豊田穣「最後の元老 西園寺公望」下巻
「最後の元老 西園寺公望」下巻では、5・15,2・26から三国同盟までが描かれる。この頃の西園寺の口癖は「一体、どこへこの国を持ってゆくんだか・・・みんな何を考えているんだか」だった。そして「陸軍がこんなふうに勢力をふるっていては何ともしようがない」と言って死んでゆく。
その陸軍も下剋上で陸軍大臣、参謀長、大将が下の者をコントロールできない。陸軍大臣や参謀長や大将は、「ま、いいか。最後は天皇陛下に尻拭いしてもらおう。」と無責任だった。陸軍の若手は片一方では「天皇なんて君側の奸にあやつられているたわけもの」と思い、片一方では上官を見習って「最後に尻拭いするのは天皇」と思っていた。この”たわけものに尻拭いしてもらおう”という矛盾が陸軍の無責任な軽挙妄動を生み出した。
陸軍の若手が昭和維新などと言って行う軽挙妄動を見て、政治にも将来にも絶望していた国民の多くは是とし喜び、政治家・官僚は恐怖して沈黙し、右翼ははやしたてた。結果、日本は陸軍の支配する国になってしまった。
1930年代の陸軍大臣や大将は明治維新後の生まれで天皇はすでに雲の上の人だった。元老と言われる人たちは明治天皇をいわば「同じ釜の飯を食った仲間」と考えた。だから建前上「雲の上の人」と扱ったが、「最後に尻拭いしてもらうほど頼りがいはない」とも思っていた。だから、無責任な軽挙妄動も慎んだ。
明治生まれで1930年代大臣や大将になった陸軍軍人(二代目)は、最後に尻拭いしてもらう天皇を必要とし、崇め立てた。不幸なことに1920年代、世界的な軍縮の動きがあり、軍は不人気となり、新入軍人の質は落ちた。彼ら(三代目)は二代目から見たら貴重な後継者であり、甘えらええ、おだてられて下剋上を起こした。
豊田穣は大東亜戦争に負けたことをカタストロフィーと称した。1930年代の日本は
・天皇と陸軍は反目し合い、その陸軍も長州閥と反長州で反目し合っていた。(東条と石原も反目しあっていて、それを隠そうとしなかった)
・政党政治は足の引っ張り合いに陥り、メディアもこれを煽った。
・経済は壊滅し、国民・若い軍人は絶望していた
・帝国主義の先輩国を見習って中国にちょっかいを出したが先輩国(米英)に睨まれ、国連 脱退に追い込まれ、孤立した。
日本は八方塞がりだったにも関わらず、派閥争いや権力闘争にあけくれ、1940年死んだ西園寺の「一体、どこへこの国を持ってゆくんだか・・・みんな何を考えているんだか」という言葉通りだった。大東亜戦争は、八方ふさがりで手の打ちようがなかった日本がアメリカに「ご破算=カタストロフィー」にしてもらうために起こした、とも言える。昭和16年12月8日、日本がハワイを攻撃し、対米戦争が始まったとき、国民の多くは「すっきりした」と快哉を叫んだ。
閑話休題:
2・26事件当時、大佐で参謀本部作戦課長(いわば中間管理職)で2・26事件を鎮圧する立場だった石原莞爾が1931年に起こした満州事変は軽挙妄動であったか?結果的には陸軍若手の下剋上のモデルとなりまた、日本の孤立のきっかけとなったのだから軽挙妄動だったと言える。世代的には2.5代目というところ。二代目、三代目とは違って「尻拭いは天皇にしてもらおう」という無責任ではなかった。天皇より日蓮の方が偉い、と思っていた彼は天皇はもちろん、すでに亡い日蓮に尻を持っていくつもりはなかったと思われる。一方で石原は「アメリカとの最終戦争に勝つこと」を目指していた。自由民主主義、資本主義の持つ矛盾を解消し、帝国主義を終わらせるには戦争というカタストロフィーが必要、と考えていた。
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