福田恒存「反核運動の欺瞞」より

1982年の「諸君!」に掲載された福田恒存「反核運動の欺瞞」より抜粋したが、今年一番深く考えさせられた文章であった。自由、死生観、日本人論、、、以下抜粋

もし、世界中の人間が、わが平和憲法の前文を範とし、全政治家が申し合わせたように、核や軍備の全廃に踏み切ったら、それこそ一大事である、それは人間廃業*註と全く同じことだからだ。何でも言うことを聞く人間ばかりになったら、つまり、この世に悪人がいなくなったら、何と無気味なことだろう。それは善人もいない世界を意味するからだ。

*註廃業=業の否定。業を否定し尽くしたら人間は窒息する。

「お前は神様に死に時を借りているのだぞ」「まだ返す時ではない、期限が来ないうちに返すのは真っ平ごめんだ。なんだって慌てて返す必要があるのだい。向こうで催促もしないのに?」

とかく「一億一心、火の玉」になりがちな日本人は、核の廃絶と言えば、どんな人間も犬猫同様、一様に署名するはずだと考える。たとえそれがどんなに善いことであり、簡単なことであると考えても、犬猫を相手にするようにそれを強いてはいけない。もし善いことなら、それを強いてもいいと考えるようになったら、それこそ善も悪もない無気味な世界となり、人間の精神は窒息する。>>WOKEで窒息。

一度発明されたものは、人間は必ず使う、が、それでは人類は滅亡しない

バートランド・ラッセルなど、1947,8年、まだソ連が原爆製造に着手する前には、アメリカ側からソ連に戦争を仕掛け、相手側を完全に潰してしまえと言ったものだ。彼らの言う平和とはそんなものなのだ。それは形を変えた戦争のことであり、自分たちの頭上に核が爆発することなしに敵に完勝できさえすれば、平和の必要は全くなく、核戦争大歓迎なのである。事実そうでもなければ、一日一日をどうして過ごしてよいか、私には見当もつかぬ。もし核が全人類を破滅させると本当に考えているなら、どうして三度三度の飯が喉を通るのだろうか、どうして人と会って核廃絶の話もせず、笑顔で別れられるのだろうか?

>>平和が自己目的化する。要は平和でなく、自分が枕を高くして寝られればいい。そして枕を高くして寝ている多くの日本人が平和を自己目的化する。

本土決戦になった方がよかったのかも知れぬ。「所詮は人間さ、死ぬに決まっているただの人間さ」ということになるからである。核を廃絶して、通常兵器なら死んでもいいとは言うまい。交通事故なら死んでもいいのか、ホテルの火事なら死んでもいいのか、が、交通事故を廃絶し、ホテルの火事を廃絶する方が、核の廃絶より遥かに効果が期待できよう。が、」これを地道にしつこくやって行こうという人はまずあるまい、そして効果の全く信じがたい核廃絶となると、たちまち署名が集まる、署名だけが。

>>自殺はダメだ、と分かった上で特攻隊のように日本人のためと信じて自殺する。本土決戦も同様だろう。本土決戦すれば沖縄や満州での棄民を正当化できる。そして命に代えても守らなければならぬものがある、という覚悟が残る。

もし米ソの核保有量が10対1になってしまえば、ソ連は核戦争の火ぶたを切らぬであろう、ソ連が火ぶたを切らねば、アメリカも火ぶたを切るという事はあり得ない。それゆえ、核戦争を絶対に避けたいなら、核廃絶の平和アピールなどより、両者が互いに鎬を削るように声援を送るにしくはない。もしソ連がそれに乗じれば、遠くない将来に、経済的破綻がやってくるだろう。

>>ソ連崩壊の予言・・・福田さんの慧眼に驚く。

チェスタトンは知っていた。たとえ自由は失っても、それより道徳を失う事の方が怖いことを。なぜならそれは人間精神の窒息だからだ。カソリックであるチェスタトンは核兵器による他殺の方が優れた人、恵まれた人がする自殺よりましだ、と考える。

>>他人のための自殺、肉体的精神的財政的な苦しみからの自殺などは別。自殺する自由は他殺する憎い奴を殺そうという自由より質が悪い。

人間には自由は全くない。いかなる国のいかなる両親に生まれるか、その生の出発点において、人間は完全に自由を奪われている。誰と付き合い、誰に好かれるか、その点でも自由はあり得ない。ある事に関心を持ちある事に関心を持たない、そこにも自由は許されない。そういうと、人間に自由がなければ息苦しくて仕方がないと、多くの人は考える。

すべては運命で決まる、それも生まれたときに、この身も蓋もない事実をその通りだと受け取ったら、どういうことになるのだろうか。それでは勉強する張り合いがなくなるという、もしそうなら君は生まれつき怠け者なのだ。もしそうならたとえ人間は自由だと言われようが、やはり同じことで君は勉強する張り合いを失うであろう。それに反して運命論を押し付けられても、そしてなるほどと思っても、やらねばならぬことはやる人間がいる。

小林秀雄氏の「本居宣長」に次のようにある。死を目指し、死に至って止むまで歩き続ける、休むことのない生の足取りが、「可畏(かしこ)き物」として、一目で見渡せる、そういう展望は、死が生のうちに、しっかりと織り込まれ、生と初めから共存している様が観じられてこなければ、完了しないのであった。

生とは形の変わった死であり、死とは形を変えた生である。しかし一度生存したものは、死んでも永遠に滅びない、いまだにそれだけは固く信じている。

>>人間は自由もなく、ただ死に向かって歩き続けるものだ、と受け入れた上で、(息)苦しくても投げ出さずに死に向かって歩む・・・残された者がその足取りを見ると「迦微(カミ)」である。自由に負けて道徳を失ったり自分の善を押し付けて他人の自由を奪ったりすると(息)苦しいを通り越して窒息する。その迦微から死に時を借りている。迦微さまが返せ、とも言わないうちに勝手に死ぬ(=自殺する)のは自由ではあるが、命や迦微に対する侮辱だ。俺に言わせれば「生きるより楽だから自殺する」「生きることから逃げて自殺する」のはしてはならないこと。「生きるより死ぬ方が苦しい」「自分が死ぬことによって多くの人が助かる」なら自殺もありだろう。

以下に本居宣長の神・迦微論を引用する。宣長さんは「神は何か」とか「迦微は何か」なんて論ずるのは漢ごころだから、やめなさい、神(迦微)様は恐れ多くて可畏(かしこ)きものなんだから日本人ならひたすら崇め奉れ、と言う。

本居宣長による中国伝来の漢字「神」VS日本古来の「迦微」:

 さて凡そ、カミ(迦微)とは、古御典などに見えたる天地の諸々の神たちを始めて、それを祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐい海山など、その余(ほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物をカミ(迦微)とは云うなり、

すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの、優れたるのみを云うに非ず、悪しきもの奇(あや)しきものなどにも、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云うなり、さて、人の中の神は、先ずかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり、其は遠(とほ)つ神とも申して、凡人(ただびと)とは遙に遠く、尊く可畏(かしこ)く坐しますが故なり、

抑(そもそも)カミ(迦微)はかくの如く種々(くさぐさ)にて、貴きもあり賤しきもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪きもありて、心も行(しわざ)もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば、大かた一むきに定めては論(い)ひがたき物になむありける、

まして善きも悪しきも、いと尊くすぐれたる神たちの御うへに至りては、いともいとも妙(たへ)に霊(あやし)く奇(くす)しくなむ坐(し)ませば、さらに人の小さき智(さとり)以て、其の理などちへのひとへも、測り知らるべきわざに非ず、ただ其の尊きをたふとみ、可畏(かしこ)きを畏(かしこ)みてぞあるべき、


>>「可畏(かしこ)き」とは、「常ならぬ力=オーラがある」という事だろう。宣長は、普通とは違う、オーラがあるもの(=目に見えない影響力があるもの)は何でも「迦微」とする。それ以上『神とは何か?などと』詮索したり屁理屈をこねくり回すのは”漢ごころ”で、”大和ごころ”はひたすら可畏(かしこ)めばよい、と言う。


閑話休題:

自由に負けて道徳を失ったり自分の善を押し付けて他人の自由を奪ったり・・・前者はトランプ、イーロンマスク 後者は民主党&ハリス。

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