国鉄 日本の左翼・組合の盛衰(参考文献:牧久、「昭和解体」2017年講談社)
以下に日本の左翼を支えていた国鉄の組合、そしてそれに乗っかった総評・社会党、それらを粉砕して国鉄を改革しようとした自民党政治家の闘いの歴史を記す。組合側にもまた改革側にもそれぞれ国鉄の内部に協力者がいた。組合・左翼政党・メディア・自民党が作る55年体制と言われる政治舞台が、1980年代の新自由主義の潮流や田中角栄の政治生命の終わり、ソ連の崩壊によって音を立てて崩れ落ちた。俺も当時東京にいてこれを傍らで見ていたはずだが、当時、本当に何が起こっているのかは全く分からなかった。日本でこれだけの大改革を実現させたのは珍しい。天地人に恵まれ、これを狙って実行した中曽根首相は大したものだ。しかし中曽根さんも、55年体制が崩壊し、社会党というライバルを失った自民党が、1990年代以降、自壊・分裂を始めることは予想していなかったろう。
1948年 国鉄・専売職員の争議(スト)権及び団体交渉権剥奪
1952年 同上 団体交渉権のみ回復 スト権補完のため公労委発足、ストでない順法闘争が始まる
1955年 共産党暴力革命放棄→暴力革命を目指す新左翼誕生
1960年 革新政党と新左翼による反米・安保反対闘争盛り上がる
1964年 国鉄単年度赤字転落 鉄建公団設立*1
1967年 国鉄職員47万人に対し5万人の合理化計画提案(例えば機関車2人乗務→1人乗務*2)が出され、動労・国労とも反対・抵抗して闘争・・・マル生闘争・・・メディアのバックアップもあって組合側の勝利
闘争に勝った国労・富塚三夫「マル生闘争の反動と言えばそれまでだが、一部の職場では、当局も組合の中央指導部も、コントロールしがたい状況が生まれたのです。コントロールできなかった組合の指導にも問題があった。ここで組合がコントロールをかけておけば、その後、国鉄の分割・民営化の際、一部マスコミで餌食とされた職場の規律の乱れを防げただろうと悔やまれます。戦いは勝った時ほど、己の弱点をみつけ、その克服を図ることが、次の戦いのために大切なのであって、マル生闘争の勝利とは、当局に不当労働行為をやめさせ、職場における組合活動の権利を回復した一時の勝利でした。本当の勝負はこのあとに待っていたのです。*3
1968年 世界的に学生運動(新左翼)ピーク 美濃部都知事誕生
”現場協議”開始→1982年廃止
1971年 マル生運動闘争について 毎日新聞・内藤国夫「かえってそうぞうしいのはいいことだと思った場合がある。そうした騒ぎにのっかって、ニュースを売るのが新聞であり、新聞はときに”トラブル・メーカー”の役割さえ果たす、いわば、ひとつの騒動師である。」(産業労働調査書「社会教育管理者版」)
1972年 あさま山荘事件
1979年イギリス、サッチャー首相誕生。新自由主義による、社会保障縮小、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止、組合対策で疲弊した水道・電気・ガス・通信・鉄道・航空、自動車の民営化が始まる。
1981年アメリカ レーガン大統領誕生。軍事費増と減税による経済刺激、規制緩和、ドル高・金利高によるインフレ抑制・株安といったレーガノミクスが始まる。
※サッチャー、レーガンの登場で新自由主義的な民営化は世界的なトレンドになり、国鉄の反改革派も民営化に抗することはあきらめ、分割に抵抗することになった。
1982年 ブルトレ乗務ヤミ手当 ある国労組合員が、朝日新聞記者にタレこんだ。「当局はひどいことをする。我々は本来なら走行中のブルトレの故障を修理するために乗務し、乗務手当をもらっていた。ところが毎日乗務するほどの故障はないという当局の一方的判断で、ブルトレから降ろされ合理化が強行された。その際、組合の努力によって、乗務はしなくても、既得権として乗務手当はもらっていた。手当を支給しておいて、さらに合理化を強行するとはどういうことか」…彼は自分たちの非常識が、常識的で正しい、と信じ込んでいた。一方、ある職員課長は合理化要員一人当たりいくら、とヤミ給与やカラ出張手当を動労に支払っていて、それが課長の仕事だ、と思っていた。
{文藝春秋4月号屋山太郎「国鉄労使『国賊』論」、現代4月号加藤寛「国鉄解体すべし」}
中曽根内閣誕生「国鉄の分割・民営化」に照準を合わせたのは、「自民党が単独政権を握る一党優位体制の下で、社会党が野党第一党でありつづけ、両党が複雑な対立と協調を続けてきた時代、すなわち「55年体制」から決別しようということにあった。戦後政治の「もう一つの主役」であった社会党・総評を背後から支えてきたのが、国労・動労などの巨大な組合勢力である。中曽根は、国鉄分割・民営化によって国労・動労を一挙に崩壊させ、社会党・総評の弱体化、ひいては「55年体制」の解体を密かに思い描いていた。国労出身の国会議員は最大23人だった。1986年の国鉄解体、国労崩壊によって、総評も社会党も崩壊した。総評は1989年に連合に統合された。社会党については後述。
1983年
ロッキード事件で角栄に有罪判決→中曽根から角栄に議員辞職を勧めるも断られる→年末の総選挙で自民大敗
国鉄から西武鉄道に「天下って」副社長をしていた仁杉巌が国鉄総裁に(角栄の意向)
仁杉から経営計画室に直接資料提出するよう指示。反改革派の縄田常務は経営計画室主管の松田に「仁杉は技術屋である。事務屋の総大将は俺だ。以後、総裁のところに直接行ってはならん」と。
1984年
国鉄役員による民営・非分割の「経営改革のための基本方策」作成→再建監理委員会の亀井会長に説明、反対される→国鉄役員は角栄に相談→「角栄は四国、北海道の分割あたりで手を打とうとしている」という感触を得、原稿を印刷に回す→改革派は印刷所に出向いて試し刷りのコピー入手、三塚博に見せる。12月29日付けで改革派15人の署名した「決意書」作成。15名のうち、最年長は1959年入社、最年少は1973年入社。→新運輸大臣や中曽根首相に「基本方策」の問題点を事前説明してまわった。
1985年
反改革派は共産党、学者、評論家。マスコミなどに分割反対論を宣伝して回った。中曽根は基本方策を批判。
角栄脳卒中で倒れ、竹下・金丸の創政会始動。角栄の影響力がなくなったのを見て中曽根、一気に公然と国鉄分割民営化を開始。
反改革派の意向で北海道に飛ばされることになった改革派の経営計画室筆頭主幹の松田は仁杉総裁に「あなたはこの人事でダイナマイトに火をつけた」と捨て台詞。この人事に反対した再建監理委員会の住田は縄田副総裁に人事の撤回を求め、拒否されると「よし、わかった。国鉄がそういうことをするなら、お前と仁杉の首を切ってやる」と息巻く。改革派の一人、葛西は「目の届くところにおいて監視すべき」と異動されなかったが、同僚には口をきいてはならないという指令が下っていた。
松田の異動を知った中曽根は仁杉の更迭を決意、山下運輸大臣に後任探しを命じる
衆院予算会議で社会党議員が「仁杉総裁のとよ夫人が社長をしているイワオ工業が国鉄発注の土木工事を請け負っている」と暴露→各紙が辞任報道→仁杉は否定→再建監理委員長の亀井は分割・民営化を答申すると宣言。
反改革派の太田常務が神楽坂の小料理屋で朝日新聞の記者にオフレコだ、と断り、「再建監理委員会の答申に面従腹背しておけば、そのうち骨抜きになる」、と。記者はこれを録音。文字起こししたメモが葛西→屋山→中曽根と渡る→中曽根は常務以上全員の辞表提出を求める→常務たちは最初は抵抗するも全員辞表提出。
無期限の雇用安定協約(合理化・近代化を実施しても本人の意向に反する職種転換や解雇は行わない)があったが、国鉄当局は動労・鉄労・全施労の3組合とは1987年3月末と期限を切る交渉に成功。国労に対しては国労が態度を改めないと協約を破棄すると通告し、態度が改まっていないという理由で破棄。
改革派の人の自宅には、マッチの燃えカス、パチンコ玉が放り込まれ、無言電話も。
1986年
衆参同日選挙で自民圧勝。中曽根は2期4年までと決められていた総裁任期を特例で1年延長。中曽根は安倍の猛反対を押し切って三塚留任でなく、橋本運輸大臣とする。
国労所属の組合員数15万。(国労発足時の1946年には50万人超、職員の96%が所属)
国労「修善寺臨時大会」で「労使関係正常化を目指す」という主流派方針案が否決され、敗れた旧主流派は新組織を作り、国労は分裂。
この時点で組合員数10万切れ。翌年6万人に。
国鉄改革8法案全て通ったのち、松﨑明が井出に、3人を指名してJR東日本に残してくれ、と頼みに来る。3人は松﨑の”エージェント”だった。
1987年4月1日分割民営化実現
*1 田中角栄が鉄道建設の利権を集め、鉄道建設で国土開発を進めるために国鉄から新線の建設権を奪って作った特殊法人。角栄他の政治家が儲からない新線を作って国鉄の赤字が増大した。角栄は個々の路線が赤字か黒字かにはこだわらず、その開発効果まで含めてトータルで考えよ、というケインズ的なアイデアを主張した。
*2 これは石炭を入れる人が必要だった蒸気機関が電気やディーゼルに代われば可能となる合理化。組合(特に国労)は”国鉄は「独占資本」であり、労働者を搾取する”、というイデオロギーでこのようなテクノロジーの発達による合理化を拒否し、闘争し続けた。闘争は、まず国鉄の客から見放され、ついでメディアからも見限られてオワコンとなった。国労はこれを20年も続け、破綻した。逆に言えば、20年間も無意味というか、有害な闘争を続けることができた。
政治家が利権や選挙運動のために国鉄を食い物にする、運賃値上げも国会を通らない、大蔵省が予算を握って経営者は経営ができない、組合も自分のイデオロギーや革命理論実戦のためにテクノロジーも客も無視して”闘争”する・・・絵にかいたような縦割り・個別最適・・・これは国鉄が民間企業でなく、「親方日の丸=赤字を出そうが、つぶれない」という無責任組織だったからである。
私鉄、飛行機、トラック輸送・・・国鉄はどんどん競争相手が出てきて客を奪われる。組合は物流を人質に取って闘争したが、トラック輸送へのシフトが進んだだけだった。乗客も人質に取ったつもりだったが、乗客は怒って組合を見捨てた。
国労の細井宗一は、盛岡騎兵連隊で田中角栄の上官だった。満州で角栄は病気になって日本に送り返され、細井はシベリアに抑留された。軍隊で細井は角栄をかばった。国労に入った細井は政治家になった角栄と国労のパイプ役だった。細井は1979年国労を引退するが、1979年と言えばまだ、角栄は大きな影響力を持っていた。
*3 戦いの勝者は誰か?国鉄の分割・民営化をやった政治家か?組合か?国鉄当局か?マスコミか?国鉄の労働者か?・・・客だろう。長い目で見れば、客の望むところに落ち着く。それを見失って、政治家や国鉄当局や組合は戦う。闘争自体が自己目的化し、自分が勝ち馬になろうとし、また、勝ち馬に乗ろうと夢中になる=権力闘争。団塊の世代までは、闘争が好きだった。闘争に夢中になった。戦う相手をけなし、面罵して突き落とそうとする。またメディアを使った情報操作を行う。一方で、政治家と組合、当局と組合・・・対立するはずの立場の人間が一目置き合って、肝胆相照らす間柄となり、いざとなったら酒飲んで「腹を割って話す」…This is 55年体制
国鉄改革推進派は、規律を失った国鉄の実情を暴露したが、そのやり方は組織の規律・ルールを無視し、反対派の上司を裏切りあるいは飛び越して、意を通じた政治家やマスコミに情報漏洩するものだった。これが当たり前だったので、改革派、反対派は互いに誰がいつ、どこでだれと会っているのを監視するように。そして自分の意に沿わない人間は時には政治家を使って人事異動。
【おまけ】
国労委員長の富塚三夫は、1973年国労書記長、1976年から総評事務局長を務め、1983年社会党から立候補して衆院議員になった。その後当選落選を繰り返し、1996年引退。
国労は細井、富塚、そして角栄がが健在だった1980年代前半までがピークだった。
総評もWikipediaによれば1983年、451万人、前組織労働者の36%、官公労働者の70%が傘下にいた、とされる。1980年前後がピークではなかったか?
新左翼を含む左翼の勢いとしてはあさま山荘事件の1972年がピークだったか?
1989年ソ連が崩壊し、左翼は勢いを失った。
社会党は1990年までは紆余曲折有りながら党勢を維持していたが、1993年、総選挙で連合が社会党左派・護憲派を応援せず、社会党衆院議員数は136から70に激減。自民党分裂や新党ブームもあって、一旦は与党となったが翌1994年、細川内閣の小選挙区比例代表並立制に反対した一部党員が造反した。これを見た自民党は自社さ連立政権を仕掛け、社会党委員長の村山を総理大臣に。村山は安保条約、自衛隊、原子力発電などを認め。また消費税を5%にupした。1995年には社会党から離党する者が出た。1996年村山は総理を辞任、その直後に党名を社会民主党に変えた。同年行われた衆院総選挙では連合は民主党支持に回り、社会党から民主党に移動する者もいて、社会民主党衆院議員は15名になった。
つまり、55年体制が健在な間は、政治家、政党、組合、メディアが同じプラットフォームで争っていた。与野党は政権交代など想定せず、「なあなあ」だったし、組合も闘争したって会社はつぶれない、国民も理解してくれる、という安心感を持っていた。メディアも55年体制ありきで、”バズる”ことを狙って、時には社会党・組合を応援し、時には自民党を応援した。1980年代後半から、世界的な新自由主義の流行、角栄の衰弱、組合・左翼に対する批判から55年体制が一気に崩れた。まさしくこのタイミングで国鉄分割・民営化も強行されたのである。
国鉄内部で改革派のリーダーだった、井出正敬は、国鉄が分割・民営化された1987年、JR西日本副社長になり、その後、1992年社長、1997年会長、2003年相談役、2006年福知山線脱線事故の責任を取って退任→子会社の顧問に就任2009年74歳の時契約解除という”華麗”な職歴だった。事故原因は、収益への過剰なこだわり、職場規律維持のための無理な日勤教育ではないか、との指摘に対しては反発したが、責任者として起訴された。
井出は、脱線事故が起こらなかったら、死ぬまで相談役を続けていたんだろうか?「俺は改革の功労者だからいつまでも相談役でいられる」とでも思っていたのか?労務畑出身の井出ですら、相談役が半永久的に居座る会社組織の異常さに気づかなかったのか?そういう風に感性・常識を狂わせるほど、国鉄という組織は腐り、狂っていたのか?
閑話休題:日本の左翼・組合活動の盛衰
ソ連、中国の影響・支援で1950年の朝鮮戦争以来、日本では共産党、社会党が勢いを増した。1960年の安保闘争以降、共産党・社会党に学生運動・新左翼が加わった。学生運動・新左翼は暴力革命を否定した共産党に代わって暴力革命を目指し、過激化した。この学生運動・新左翼は1972年のあさま山荘事件で国民の支持を失い、力を失った。
1970年代から1980年代新自由主義が席巻するまでは既存の共産党・社会党及び組合は反自民党勢力としての存在意義があった。(55年体制)
1989年、総評も日教組も連合に加盟し、闘争をやめてイデオロギーも捨てた。ソ連は崩壊した。ここで日本における左翼・組合はかつての力も存在意義も失った。
1990年代55年体制が崩壊し、自民党、社会党はそれぞれ離合集散を始めた。連合に支持された民主党は2009年に政権を奪ったが、寄り合い所帯で左は革命を目指していた者から右は保守派までいて統制がとれず、バラバラで、官僚もコントロールできず、官僚からもまたアメリカからも見放され、3年間で政権を失った。その後も共産徒と組んで失敗しては右寄りに舵をきり、寄り合い所帯の弱点があらわになっている。民主党改め立憲民主党は政権を取るのをあきらめ、かつての社会党のように万年野党を決め込んでいるように見える。
かつての社会党はほとんどなきに等しい存在となり、共産党は革命でなく、民主的に改革を進めようという政党に成り下がった。
事ここに至り、既存の政党政治(というより政党が足を引っ張り合い、争い、駆け引きするだけの政治)、能力を発揮しない(あるいは能力のない)官僚に対する絶望感が日本中を覆ている。
政治の舞台において、1990年代に55年体制は終わった。しかし総評は連合と名を変え、相変わらず政治的な力を持ち続け、メディアと政治家は相変わらず結託して他人の足を引っ張ることに忙しい。民主主義と呼べる代物ではないし、もっと言えば、民主主義の先生だった米英の民主主義もかなり怪しくなってきた。
一方、会社は、1990年代コストカット、グローバリゼーションを試みたが、相変わらず会社は社員のものであり、終身雇用という黙契は守られた。21世紀に入って新自由主義の動きにより、会社は株主のものとなり、終身雇用もなくなりつつある。会社は株主と従業員に”おべっか”を使うようになった。組織的・人事的には会社は大きく変わった。会社はかつてのように従業員に夢や安心・安全を与える存在ではなくなった。
よく言えば、会社は従業員や株主からの批判に敏感になって「あななあ」の関係から緊張関係になった。
かつての会社に代わって夢や安心・安全を与えてくれるものが見当たらない。若者は、起業して成功すること、”華麗なキャリア”を積むこと、YouTuberやインフルエンサーに憧れるが、そうなれるのはごく一部で、多くは将来を悲観あるいは絶望している。
政治も会社も人・国・社会といったものの役に立つ、という実感が得られるから夢や安心・安全を与えることができる。新自由主義では人・国・社会より金を稼ぐことが最優先だ。悲観・絶望した若者は失うものがない。歴史を振り返れば、失うものがなくなった人は、テロを起こし、革命を起こそうとする。これからのテロ・革命はかつてのような暴力によるものではないだろう。歴史的には、また、常識的には、かつてのテロ、革命に相当する大変革・大騒ぎが若者によって引き起こされる。
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