言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル 星野智幸

言葉を消費されて 「正義」に依存し個を捨てるリベラル 星野智幸

(前略)

 無謬とは、間違いがない、という意味である。カルトの本質は無謬性にある。教祖が掲げた教義を、信者たちは決して疑ってはいけない。無謬性に完全服従し全身を預けることで、自分も間違いのない存在だというお墨付きを得る。絶対的な真実だから、それを批判する者は排除してよい。

>>官僚もカルトだ。政治家も。”教祖”は自ら作った法律であり、”民意”だ。

それぞれのカルトが、そうして無謬性の感覚をベースに否定しあい攻撃しあっているのが、この世の現状なのだろう。この状態はもはや民主的な世界ではない。

 民主制とは、それぞれ考えや気分の違う者同士が、互いに耳を傾け、調整して制度を作っていく仕組みだ。政治とは、自分たちの正しさ競争ではなく、話し合いで合意するための手段である。

 けれど現状は、政党が、そこに所属したり支持したりする人にアイデンティティーを与える集団へと変質しつつある。政党が居場所化し、カルトに乗っ取られようとしている。旧統一教会と自民党という例だけでなく、立憲民主党も左派の「正義」依存のコミュニティー化しかけている。だから、依存者のゆがんだ認知で現実を見てしまうし、政党の目的である対話の場をうまく作れない。作っているように見えたとしたら、それは同じ考え方の者たちが集って共感し合う居場所であり、価値観の異なる者と制度を作るための対話の場にはなっていない。

>>民主制とは何か?多様性を認め、対話し、話し合う事??俺は、「その場その場で考え・気分が合う人たちが離合集散して政党という集団を作って、媚びたり利益誘導して有権者の人気争いをし、選挙に勝った政党が次の選挙まで独裁政治を行う事」だと思う。

 それにしても、誰もが自己を放棄し無謬性にすがりついてまで、安心できる居場所を欲している現在は、どれだけ殺伐としていることか。あらゆる発言が攻撃できるか感動できるかで消費される状態では、対話はおろか言語も成立しない。そこに呑(の)み込まれたくなければ、文学の言葉を吐くしかない。他人に通じるかどうかも定かではない、究極の個人語だから。私はそうした発話にのみ、未来を託している。

>>俺も会社では自己を放棄し、株主(=親会社)という無誤謬に従うことを強いられた。特に会社法が2006年にできてからは、会社という存在自体が「株主という無誤謬の”教祖”様のお望みに従おうとし、株主様のお望みにならないことはしないようにする」もの(=カルト)になり果てた。俺は「文学の言葉を吐く」代わりに、そんな会社から部下同僚を守ろうと考えた。俺はヘトヘトになった。

星野智幸さん

 ほしの・ともゆき 1965年生まれ。新聞記者を経て、97年「最後の吐息」でデビュー。著書に「目覚めよと人魚は歌う」(三島由紀夫賞)、「俺俺」(大江健三郎賞)、「焰(ほのお)」(谷崎潤一郎賞)など。最新刊は「だまされ屋さん」。

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    富永京子
    (立命館大学准教授=社会運動論)
    2024年8月27日10時3分 投稿
    【視点】

    数年前から、一度はSNS上で活動をしていたものの、オンラインでの発言・活動をやめたアクティビストの人々に聞き取りをしています。なぜハッシュタグアクティビズムやSNSでの政治的発言をやめたのかと聞くと「味方であるはずの人々から常に発言や役割を期待され、そこからはみ出たら容赦なく叩かれるのに疲れた」「社会運動というより、フォロワーの正解に合うような◯×ゲームをしている気がする」といったお答えをいただいたのが印象的でした。 その点でも、星野さんのこの寄稿に同調する人は多いのではないかと思います。自分自身、SNSでもネット番組でも「社会批評」的なコメントをすることは前より少なくなりました。オーディエンスの方々の「正義」に合わせ、顔色を伺いながら発言することに疲れてしまいましたし、彼らの中の「正義」コードから少しでもはみ出て彼らの神経を逆撫でし、「正義」を盾にしたお叱りを受けるのにも疲弊しました。 SNSをはじめとしたオンライン空間での言論は増大し可視化され、リベラルな方向に政策や人々の意識を変えることに一定程度成功したことは紛れもない事実です。ただ、だからと言って私たち一人ひとりが「自分の頭で考える」ということができたのかといえばまた別で、所与の権威からまた別の「正義」という権威に寄りかかっただけだったのかもしれません。


  • >>何が正しいんだろう?と無邪気に考える。それが「自分の頭で考える」ということだ。フォロワー、オーディエンス、株主、上司、部下、顧客、仕入れ先、家族、隣人、たまたますれ違った人・・・の「正解」「正義」に迎合することが求められ、その迎合の具合をチェックされ監視され、場合によっては通報されたり告訴されたりする・・・ジョージ・オーウェルの「1984年」では国家・支配者が仕掛けたカメラや

    マイクによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって監視される。今の日本にはそんなことを露骨にする絶対的な国家も支配者もない。にもかかわらず、なぜか、人々は自発的に相互監視し、「自分の頭で考えない」ようにしている。絶対的な国家・支配者に対してなら戦って潰し、カメラやマイクを壊すという対処法が考えられる。今の日本ではいつの間にか自分の中に監視カメラやマイクができてしまっている・・・どう壊すのか、そして自発的に行われている相互監視をどうすればやめられるのか?・・・これが分からない。引退して気楽になった俺にできることは自分自身の監視カメラやマイクをはずすことだ。これは”社会”と絶縁し、隠遁生活を送ることにつながる。また「わがまま」でもある。監視カメラやマイクを外すことを優先しつつ、なるべく社会との絶縁を避けるということが残りの人生の目標だ。

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    能條桃子
    (NOYOUTHNOJAPAN代表)
    2024年8月27日12時39分 投稿
    【視点】

    左派の「正義」依存という、言い当て妙な表現を反芻しながら、先日お亡くなりになったウーマンリブの旗手と呼ばれる田中美津さんのことを思い出していました。田中美津さんは生前、人間が生きる幅より社会運動が狭くなっている、とフェミニズムへの眼差しを共有されていました。 好きでもない男にお尻を触られたくない、と同時に、好きな男が触りたくなるようなお尻が欲しい、という両者の感情は人間に両方存在する。前者の「正しさ/正義」だけではなく、後者の「欲望」を同時に語り、共存しているものを共存しているように扱うことを目指したのがリブだった、と語っていました。

  • >>実に面白いレトリック。今の日本では、好き嫌いは後回しで「お尻を触ってくる男を正義とし、好きになろうとする」。つまり、お尻を触ってくる男の数が多い状態が正義で、それが望ましいのだ。多くの人が、これを無理強いされるわけでもないのに望んでしまうらしい。転職を盛んにするのは「たくさんの男(会社)にお尻を触らせて来た」という証を求めてか?問題は、「お尻を触らせた」あと、その会社で何をし、何を残したのか?だろうが・・・俺は意固地に好き嫌いを最優先することにこだわりたいし、引退した今はそれができる。

  • 「正義」の無謬性に完全服従し全身を預け、個人を重視するはずのリベラル層が「正義」に依存するために個人であることを捨てている状況。 星野智幸さんは、究極の個人語である文学に未来を託していると締めていますが、では私はこの息が詰まりそうな環境で何に未来を託しているのだろうか、とつい考えてしまいます。答えはまだないですが、田中美津さん、ウーマンリブの運動とともに考えられるところがあるのではないか、と感じました。

  • >>個人であることを捨てる=自分の頭で考えない。好きな人が好みそうなお尻(=正義)を探し、寄りかかる。

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