リアリズムなき日本人

 1976年9月「文藝春秋」掲載 山本七平ー司馬遼太郎対談

山本:私の部隊長は、昭和の初めに、一兵卒から下士官候補生になり、下士官をやって、曹長のときに少尉候補者の試験を受けてパス、 それから陸士に短期留学して砲兵学校へ行き、少尉に任官して少佐になったという人物。 昭和の陸軍史を一兵卒から少佐まで地で言った人ですよ。 こういう人が受けた試験は大変な競争だったようです。 そのかわり、軍隊の裏も表も知り尽くしていた。

この人は当時(昭和17年)、いまの下士官はダメだとハッキリ言いましたね。 われわれが昭和の初めに下士官になったときは大変だった。 農村に帰っても食えない。 だから死に物狂いで勉強したと。 その部隊長は山梨の人で、自ら貧農の出身と称しておられましたけれども、とにかく軍隊にのこらなきゃ食えないんだ。 だから必死で勉強したっていうんですね。

司馬:そうでしょうね。 九州あたりでも、兵隊さんに行って、上等兵で帰ってくるのは村の名誉なんですけれども、これは平和な時代ですが、次男坊あたりは下士候の試験受けて准尉になる、あれは退職金が・・・

山本:出るんです。

司馬:タバコ屋を開くぐらい、もしくは何反かの田圃が買えるぐらいはくれるんですね。

山本:ええ。 自分の夢というのは、准尉になったら退職金もらって帰って、少し田畑を買って、恩給で最低の米代を手に入れて、女房は畑を少し耕して、自分は青年学校の先生か役場の書記か、体操の教師になり、朝夕ニワトリの世話をする、というつもりだったというんです。 これが多いんです。 ですから、単に軍国主義とはいえないんですね。 こういう人たちを。 あの時代には軍曹を13年やったなんていう人がいましたね。 上がつかえてどうしようもないから、動けない。 中隊には、曹長の定員が一名ですからね。 そういう軍縮時代を経た後で、われわれのような幹部候補生が、どんどん追いついてくる、ですから、連中に非常に強い欲求不満がありました。 彼らはきびしい選別を受けてきた自負があるから、いまの下士官はダメだ。

司馬:リアリズムは、一つの運命というものがあって、それはどういう形をしているか。 どういう動き方をするかという非常におっかなびっくりで相手に迫っていって、像をつくる。 対象に対する謙虚で相対的な態度がリアリズムの基礎ですね。 それを失うというのは、結局大正時代のシベリア出兵ごろからだろうと思うんですけれども。

第一次世界大戦の後、軍艦も、陸軍用の車両も、オイルで動くようになりましたですね。 そうしたら、日本は軍備から降りるべきでしょう。 もう全部軍隊を解散して、別の方法で国の運用を考えていかなきゃならない時期になったはずです。 そういうショックについての文献も論文もない。 ないというのも異様ですね。 そこから向こうは、もう基礎がないわけですね。 陸海軍を継続することについての。 だからここから軍閥が開き直りやがったなという、感じがします。 軍部が、政治の上に馬乗りになって、神憑りというか、ファナティシズムというか、あるいは、たまたま西洋流のファシズムというものとかをどっと取り入れるってのは、そういうことだったでしょう。

山本:砲兵の場合は、いわゆる「輓馬(ばんば)」というものを最後まで手放せない。 昭和17年に入ったときですら、砲を六頭立ての馬で引っ張っているんですから… なぜだ、ということは誰でも感じるんです。 どうもならんじゃないか。 そういう疑問というのは、あんまりはっきり言わなくても予備士官学校なんかでも出るわけですよね。 なぜ日本は「輓馬編成」というのを最後までやめられないのか。 そのとき、士官学校なんかの教官が言う事は、中国のように兵站線ながいところは車両部隊だったら逆に動けなくなる。 軍馬は現地調達ができるし、馬糧も現地補給ができるじゃないか。 第二にシベリアの寒冷地においては、軍馬の方がはるかに有利だ。 常識で考えてもおかしい。 たった六馬力ですからね。 なにしろ。 それに人間が乗ってますから、非常に無理があるんです。 それで砲手は歩く。

司馬:結局、官僚制の欠陥だと思うんです。 日露戦争辺りまでの政治家、高級軍人と言うのは、自分がこの国を作ったという責任で、中小企業の自営の経営者と同じなんですね。 もうこれでゼニがしまいだ、といって女房と相談するみたいなところがあるでしょう。 ところが、それ以降は、官僚としての自分の出世についての配慮しかないんですから。 国家の責任というのはないですね。

山本:部品が全然来ないでしょう。 もう何の輸送もできなくなるんですよ。 そういう時、つくづく器用だと思うのは、兵隊です。 例えばラジエーターの水が漏りだした。 すると糠を入れろっていうわけですね。 糠をボっと入れると、水が回ってるうちに、ある程度は詰まる。 それで水漏れが止まる。 そういう奇妙な発想と秘術がある。 ああいう器用さっていうのは、彼らになはいですね。 われわれにしかないです。

司馬:私は律令時代が始まる時に日本国ができた、と考えている。 その辺の土豪たちが律令体制と言うものに統一されるわけですけど、当時、鉄器が入ってきて出来上がんだろうと思うんですね。 鉄の鍬でないと、あんな大きな古墳はできませんからね。 鉄の鍬が自国生産になり、ああいう鍬を作って、そのへんのやつに土豪の親方が下げ渡す。 夕方返納させる。 その辺の田畑を築いて、古墳の主のような土豪が出来上がってゆく。 それが律令社会になったわけですね。 最初は国衛や郡衛が鋤を農民(農奴)に貸す。 それで耕させる。 それの税金を取り立てる。 律令国家というのは、東北地方はまだ前時代の自由な気分が残っていたんですけれども、それを何べんも討伐する。 われわれは本当の意味で当時自作農であったとしたら、そのころから自分と言うものは確立しているし、個というものは確立していると思うし、自作農が持つ一個の合理主義というのも、リアリズムっていうやつもあると思うんですね。 ところが、口分田の農奴になってしまうと、税金を取って行く「お上」というものがあって、自分は一定の労働をしなけりゃいけない。 そういう性格が、われわれの社会の基礎にまずできた。 ともかく、われわれは初めに国家があったような感じでしょう。

山本:旧約聖書を読んでいますと、サムエル記のあたりは、宗教による連合だけでゆるくまとまり、部族内は自治になっています。 そこへペリシテ戦争で、何としても主権国家作ってくれという要望が出て来る。 ところが、サムエルという指導者が、次から次へと主権国家のマイナス面を述べ立てるんですよ。 王のために、これをしなくちゃいけない、国を作たらこうなる。 最終的にお前たちは王の奴隷になる、そのときにきっとお前たちは神に助けてくれというだろう。 その時神は絶対応えられないからそう覚悟しろ、それでよければ作ってよい・・・。 イスラエルという国の動き方というのは、三千年昔の建国以来おそらくこの辺が原則でしょう。 国家と言うのは必要悪だ。 だから、その存在理由がたえず試されるわけです。 何故国家は存在するのかってことを、初めから終わりまで執拗に追求し続けるわけです。 ですから、考え方が非常に人工的なんんです。 俺たちで作るんだけれどもこれだけの代償を払わなければならぬ。 そのとき嫌だと言っても、もう神様は応えてくれませんよ… こういうことを読まされてた連中と、われわれというのは、やっぱりどこか違うんじゃないか。 われわれは、いかなる存在理由があって日本国が存在するのかなんて、問うことがないんです。

司馬:わずか千数百年前にできた日本国政府、日本国と言うものを、自然物のように絶対的にそこにあるんだ、われわれは初めから国民だと思ってるところがあるでしょう。

山本:お前、これだけこちらが代価を払ってるんだから、これだけはしなくちゃ存在理由を失うぞ、っていう言い方がないんですよ。 われわれは。

司馬:結局ロッキードだってそうなんですよ。 僕は税金を9割何分律令農奴のように取られていますね。 そうすると、そうでないずるい律令農奴が、うまいことやってやがるということで怒っているんでしょう。 全日空さんでも、児玉某でも、要するに、律令制度の中の変なやつでしょう。 そうしたら、われわれに口分田を貸してやってるんだと言って威張ってるやつがいるはずですね。 それが高級官僚ですね。 それに寄生しているのが政治家でしょう。

日本の場合は。 われわれは本来律令農奴ですから、どうしても「お上」というものがある。 律令の都市制度というのは無理がいっぱいありますから、崩壊して鎌倉幕府という土地私有権を認めよ、という政権ができるのは当たり前ですけどね。 そのあとから割合自由なリアリズムが出て来るんです。 鎌倉幕府ができて、江戸時代が始まるまでの間は、日本人はヨーロッパ的ですよ。織田信長の思想も、ヨーロッパよりもっと尖鋭なリアリズムを持ってるし、堺の商人たちも、やはり地球を意識した。そういう世界性というのは普遍的なもので、普遍的なものに参加できるのは貨幣経済というリアリズム。豊臣氏以後、人工的な江戸期が始まって、徳川幕府を守る為だけの階級社会が生まれる。明治の時に、それを壊すために、律令時代のムードを持って来た。

山本:西南戦争は太平洋戦争なんですよ。何でこんな同じことをやったのかと思うぐらい似ちゃうんですよね。西郷軍のやり方というのは、フィリピンの日本軍と全く同じです。最後は。

司馬:(略)だから、日本の白兵というのは、一対一で日露戦争のときにロシア人とやるというのは、向こうの体格は大きいし、銃も長いし、結局はこれだろう。三人か四人一組で一人を倒すというのは、親善組でもやってるんですね。赤穂浪士もやってるんですね。過去の教育が甦ったんでしょう。だから、自分を弱い者だとするのがリアリズムの最初だと思うんですよね。ここはリアリズムがあるんです。ここから、山県が、この成功を軸にして日本陸軍を作った。これはリアリズムでも技術的リアリズムのレベルだと思うんですよ。三人一組、四人一組が強いというのは。さっきの輓馬であり、狭軌で制約された戦車の幅であり、ということだろうと思うんです。技術的リアリズムというのは、行政的な運営上の合理主義で、物事を基本的に考える場合はあんまり役に立たないんじゃないかと思うんです。

山本:戦後の発展は、一種の技術的リアリズムですね。この30年は。


>>1930年初頭に軍人になった人は、軍縮で人気がなくなり、人が余っていた軍に飛び込まざるを得なかった人。つまり、軍で喰いそこなったら飢え死にするしかない人。彼らから見たら1940年代、戦争が始まって足りなくなった下士官の補充のために軍に取られた学生上がりなどは役立たずだった。程度の差こそあれ、俺が会社に入った頃には、「この会社を首になったら飯の食い上げだ」みたいな覚悟で長年会社勤めしていた人がいた。1960年前後に高卒で入社した人たちにはこういった人がいた。そういう人たちが10年20年と同じ職場にいて、番頭・代貸しとして職場を回していた。その職場に3,4年留まるだけの課長や部長と呼ばれる人(キャリア)は1980年代までは、何もしなくても職場や仕事や新入社員教育まですべて彼らがやってくれた・・・軍国主義に代わる会社主義。1990年代以降、こういう番頭・代貸しは急速にいなくなった。1970年以降採用の高卒のレベルダウンもあったし、また、番頭・代貸しがやっていた仕事はやめるかマネージャーが自分でやるか、となった。この時の日本の会社はリアリズムでなく、労務費削減して生き残るというイデオロギーで動いていた。(労務費削減・人減らしが自己目的化していた)この動きの真っただ中でマネージャーをしていた俺は戸惑い、不服を覚え、会社に将来はないだろうと悲観し、一方で会社を生き残らせる他の方策など見つかるわけもなく、途方に暮れた。そして、人減らしは、「雇用を一生守る」と言う黙契に対する会社の裏切りだ、裏切りから部下を守ろう、と思った。「会社」はまだオワっておらず、まだ復活できる、と思っていた・・・1910年代に一等国になった日本が1920年代の軍縮・恐慌の時代にリアリズムを捨ててイデオロギーに走ったのと同じことを70年後に繰り返していたのだ。敗戦を経験し、リアリズムを持って日本のかじ取りをした人たちが1980年代のバブルを残して引退し、敗戦経験がなく、日本が成長するところしか見ていない者が日本のかじ取りを始めた1990年代。それ以降戦争をするでもなく、従って負けたわけでもないが、21世紀になってもまだ、負け続けてる感が漂う日本だ。

謙虚で相対的なリアリズムを日本が失ったのは1920年代。明治維新はリアリストたちが成功させた。維新の志士は江戸幕府に勝つ自信はなかったし、明治政府は海外列強を恐れた。謙虚かつ相対的なリアリストたらざるを得なかった。天皇は江戸幕府をやっつけるためのツールの一つに過ぎないという事も維新の志士は分かっていた。第一次世界大戦で幸運にも戦場とならず、戦勝国となった日本は舞い上がってリアリズムを失った。1920年代は:

①軍隊を含む経済運営に石油が必須となった

③明治維新に参加し、新たな日本国を作る経験をした1930年代生まれの世代が死に絶えた。(最後は1922年に死んだ1838年生まれの山縣有朋と大隈重信)

③第一次世界大戦の反動で軍縮時代に入った

軍縮・石油なしという逆境の中、軍を維持しようとした軍官僚は、国をつぶしてでも軍を守るべく、開き直って政治を「乗っ取った」。それを戒めるべき明治維新を知る元老もいなくなり、政治家も戦勝国・一等国ニッポンという不遜でリアリズムを失っていた。天皇も単なる元首ではなく、命がけで守るべき「親」になった。


鉄器が入って来て土地と鉄器を貸与えて税金を取るお上と、それらを借りて税金を支払う農奴とが生まれた時、日本国が生まれた。下々(百姓)は、第一義的には、お上に税金を支払うために働いた。日本人にとって、国とはすでにある自然物(神の一種)で、人工的に作るものでも必要悪でもなかった。だからその存在理由もいちいちくどくどと詮索されなかった。

国に限らず、日本人は自然にあるもの、すでにあるものについて、その存在理由をくどくど詮索することはしない・・・自然にあるもの、すでにあるものは、それぞれ存在する理由があるのだ、つまり、神なのだ。その存在理由を詮索するのは余計なはからいだ。

西欧人にとって国は「個人から自由を奪い、税金と言う名目でカネを奪う」必要悪。

中国人にとって国は「個人に豊かな生活と明るい未来を保証してくれるもの」そうできなくなれば革命で国の支配者を交代させる


鎌倉時代~戦国時代(13世紀~16世紀)の400年間の日本は日本人には珍しく

交戦的、対外進出的な時期だった。それは

白村江で完敗した7世紀、

大東亜戦争で完敗した20世紀  と似ている。

白村江の戦いでは天皇が自ら親政を敷いて戦いの指揮も取った。

大東亜戦争では天皇が形式上、軍のトップであり、日本国のトップだった。

※鎌倉末期~室町時代には後醍醐天皇が一時的にせよ、親政を敷いた。室町幕府ができ、後醍醐天皇が南朝に逃げた14世紀、天皇は実質的に政権を失った。それが日本人をヨーロッパ的なリアリズムに目覚めさせた。ただし、日本人がリアリストだったのは、この、14世紀から16世紀の300年弱だけだった。戦にも慣れていて、16世紀後半には豊臣秀吉が朝鮮出兵し、朝鮮・明とも互角以上に戦った。この朝鮮出兵以外で日本軍が海外まで行って戦ったのは、白村江にしろ、大東亜にしろ、天皇をかついで「戦うべきだから」「後に引けないから」戦った。勝つか負けるか、勝つにはどうしたらいいか?などという事は二の次だった。リアリズムなく、イデオロギーで戦いを始めた。

いずれも騒ぎの反動で天皇は親政の第一線から引くことを余儀なくされ、8世紀には藤原氏、14世紀には室町幕府の足利氏、20世紀には占領軍・アメリカに政権が運営された。


西郷隆盛:日本人に人気がある。負け方がよかったんんだろう。負けるとわかっていてイデオロギーに殉じて戦う。その後、昭和になって、アメリカとの戦争も負けるとわかっていて始めた。


技術的リアリズム=仕事師のリアリズム。改革者のリアリズムではない。生まれる前から国があり、お上が税金を取って国を運営する日本・・・改革者のリアリズムは育たない・・・国とか公のために自分の頭を使ってその存在意義や改革の仕方について考えないとリアリズムは育たない。

100年前の日本は国家として成り立つ上で必須となった石油がない、という事実に目を背け、リアリズムを捨てた。技術的的リアリズムとは、石油がないことを前提に、石油を使わないとか石油消費量を少なくするという技術のこと。根本の石油不足をどうこうしようではなく、石油がない事を前提に、石油を持ってる他国と戦う、とした。(つまり負けると分かっている戦争を始めた)

石油に代わって今は、情報あるいはネットが必須だろう。これらは石油同様、アメリカが支配している。日本は今度はアメリカと戦わないでアメリカの後ろでつつましく生きている。だから実際に徹底的に負けることはないけれど、負けて続けてる感は強い。

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