1930年代の日本
1930年代の日本ではテロが頻発した。その理由を考える。状況が似ている2020年代の日本ではテロは起きないのか?探るためだ。
1900年~1910年に生まれた日本人の思想家、軍人は彼らが20歳過ぎとなった1930年以降の、政党政治・資本主義の腐敗、欧米先進国の帝国主義に反発・絶望し、革命を考えた。彼らは理想化され伝説となった明治維新にあこがれ、再度維新を行う(あるいは未完に終わった明治維新を完成する)ことを目指し、その邪魔になる政財界人や軍人をテロで排除しようとした。
万世一系の天皇家が交代せず、王家であり続けてきた。この千年以上変わらず続いた神聖な天皇家出身の天皇が君主であり、また親であるという教育を明治維新以降の日本人は受けた・・・天皇家が日本で一番最初にできた家、つまり、日本人の全ての家の始まり=日本人全ての先祖なので、天皇は全日本人の親。つまり、君主であり親。(君臣父子)
儒教思想では君主に対しては忠、親に対しては孝をもって従う、君主と意見が合わない場合は君主のもとを去るべきだが、親との縁は切れないから忠よりは孝が大切と言われた。日本においては忠と孝行が一致する。
明治維新経験者は天皇なんて大したことない、たまたま徳川幕府をつぶす口実に使われただけだ、と分かっていたが、明治以降に生まれた日本人には天皇とは命に代えても守るべき親であり、かつ、絶対的な君主であり、天皇の治める日本国は天壌無窮(永遠に不滅)の存在であった。軍人は、この”永遠不滅の神州”を守る為なら限りある個人の命など差し出すべき、と叩き込まれた。
この、仕えるべき君主が親でもある、という世界に冠たるユニークな国の形を国体と呼んだ。また、欧米の覇道主義あるいは小乗と対比し、王道、大乗的と称し、力でなく、徳をもって治めること国体の眼目とした。これに対し、欧米覇道の典型が物質万能主義、資本主義、個人主義、民主主義であり、日本は明治以降これらを直訳的に入れて先進国の仲間入りを果たしたが、その後政治経済は目先の利益、自分の利益だけを追う輩の支配するところとなって恐慌に苦しむようになり、国体は歪み汚された。また、日本以外の東亜の各国は欧米覇道主義に蹂躙されている。日本人は欧米覇道を打ち破って日本を改造し、次いで東亜を解放しなくてはならない・・・10代半ばから陸軍幼年学校、海軍兵学校に入って日本軍は天皇に直接統帥される神聖な組織、という教育を受け、純粋培養された軍人にはこれを自らの使命と考える若い将校がいた。これら若い将校たちは、覇道主義に取りつかれて国体を汚す政財界人及び軍幹部をテロで排除しようとした。
陸海軍は1920年代以降、軍縮で予算も人員も削られ、軍上層部はなんとかして予算や人員を復活させようと考えていたが、若い将校によるテロを「下剋上」と称して容認し利用して、軍の予算や人員のを増やしたり内閣の人事に干渉するようになる。
明治維新:
明治維新は、天皇をないがしろにした武士を政治の舞台から引きずり下ろし、天皇と国体を復古し、日本の独立を保った奇跡であった。
第一次世界大戦中「対岸の火事」で好景気・バブルになった日本は金儲けしか考えない財閥・成金と彼らから金をせびる政治家を生んだ。戦後は一転不況となり、1923年の関東大震災、1927年の昭和金融恐慌、1929年の大恐慌と日本の経済は壊滅した。
同時にバブルその崩壊の影響から1920年代はダダイズム、無政府主義が盛り上がり、1923年には無政府主義者による皇太子暗殺未遂事件も起きた。1930年代はエログロナンセンスと呼ばれる退廃的な文化・風潮が流行した。
これを右翼や若手将校の一部は明治維新で復古した国体を、天皇を取り巻く「君側の奸」が政治を腐敗させ、農民を困窮させているとし、君側の奸を殺して取り除き、クーデターを起こして軍事政権を打ち立てることを昭和維新と呼んだ。
逆に言えば、明治維新が”奇跡”だったのは明治10年の西南戦争までで西郷が死に、翌明治11年大久保が死んだあと生き残ったのは明治天皇以外は雑魚ばかり、という評価だった。(特に1912年の明治天皇崩御以降は国運が衰え始めた)この奇跡の明治維新と引き比べて大正昭和の体たらくは何だ、維新を再度行い、維新を完遂して日本を改造すべし、という考えが出てきた。
1922年には大隈・山縣、1924年には松方と、明治維新を実体験した元老が死に、生き残ったのは10代で戊辰戦争を戦った西園寺公望だけになったが彼も1920年には70歳を超え、病気がちになり、また、君側の奸としてテロの対象にされた・・・1930年代は明治維新を実体験していない者、日本は列強におびえる弱い国ではなく列強と対等にやりあう一流国、という考え(悪く言えば夜郎自大)の世代に交代した。
欧米列強のアジア侵略に対する怒り:
中国、インド、トルコ、イラン、タイといった、かつて王国として隆盛を誇った国々が欧米列強に蹂躙されていた。明治維新に成功した日本だけは例外で第一次世界大戦では戦勝国となり一流国の仲間入りを果たしたが、戦後はバブルが破裂し、また英米が日本を警戒し始めた。日本人の中にはアジアの諸国の欧米からの解放を指導しようという者が現れた。
二大政党(政友会と民政党)時代:
1925年普通選挙が始まり、政友会と民政党が交互に政権を担当したが、選挙資金のため、汚職・疑獄事件が頻発し、スキャンダル合戦・足の引っ張り合いが激化した。恐慌や貧困化した農民を放っておいて財閥と組んで政争に明け暮れる政党政治に絶望を感じる若者は多かった。メディアもこれを助長した。この点は今の政治と全く同じ。今と大きく違うのは、1930年当時は陸海軍があったことで、1920年代の軍縮によって減った人員を増強したい軍部にとっては、その人員の最大のソースである農家を守ることは重要課題だった。
ロンドン条約(統帥権干犯問題)5・15事件):
1920年以前は第一次世界大戦の影響で軍人は人気のあるあこがれの職業で、軍人になりたい若者も多かったが、戦後は一転厭戦気分が世界中に横溢し、人気がなくなり、あこがれの職業から「娘を嫁にやるべきではない」職業となった。1922年ワシントンで、1930年ロンドンで海軍軍縮が国際的に話し合われた。ロンドン条約については、野党の政友会が「勝手に軍艦の量を決めるのは「統帥権干犯だ」と上げ足を取り、民政党から政権を奪った。政友会・犬養毅首相は、元来は軍縮を言っていたが、統帥権干犯問題を取り上げて軍部を煽り、政治利用した。1932年右翼や若手将校が政党と財閥を倒して軍事政権を目指して起こした5・15事件が起き、犬養は暗殺された。
1925年の普通選挙開始以来、総選挙で勝った政党の総裁を西園寺公望が首相として天皇に推薦するという「憲政の常道」は、5・15事件をきっかけに瓦解する。つまり、政党政治に批判的な陸軍の態度に遠慮した西園寺は退役した海軍大将・斎藤実を首相に推薦し、政党主導の内閣運営から軍主導の「挙国一致内閣」に変わった。
5・15事件陸軍軍法会議に残された後藤映範の言葉:
・「臣(おみ)が身は日々死出の旅支度皇(すめ)が為には生きて帰らじ」・・・国を守り、国を変えるためには命を差し出す。その覚悟を毎日新たにする。
・後藤はもともと吉田松陰、西郷隆盛を尊敬していたが、熊本陸軍幼年学校長が維新史並びに維新烈士について語るのを聞いて、他の維新烈士も好きになった
・明治維新の起こった幕末と、当時の日本の状況は似ており、自分は光輝ある明治維新を生むの礎石となった幕末維新殉難烈士になろうとした
・「桜田門外の変」を「桜田の義挙」と呼び、この義挙が全国有志の士に異常なる感激を与え、その奮起を促した・・・この桜田の義挙を5・15でも目標とした
・日本には憂国慨世の国士がいるはずだが、何の実効も見えない。天誅の剣を、現に国家を亡滅の淵に落しつつある腐敗堕落せる政党財閥特殊階級等の支配階級に加え、無自覚なる全国民の惰眠を覚破する。
・言っても聞かずに悪さをする子供にはゲンコの一つも食らわせる、盲腸炎になったらメスで腹を裂く・・・事ここに至ると日本帝国を救うためには暴力や外科手術が必要だ
・露、米とは近く戦争が始まるが、惰弱無力、無自覚な現日本支配階級では役に立たない
・国軍における下士官以下の大半は農民子弟である。東北地方の農民を飢饉から救わなくてはならない
※後藤は1909年生まれ、10代前半(1920年代前半)に陸軍歩兵第四十五連隊にはいり,のち陸軍士官学校。
2・26事件 磯部浅一 獄中日記
・北一輝の「日本改造法案」を歴史哲学の真理、日本国体の真表現、大乗仏教の政治的展開と評した
・明治以前で尊敬できるのは楠木正成、次に西郷隆盛、明治以降では北一輝。
・自分をスネ者と称す。「軍部を倒せ、軍部は維新の最後の強固な敵だ、士官候補生は軍の士官候補生たるなかれ、革命武学生たれ、革命とは軍閥を討幕することなり。上官に叛け、軍紀を乱せ」
・ロンドン条約は明らかに統帥権の干犯ではないか、現在の国法は大権干犯を罰する規定すらないところの不備ズサンなものではないか。理においては充分に余が勝ったのだ。しかし如何にせん、徳川幕府の公判廷で松陰が大義を説いていたようなものだ
・肝心かなめの陛下がよくよくその事情をおきわめあそばされないで、何時までも国賊の言いなりになってござれますから、日本がよく治まらないで常にガタガタして・・・
※磯部は1905年生まれ、10代前半(1920年前後)に広島陸軍幼年学校入学、1926年陸軍士官学校卒。
丹心録 2.26事件で磯部浅一とともに同志に遅れて処刑された村中孝次の妻あての遺書
・吾人は「クーデター」を企図するものにあらず、武力をもって政権を奪取せんとする野心私欲に基づいてこの挙をなるものにあらず、吾人の念願するところは一に昭和維新招来のために大義を宣明するにあり。そもそも維新とは国民の精神覚醒を基本とする組織機構の改廃ならざるべからず。しかるに多くは制度機構のみの改新を云為する結果、自ら理想とする建設案をもってこれを世に行わんとして、ついに武力を擁して権を専らにせんと企図するに至る。しかしてかくのごとくして成立せる国家の改造は、砂上の楼閣に過ぎず・・・
・明治末年以降、人心の荒怠と外国思想の無批判的流入とにより、三千年一貫の尊厳秀絶なるこの皇国体に、社会理想を発見し得ざるの徒、相率いて自由主義に走り、「デモクラシー」を謳歌し、再転して社会主義、共産主義に狂奔し、ここに天皇機関説思想者流の乗じもって議会中心主義、憲政常道なる国体背反の主張を公然高唱強調して、隠然幕府再現の事態を醸せり。
・我が国体は万世一系連綿不変の天皇を奉戴し、この万世一系の天皇を中心とせる全国民の生命的結合なることにおいて、万邦無比と言わざるべからず。
・我が国体の最大弱点はまたこの絶対長所と、表裏の関係において存す、天皇絶対神聖なるに乗じ、天皇を擁して天下に号令し、私利私欲を逞しうせんとするものの現出により、日本国体はまた最悪の作用を生ず。蘇我、藤原氏の専横、武家政治の出現、近くは閥族政治、政党政治等みな然り
・日本全国民はすべからく眼を国家の大局に注ぎ、国家百年のために自主的活動をなす自主的人格国民ならざるべからざることを主張するものなり。国民は断じて一部の官僚、軍閥、政党、財閥、重臣等の頤使に甘んずる、無自覚、卑屈なる奴隷なるべからず。また国体を無視し、国家を離れたる利己主義の徒なるべからず、日本国家の生々躍々たる生命的発展は自主的自覚国民の自治と、然り而してこの自覚国民が一路平等に志尊に直通直参する・・・
・話によれば陸軍は本事件を利用して昭和15年までの尨大軍事予算を成立せしめたりと、しかれども尨大なる軍事予算を火事泥式に強奪編成して他を省みざるは、国家をいよいよ危うきに導き、国防をますます不安ならしむるものなり。軍幕僚のなすところかくのごとし。あるいは言う昭和15年より義務教育年限が8年に延長せらるる、これ君らの持論貫徹ならずやと。謬見もはなはだし。「日本改造法案大綱」には義務教育十年制を主張しあり、この十年とそれの八年と相似たりと言えども、根本精神において天地の差あり、この十年は昼食、教科書官給の十年なり。貧困家庭の子弟と言えども学び得る十年なり、その八年はドイツの義務教育年限を直訳受け入れての八年なり、六年制においてすら地方農民は非常なる経営困難にして、弁当に事欠く欠食児童を多発しあるにもあらずや、八年制の地方農山漁村に与うる惨害や思い半ばに過ぐ、不肖らは義務教育費全額国庫負担を主張し来たれり、地方自治体はこれによりて大いに救わるべし、さらに一歩を進めて教科書、昼食等を官給せば、児童とその父兄とはまた大いに救わるべし、しかる後に教育年限を八年とすべく十年とすべし。今の八年制は形骸を学んで大いに国家を謬るもの、官僚のなすこと、かくのごとし。
※村中は1903年生まれ、札幌第一中学の後、15歳前後(1910年後半)仙台陸軍地方幼年学校入学、陸軍士官学校を経て1932年陸軍大学校入学。
日本愛国革新本義
橘孝三郎(1893年生まれ。農本主義思想家。5・15事件では塾生7人を率いて変電所を襲撃)が5・15事件の直前、土浦において青年将校に対して行った講演録より抜粋。
この間、老人たちがこんな話をしていたのです。
「早く日米戦争でもおっぱじまればいいのに」「ほんとうにそうだ。そうすりゃ一景気来るかもしらんからな。ところでどうだいこんなありさまで勝てると思うかよ。何しろアメリカは大きいぞ。」「いやそりゃわからん。しかし日本の軍隊はなんちゅうても強いからのう。」「そりゃ世界一にきまってる。しかし、兵隊は世界一強いにしても、第一軍資金がつづくまい。」「うむ・・・」「千本桜でなくとも、とかく戦というものは腹がへってはかなわないぞ。」「うむ、そりゃそうだ。だがどうせまけたって構ったものじゃねえ。一戦争のるかそるかやっつけることだ。勝てば勿論こっちのものだ、思う存分金をひったくる。まけたってアメリカならそんなにひどいこともやるまい、かえってアメリカの属国になりゃ楽かもしれんぞ。」
>>以上のほか、北一輝が1919年に書き上げ、2・26事件に大きな影響を与えた「日本改造法案大綱」を取り上げなくてはならない。本書は昭和維新を目指す右翼、軍人にとってバイブルとなったのだから影響力はあった。日本改造法案大綱の感想は別途記す。ただし、これは「三年間憲法を停止し両院を解散し全国に戒厳令を布く」ことを前提としている。三年間憲法を停止するのは天皇自身でよしとして、本書に書かれた政策を実行する「国家改造内閣」のメンバー及び実務を担う役人はどこからどうやって選任するの?が書かれていない。2・26事件をやらかした若手将校たちは自分たち、もしくは仲間の軍人が実行役と思っていたんだろうが、軍人が役人同様に行政ができるとは思えない。そこに不備があった。
本書に書かれた政策を実行できるような大臣・役人は既存の大臣・役人では不適だろう。じゃあ、どこから?この点は今でも似ている。仮にご立派な政治家が出てきたとして、気の利いた数万、数千の官僚はどうするのか?現行の官僚でいいとは思えない。
閑話休題:
軍人がいないのが1930年代と大きく違う点だ。今、当時の軍人のようなテロを起こすことができる人たちはいるか???会社員、官僚が転職を重ねることがテロか?従来の上司部下の関係をぶっ潰す、という点では下剋上でもある。少なくとも、日本の将来を託すべきは若い会社員、官僚しかいない。
コメント
コメントを投稿