田中智學・日蓮主義
石原莞爾、北一輝、井上日召・・・日蓮宗を信じていたと言われる。
日蓮は自分が生きていた日本が乱れているのは浄土教などの邪宗を信じているからで、邪宗への布施を止め、正法である法華経を中心(「立正」)とすれば国家も国民も安泰となる(「安国」)」と説き、時の執権北条時頼に立正安国論を提出した。つまり、日蓮は他の宗教家と違い、政治に口を出した。ただし、どんな政治組織・体制でどんな国を目指すべきか、などと言う事は具体的に明らかにせず、単に「法華経を信じろ」としか言わなかった。北一輝の「日本改造法案大綱」も、政治組織・体制は明らかにしていない。単に改造後の日本の理想の姿(=日本人流の民主主義)が描かれているだけだ。
1920年代の日本の廃退・乱れを止めるには資本主義や議会政治などと言った邪宗を止め、国体を信じろ、最終的には世界中に国体を広めて治めよ(八紘一宇)、というのが日蓮主義の生みの親、田中智學の思想であり、石原莞爾はこれに心酔した。智學は人類最後の到達点は絶対平和であり、「軍縮ではダメだ。すべての国家が一斉に武器を捨てるべき」と説いたが、石原はこれに倣い、武器が進化すれば戦争ができなくなる(なくなる)、最後の戦争は日米で行われる、と言った。また、日蓮主義では天皇より日蓮の方が偉いと考え、天皇が日蓮に帰依することによって国民を折伏教化する、とした。
日蓮には、浄土宗から狙われ、幕府から弾圧されてもその攻撃的な他宗非難をやめず、また、「斬首されそうになったが、強烈な光を放つ物体が飛んできて処刑が中止された」などという伝説も残り、「命を捨てて自ら信じることをする」英雄という見方をされ、これは井上日召も石原莞爾も見習った。武器を持つ軍隊に負けないで互角に張り合うためには命を投げ出すことが必要だった。井上、石原は結局処刑されないで病死したが、これも日蓮と似ている。
井上日召は、「散々苦悩した挙句死のうとした連中」を集めた。「何も欲がなく、生きていることがつまらない。どうして死のうかと、そればっかり考えている者ども」を使って1932年3月に3月事件を起こした。日召は、クーデターというより単にテロのためのテロとして死ぬ事ばっかり考えている若者に「一人一殺」で民政党筆頭総務の井上準之助、三井合名の団琢磨を射殺させた。
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