俺が夢見なくなったのは?

 1980年代のバブル・慢心・驕りの反動で、1990年代の日本の会社員は茫然、失望、そして自虐に陥った。しかし、やりようによっては、復活できるかも・・・と一縷の望みも持っていた。2000年以降、終身雇用という”日本教・会社派”の教えが怪しくなった。一方同時に中国に追いつかれ、追い抜かれつつある、という感覚があった。

グローバリゼーションと言われる、安い調達先を求めて世界中を渡り歩く、という流行の中で俺は2001年から2009年頃にかけて中国に頻繁に出入りしたが、繊維・アパレルは2000年代に、重化学工業は2010年頃抜かれたと感じた。ちなみに最後に中国に行ったのは2018年だと思うが、「物的豊かさ」は2010年代後半に中国に抜かれたというのが俺の実感だ。

「中国に抜かれた」という感覚は1990年代の日本の会社員の茫然、失望、自虐を「絶望」に変えた。言い換えれば、中国に抜かれたその競争の土俵以外の土俵を見つけようとして見つけられなかった。

それとともに、夢を見なくなった。つまり、2010年~2015年の間に俺は夢を見なくった。年齢で言うと56歳~61歳の間に俺は夢を見なくなった。30年も40年もいた「会社」というものの復活をあきらめ、絶望した。

夢とは自分の出世と言うか、今でいうキャリアがどこまで行くか、という可能性に対する妄想でもある。こっちのほうの夢も50歳代後半に、現実を受け入れざるを得なくなった。

「まだ可能性がある」と思っているうちは夢がある。数ある可能性に一つ一つ蓋をするたびに夢がなくなっていく。年を取るってのは結構難しくって、どのタイミングで、「もうダメだから『蓋しよう』」と判断するのかが難しいし、個人差が大きい。俺は会社を辞めた瞬間にほとんど蓋してしまった。それが老人そしてリタイアした者の特権だ、と思っていた。「もう十分宮仕えしたから勘弁してくれ」だ。しかし、それは、夢のない老後を選んだ、という事だ。夢を持たずに生きるのは辛い。辛くなったら新しい可能性を見つけるか、一旦蓋した可能性の蓋を開けるか・・・

閑話休題:

上海にある現地子会社の董事を何年間かやった。董事会は上海ガニの季節にやる、そして、上海から1時間くらい車を飛ばして行く「和風」なゴルフ場でゴルフする、というのがお定まりだった。

縁起物とはいえ、大してうまくもない一匹何千円もする上海ガニを中国人が食すという風習は理解できなかった。上海ガニは身はほとんどなく、ミソを食すもので、日本の企業の上海の駐在員は上海ガニの季節(冬)にはコレステロール値が上がる、と言われていた。

懐かしく思い出す。

ヒルトンホテルの朝食バイキングも贅沢でうまかった。

そうそう、上述の和風ゴルフ場で喰う和食(みそ汁つきおにぎり?)は、上海で一番おいしかった。キャデーは中国人の少女。彼女らとの中国語、英語、日本語のちゃんぽんの会話も懐かしい。上海の会社に置いてあったゴルフクラブが偽物で、飛距離が一番手以上短かった。


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