政治家・官僚関係の新展開
ちくま新書 筒井清忠編「昭和史講義」(戦後篇 下)より 牧原出
政治家・官僚関係の新展開
1948年に成立した第二次吉田内閣は、GHQの占領改革派の支持を受けた片山哲・芦田均の中道内閣の路線から、経済復興の路線へと転換するため、官僚出身の候補者を大量に選挙で当選させ、佐藤栄作官房長官や池田勇人大蔵大臣など、官僚出身の議員を側近に据えた。吉田自身は「Yパージ」と呼ばれる更迭と登用を繰り返した。特に標的となったのは。出身の外務省であった。こうした人事介入は、鳩山内閣以降も続く。首相側近の河野一郎農林大臣は、官房長に安田善一郎を抜擢し、省内で戦中期に内閣に出向していた「物動派」と呼ばれる官僚集団を登用し、合理的な農政を展開した。保守合同後、河野は岸に接近し、岸内閣では経済企画庁長官に就任すると、通産省からの出向者を更迭して新しい人材を得るといった措置をとっている。岸首相も、自らのイニシアティブで盟友の長沼弘毅を公正取引委員長へと就任させている。
1960年7月に成立した池田勇人内閣は、大蔵官僚でもありエコノミストでもあった下村治の構想に基づき、日本経済の「成長力」を発揮する国民所得倍増計画を策定し、高度経済成長を内閣の一大施策とした。この池田を支えたもう一人の大蔵官僚が池田内閣時代に主計局長・事務次官を歴任した石野信一である。石野は戦中期の内閣官僚であり、吉田内閣の池田大蔵大臣を大臣官房調整部長として支えていた。
>>吉田茂自身もそうであったが、官僚が政治家に転身する…これが戦後日本の政治家の育成法だった。今も官僚から政治家になる者はいる。ただしかつては政治家がスカウト(一本釣り)した。今は官僚が自ら政治家を目指す。この方が世襲よりはましだろう。しかし、有為の若者が政治家を目指すようにする、もしくは有為の若者が官僚になり、それを政治家にスカウトする、というのはもうダメなのか?
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