安保闘争と新左翼運動の形成
ちくま新書 筒井清忠編「昭和史講義」(戦後篇 下)より 駄場裕司
安保闘争と新左翼運動の形成:
(略)全学連は小選挙区反対運動、1956年夏の原水爆禁止運動、秋の第二次砂川闘争、1957年の原水爆実験反対運動、1958年秋の警職法反対運動など立て続けに大衆運動を組織した。これらを指導したのは、学生運動家離れした政治力を持つ全学連中央執行委員長・平和部長の森田実である。特に第二次砂川闘争は、米軍立川基地拡張のための測量を中止させて勝利し、森田は「砂川の英雄」としてマスコミの脚光を浴びた。しかしそれが逆に森田ら現地組と。書記長に残った高野秀夫書記長や牧衷副委員長の間に亀裂を生じさせ、全学連の主流派と反主流派への分裂につながっていく。(略)第二次砂川闘争から生じた全学連主流派と反主流派の対立は激化し、日本共産党中央は反主流派を支持して全学連に干渉しようとした。(略)1958年初冬の共産党東大細胞解散を経て、12月10日に文京区黒門町の医歯薬ビルで、ブント創立大会が開かれ、約45人が出席した。ブントは島成郎、青木昌彦、片山道夫らの東大・早大連合、トロッキストの革命的共産主義者同盟グループ、森田実、香山健一らの旧全学連主流派の3グループの寄り合い所帯で、三派が三つ巴で争っていた。書記長には島が選ばれたが、その三日後の全学連第13回大会では、人事争いの末、革共同の塩川喜信が委員長、土屋源太郎が書記長になった。
(略)通説では、全学連主流派が田中清玄に接近したのは、1960年1月16日の岸信介首相訪米阻止闘争で逮捕された唐牛委員長以下指導部77人の保釈金調達のためとされる。しかし、全学連反主流派側は、島書記長が1959年4月頃から田中をパトロン兼武装面の援助者にしたとする。そして全学連書記次長として財政面を担当した東原吉伸によれば、島成郎はブント結成前から田中清玄を相談相手としていた。田中は政財界有力者や司法関係者、言論人や報道関係者、宗教人、盟友の山口組三代目組長田岡一雄、汎ヨーロッパ運動のオットー・フォン・ハプスブルク、後にノーベル経済学賞を受賞するフリードリヒ・ハイエクを引き合わせて自己の行動哲学や人脈を継承させようとし、全学連委員長となった唐牛健太郎にも同様だった。武装共産党委員長時代と長い獄中生活、コミンテルンとの死闘の経験を踏まえた田中清玄の実践論と、共産党内の不毛な論争や分派闘争を経た島成郎の議論はかみ合い、島は安保闘争の最中も、田中との会合のスケジュールは確保したという。唐牛に全学連委員長を引き受けさせるため北海道へ行く際には、島は唐牛と同郷(函館出身)の田中に相談して賛成を得ている。(略)
4月26日の国会突入で唐牛委員長以下の全学連幹部多数が逮捕された時、田中清玄は島とともに、共産党が強くなると三井脩公安第一課長に交渉して、ほとんどの学生を釈放させた。さらに島博子によれば、安保闘争でブントが崩壊した後の7月、島は大阪で数日間、田岡組長の世話になったと言う。島成郎によれば、三井公安第一課長が6月14日に全学連事務所を訪れ、島書記長と会見した。そして島は、翌日の樺事件は前線指揮者が「かかれー」と号令したために起きた「突発事故」で、三井課長は「真っ青になったらしい」と述べている。(略)
田中清玄の全学連主流派に対する資金援助がラジオ番組「ゆがんだ青春」で公にされると、共産党は「アカハタ」で田中が反米闘争を「反岸」闘争にすりかえるために躍起の策動と援助を行った」と激怒した。田中清玄は岸信介・児玉誉士夫とは激しく対立しており、日本興業銀行副頭取の中山素平に「田中清玄は困ったやつだと、岸は言っているそうだが、本当に困ったようにしてやろうじゃないか。田中清玄はそう言っていたと岸に伝えて欲しい」と言ったと語っている。60年安保では財界でも中山や今里広記が反岸で田中と手を組んだ。1963年11月に児玉誉士夫は配下の暴力団東声会に田中を狙撃させ、瀕死の重傷を負わせている。(略)
吉本隆明は全学連主流派を「独立左翼(ソ連派でも中共派でもない)と高く評価した。しかし安保闘争で島成郎が消耗しつくすと、ブントは三分裂し、反米に批判的な指導者たちは間もなく運動から身を引いた。そしてブント周辺からは、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)や中核派などが生まれた。一方の共産党側も翌年の構造改革派粛清や1964年の志賀義雄ら親ソ派追放など党内抗争を続けた。共産党からの除名・離党組は統一社会主義同盟、「日本のこえ」、共産党主義労働者党などの新組織を作り、新左翼は四分五裂状態となった。
>>共産党の徳田球一は捕まっても転向しなかった。そこへ行くと田中清玄は捕まったのちに天皇主義者に転向している。意志が弱いと言えばそれまでだが、元共産主義者が政治家、官僚(公安)、財界人、ヤクザ、ハプスブルク家、新自由主義者などなど、物凄い人脈を作り、また、それを後輩に伝えようとするところが素晴らしい。そんな田中に全学連がお世話になっていたということは全く知らなかった。岸信介もそうだが、1920年代の拝金主義、平和ボケが始まる前に物心ついた男はスケールというか、肝が違う。命知らずだ。
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