンポと歩調を合わせ、段階的に現状を離脱してゆく方法をとらねばならない。さもなければ、共産圏に一歩近づいたというイメージを米国に与えるような意味での中立化となり、最悪事態では、米国は、アリューシャン、小笠原、沖縄を結ぶ防衛ラインに後退し、日本は米軍の包囲下におかれることになろう。あたかも、太平洋戦争で、米軍がこれから日本本土に敵前上陸しようとした直前の戦略態勢に復帰することを意味する。これを妄想と笑う人は、米帝国主義などと、口先でいうだけで心の底から米国に依存し、安心しきっているお人好しであることを自ら暴露している。左翼用語で言えば”米帝国主義”に対する防衛最前線に日本を位置せしめる危険と、”平和愛好国”中国の攻撃目標に日本をさらす危険とを比較して、どちらがより安全かという問題におきかえてもいい。米国は日本の防衛をヴァイタル・インタレストとみるから、ソ連、中国による武力干渉及び脅迫を受けない程度の強い防衛力を要求するし、ソ連もまた、米国ほどではないにせよ、対中国との関係からいっても、けっして非武装中立を欲しはしない。さもなければ日本は、いつなんどき、緊張の激化で、軍事占領される口実を与えることになるかわからない。日本人の道徳感覚では「自殺」や「一家心中」はさして悪とは考えられないが、西欧人のモラルでは、責任ある人格の自己放棄を意味する。ある意味で、この日本人的自殺観に一脈通ずる「非武装平和主義」は、国際的なモラルの批判にとうてい耐えうるものではない。つまり、国際政治では。いかなる国も、”自殺する自由”を持たないのである。
>>だから俺は自殺する自由を求めて鎖国して国際政治から身を引けないか?と思う。
自主中立による日本の安全保障の方法は、三つしかない。第一が、日本の経済的、戦略的な重要度を減少し”魅力”のない国家に転落し、「冬眠平和国家」の道を歩むことであるが、地政学的地位という客観的な制約は消滅しない。第二が、スイスのような市民総武装、あるいは単独武装という方法であり、第三が、不完全な自主中立というか、米国の核の傘に入り、相当の通常兵力の充実で、自主防衛を図り、同時に有事駐留に切り替えることである。日米安保体制の現状から離脱し、自主中立の道を歩むとすれば、なんらかの代償が必要とならざるを得ない。国民に代償と犠牲を要求しない革命理論が宣伝であるように、代償の要求なき平和論や中立論も欺瞞とする以外のなにものでもない。
>>冬眠平和国家でよくないか?どう考えても日本人は国際的なお付き合いは下手だ。
1960年の初めには、日本政府は本土内の報道機関や左翼団体の圧力もあって、沖縄を日米安保条約に含めなかった。本土における一般的な考え方では、アメリカの施政下にある沖縄はすでにアメリカとフィリッピン、国府および韓国との相互防衛条約に含まれているので、沖縄を日米安保条約に含めると、将来極東の主要国間の戦争が起こった場合、日本が巻き込まれる恐れがあるということだった。日米安保条約に含まれることを主張した一般の沖縄住民は精神的な打撃を受けた。沖縄住民は沖縄の防衛は、結局日本が責任を負うべきであり、日本がその方向に進むことは復帰を促進するものだと考えたのである。いかに詭弁を弄しようとも、現在われわれが日々享受している”平和”なるものが、日本の外辺に位置し、直接共産圏に隣接しているという位置のゆえに、防共最前線にたつ南ベトナム、韓国、台湾、沖縄など、多くの地域住民の巨大な軍事的負担と、犠牲の上に築かれているという、厳しい反省がなければならない。
(1)自主外交の基礎は、自主=核武装という方向ではなく、むしろ、米国に対して政治的に信頼感と安心感を与える方向にある。日本の政治が民主的な安定性をもち、左右両翼の暴力主義に走らない明確な保障と安心感を与えることが、長期的に見て、日本が米国依存から脱却して政治・外交の面でイニシアティブを確保する近道である。日本の防衛努力は米国に安心感と信頼感を与え、次第に安保体制から離脱してゆく前提条件であるし、自衛隊の存在理由の第一は、じつに、そこにあるといってよい。
(2)中国の核脅威の増大に対しては、米国の核の傘の下に入る以外に道はない。これは、たとえば自主”核武装”しても程度の差であるにすぎないし、米国は日本の核武装を最も恐れている。
(3)外交努力で米ソ中間の緊張緩和に努め、その緩和のテンポに応じて、日米安保体制を次第に有事駐留の方向へ変えて行くことである。それは(イ)短期的、集中的な電撃作戦を抑止し得るだけの通常陸上兵力および空軍、海上自衛隊の整備を必要としよう。少なくとも日本は、世界の世論に訴える外交行動を取るだけの時間を稼ぐ必要があるからだ。(ロ)中国の核脅威を過大に強調して、国内の左翼勢力におびえ、対決の姿勢を強化する意味で、小選挙区制、憲法改正、再軍備といったコースを準備する保守勢力内部の”対決派”の動向に警戒しなければならない
(4)核兵器というものは、政治的効果を生むための心理作戦なのであって、「核兵器は絶対に使えないもの」であり、最初に使ったものは人類の敵として道義的非難を甘受しなければならないという立場を堅持し、いかなる国の”核恐喝”に対しても、一種の不感症、無関心になることが良策である。日本は原爆の被害を受け、核兵器を作る能力を持ちながら、つくらないという道徳的優位を先取りしつつづけ、それを全世界の世論に訴え、核拡散防止、核兵器使用の禁止、軍縮などの一連の平和運動を大規模に展開すべきであって、これも、平和的手段による重要な核抑止戦略の一環となりうるのである。とくに、核拡散防止では、米ソとともに強力な共同行動をとらなければならない。
(5)略
(6)大規模な情報処理のセンター、および軍備や軍備管理の問題や戦略一般の研究所をつくり、流動ただならぬ複雑きわまる交際情勢の動向をつねに敏感にキャッチし、正確な外交行動の基礎資料を整備しなければならない。
日本ではまだ、”平和”と”正義”が一致すると素朴に考える知識人が多いが、核兵器の出現ということの最も深刻な意味は、現代では、革命的正義は消滅したということである。「正義」より「平和」を上位の価値に据えざるを得ない深刻な苦悶を味わっていない平和主義者は、いまなお「平和」より「正義」を上位の価値に置く素朴な革命主義者とともに、真に20世紀に生きる人間ではないのである。
1966年「国家目標としての安全と独立」より:
小林直樹氏が、「潮」の「第九条と防衛問題の新状況」のなかで日本国民に提示された
(1)日米安保体制を強化する(2)だいたいにおいて現行条約の線を維持する(3)安保は存続するが、基地を撤廃し、米軍は有事の際だけ駐留するように条約を改定する(4)自前の防衛力を強化し、それにともなって漸次米軍を撤退させ、安保を解消してゆく(5)安保を廃棄し、自前の軍備もせずに、憲法9条の下で東西間の多角的不可侵条約もしくはロカルノ方式の保障体制をつくる(6)日米安保を捨てて共産陣営との安保体制を取る・・・大体6つの選択肢を前に国民的な討議が必要であることを説き、「文字通り日本の国運を決する重大な問題であるから、利害得失をつぶさに検討し、何よりも国民の積極的な合意を得るための広い討議の手続きを経るべきである」と提案しておられる。
>>こういう討議は秘密裏に行われなくてはならない。公開討議にはなじまない。こういう話ができるメンバーをどうやって選べばいいんだろうか?こういう話ができる人間かどうか全国民をテストできないか?
「戦争への激しい憎悪」のパッションが、激しい「好戦性」と矛盾なく同居しているところに、アメリカ人の素朴な”正義感”がある。ひとたび他国との紛争にまきこまれるや、自国の「正義」と「悪魔」のごとき他国への憎悪が、激しいパッションで燃え上がる。
宮沢俊義氏が、憲法9条と、自衛隊の存在(憲法違反の存在)のディレンマを説明するのに、「一種の憲法ヤミ状態」が存在すると、味のある、巧妙な表現をしておられるが、私は、禁酒法と平和憲法(戦争=軍備禁止規定)が米国においても、実質的にその思想的、イデオロギー的系譜を同じくしていることを指摘しておきたい。暴力、性、アルコールなどの人間実存の深い問題に関わる領域で問題を善悪の尺度で割り切り、上から法律=道徳規範で禁止、統制すればいいという素朴な道義主義を批判するのは容易だが、そもそもすべての人間が、「禁酒状態」になるのが理想というのは常識的にもおかしい。われわれは人間に酒が必要であるという現実、また現に居酒屋があるという現実を直視しつつも、禁酒法の理想に向かって、その漸増でなく、漸減に向かって努力しなければならない、と説くことが「理想主義」だといったら人は笑うだろう。しかし、似たような点が、憲法9条の規定にあるような気がしてならないのである。禁酒法が、アルカポネを生み、ギャングスターをはびこらせたのと同様に、神聖なる日本国平和憲法が「憲法ヤミ状態」のもとで、自衛隊をギャング団に仕立てあげたら大変なことになる、と思うのが常識ある人間の考える当然のことである。「理想主義」の名のもとに、いかに多くの偽善が社会を毒しているかを知るたびごとに、悲憤慷慨の道義主義と、真の理想主義とを区別する必要性を痛感せずにはおれない。
米国は下からの大衆世論を無視しえない。民主国家であるがゆえに、その為政者は、民衆のもつ非合理的な妄想や、幻想の奴隷なのだ。この民衆の幻想を封じ込めるよりも、中ソを封じ込める方がまだ楽だ・・・
閑話休題:
この書はトランプ現象の理解につながるアメリカ人論でもある。
「無為の蓄積」と「全能の幻想」
:全能の自由主義経済、金融資本主義に任せ、中国に製造業を取られ、南米からの不法移民を受け入れるという無為・・・それに対して国際社会に背を向けた関税万能主義者が現れる
中国周辺の脆弱な中小諸国に脅威を与えようと、中ソが衝突しようと、どうでもいいので、かれらは基本的にヨーロッパ第一主義である。
:ウクライナなんてどうなってもいいから早く戦争をやめさせて中国を叩き潰すのに集中したい
米国にとって歴史過程から離脱した冬眠的孤立か、それとも危険な強国の生活か
:世界の国々から食い物にされ金を巻き上げられても気づかない=冬眠。強国=Great。
「理想主義」の名のもとに、いかに多くの偽善が社会を毒しているかを知るたびごとに、悲憤慷慨の道義主義と、真の理想主義とを区別する必要性を痛感せずにはおれない。
:多様性、ジェンダーレス、平等・・・そんな理想は禁酒法同様の偽善だ、フェイクだ。
米国は下からの大衆世論を無視しえない。民主国家であるがゆえに、その為政者は、民衆のもつ非合理的な妄想や、幻想の奴隷なのだ。
:妄想、幻想の持ち主たちが妄想、幻想のKINGを大統領に選んだ。これぞ正しく民主主義。
コメント
コメントを投稿