国鉄等の民営化と新自由主義のはじまり
ちくま新書 筒井清忠編「昭和史講義」(戦後篇 下)より 飯尾潤
国鉄等の民営化と新自由主義の始まり
(略)中曽根が行政管理庁長官に就任すると、行官庁の官僚は長らく封印してきた大規模行政改革の機会が訪れたと考え、中曽根や鈴木首相も賛同して、1981年3月に第二次臨時行政改革調査会が発足した。財界を代表して元経団連会長の土光敏夫が会長に就任し、会長代理に財界から瀬島龍三がついたほか、官界・学界・労働界・報道界など、多様な背景を持つ委員をそろえて、行政改革の審議が展開した。1982年7月の基本答申が山場であった。この答申では、「日本型福祉国家」の理念の提示や、総務庁の設置なども提起されたが、注目されたのは、国鉄などの民営化の方針を明確に打ち出したことであった。その後1983年3月に臨調は解散した。中曽根内閣は、答申の最大限尊重を閣議決定して、その方針の実現を約束する。こうした臨調の活動は、省庁官僚制やその背後にある諸利益集団あるいは族議員との調整を必要としており、通常は根回しに動く官僚が当事者であることもあって、瀬島などが「裏臨調」と呼ばれた場を使って政治的調整を行っていた。また土光や瀬島に対して田中派の政治家がそろって協力を誓ったと言うエピソードに見られるように、政治家が自ら処理できない課題処理を有識者に委ねた形となった。強力な審議会が成立して、改革案の作成が通常の政治・行政における調整過程から切りはなされたことは通常との別の政策過程を展開させる空間を確保することを意図したものであったが、その活動を支えたのは、第二次臨調に対する国民各層からの幅広い支持であった。これは、聖域とされていた官僚機構にメスを入れることを喜ぶ庶民感情に、第二臨調を率いる土光敏夫の廉直な人柄が、テレビ放送などで広く知られるようになったことから「土光ブーム」が起こったことが加わったものである。これには関係者がメディア戦略を積極的に展開して、世論を誘導していったという側面もあった。(略)
当時の体制では各省庁の自律性は高く、外から行政全体に切り込むのは難しく、多くの課題において各省庁横並びの「一律削減方式」が基本となった。ただ国鉄など公共企業体については省庁自体の改革ではないので、監督官庁の協力が得られれば、改革が可能だという事情があった。(略)第4部会では、改革の対象となる国鉄や電電公社の関係者、監督官庁の関係者、関連の国会議員など、様々な関係者と接触を持って、状況を確認するとともに、落としどころを探っていった。このころ部会に呼ばれた真藤恒電電公社総裁の協力的態度が目に付き、電電公社の労使がともに民営化を否定しないということから、それに反対する郵政省や族議員を切り崩しながら、第4部会はまず電電公社民営化を推進し、それをてことして、国鉄改革に突き進んでいくことになる。(略)改革3人組と呼ばれる中堅職員の井出正敬、松田昌士、葛西敬之らが20人ほどの国鉄職員を集め、臨調第4部会に協力して分割・民営化答申の作成を支えていくことになる。また、自民党の族議員のなかから、三塚博などが国鉄改革に理解を示すようになり、三塚委員会(自民党交通部会国鉄再建小委員会)を舞台に、第4部会の動きを支える役割を果たしてゆく。そうした状況を見て、監督官庁の態度も変わり、運輸省でも第二臨調に協力する動きが出たほか、郵政省の態度も軟化していった。このような状況の変化を背景としつつ、第4部会は、基本答申に国鉄の分割・民営化を5年以内に実現するほか、電電公社の民営化と電気通信事業の規制緩和、専売公社の民営化などを含む大胆な改革案を盛り込むことに成功したのである。1985年4月電電公社は民営化され、NTTが誕生し、翌年にはその株式が一般に売却され始めた。国鉄改革は、時間が限られる第4部会では細部の制度設計ができず、当事者の強力な反対があるなかで改革を推進するために、1983年5月に国鉄再建監理委員会が設置された。委員長には財界から第2臨調でも第3部会長を務めた亀井正夫が選ばれ、加藤寛と住田正二など第4部会のメンバーを含む5名の委員で構成された。最初は、反対意見に配慮して、分割・民営化を表面から打ち出さなかったが、調整の進み具合を見ながら、監理委員会は静かに分割・民営化の具体案を作成していった。これに対して国鉄経営陣は独自案を作成し、資料提供を渋って監理委員会に抵抗しようとした。しかし改革3人組などの協力者がいる監理委員会は、分割・民営化の論点を順番に整理していき、対外的には緊急提言などを発信しながら、世論の動向を見て改革案を定着させようとした。それと同時にメディアで改革ブームが続いているなか、国鉄労使の実情暴露などによって、社会的に国鉄が批判されることが多くなる。政界では、橋本龍太郎自民党行政改革本部長などが自民党内の調整にあたっていたが、世論の変化を見て、有力な反対派であった加藤六月議員など族議員が国鉄から離れ始めた。そして、1985年6月には改革の転機となる、中曽根首相の決断による、仁杉巌総裁以下の国鉄経営陣の退陣が起こる。中曽根は事前調整と、世論の動向を慎重に見極め、決断の時期を待っていたのである。これにより国鉄当局の反対は抑えられ、杉浦・元運輸事務次官が総裁に就任、本社部門から異動させられていた国鉄内の改革派が呼び戻され、国鉄の体制が民営化推進へと転換した。国鉄内の労働組合も、当初から改革賛成の鉄労、次第に態度をあいまいにしていた動労、反対を貫く最大労組の国労というように、態度が分かれていった。こうした状況で1985年7月に監理委員会は分割・民営化を軸とする答申を提出し、内閣が最大限尊重することを決めたほか、運輸省内にも改革本部が作られ、国鉄と協力して具体化へ進んでいくことになる。1986年の通常国会には国鉄改革関連法案が提出され、曲がりなりにも改革を支持する与党自民党と反対する社会党の対決が政治の中心となった。同時に国鉄内では、改革に反対する国労が将来を不安視する組合員の大量脱退によって混乱に陥り、動労が改革に賛成するなど勢力図が激変しつつあった。国会審議と国鉄内労働組合の主導権争いが並行したのである。国鉄改革法案は通常国会では継続審議となったが、その間に中曽根内閣は衆参同日選挙でかつてない大勝を収めて基礎を盤石にしており、11月に臨時国会で法案が成立した。1987年4月には東日本旅客鉄道(JR東日本)などJR7社と国鉄清算事業団および新幹線保有機構が発足し、国鉄の分割・民営化が実現した。(略)
国鉄料金が国会議決事項であったために、鉄道運賃が政治判断の対象となっていった。物価高騰を押さえたい政治の側が、運賃を抑制的にしたため、物価高騰期には国鉄の経営は必然的に悪化する傾向にあった。また「我田引鉄」と呼ばれるように、国会銀が自らの選挙区への鉄道整備を要求することが絶えず、そのため経済合理性がない新線が建設されて国鉄財政を悪化させるという事例が多くみられた。電電公社についても、その公的から新技術などを自前で育成することへのこだわりがあり、海外からの新技術導入に消極的だという批判もあった。公共性確保と合理的な経営の両立を目指した公社制度であったが、その実現は容易ではなく、矛盾を前にむしろ無責任体制を生む傾向にあったのである。
また大きな影響があったのは労使関係である。国労など国鉄の労働組合は戦闘的なことで知られ、1970年代には「スト権スト」などで鉄道の運行を止め、大きな衝撃を与えるなど、労働組合の代表的存在であった。また国鉄改革の背景には、労働組合が職場を支配し、経営側の意向が通らないまま無責任体制が蔓延すると言う状況の打破という目的もあった。結果として国労が崩壊し、動労が協調路線に転向するほか、電電公社の全電通は民営化を積極的に受け入れるなど、労使対決型の公共企業体労働組合が、大勢として労使協調路線を取るようになった。これは戦闘型労組の減少と言う点で労組弱体化にも見えるが、それまでにも日本の民間労組の主流は労使協調型であり、国鉄などの民営化によって、労使協調型の労働関係が全面的に定着したともいえる。それは連合の結成につながり、多くの労働組合が勢力を結集させることによって、政治的な影響力を高め、結果的に自民党の下野を伴う政権交代への道を開く流れにつながってくる。(略)
政官融合体制が継続し、首相の指導力がなかなか確立しない中で、その代替として首相の下に大がかりな審議会を置き、改革を実現すると言うやり方は、行革審など直接の後継機関だけではなく、規制改革会議をはじめとして小泉内閣頃まで、さまざまな改革に用いられていく。その根底には政党や政治家が有権者の意を受けつつ、またそれを誘導し、民主的基盤に立って改革を主導すると言うことが難しい政治の仕組みの中で大規模な改革を行うための便法と言う面があった。関係者の利害関係が錯綜して動かしがたいとき、そうした日常的な政策調整から隔離された場として権威ある審議会を作り、その場を借りて利害調整を行いながら、世論を誘導して改革への賛成を取り付けるというのが臨調方式の基本的な図式である。
>>外圧によらない改革には調整が必須。
幾ら赤字になっても会社はつぶれない、自分は首にならない、と言うのは「安心感」でもあり、また「無責任」でもある。会社は、いつつぶれるか分からない、自分はいつ首になるか分からない、というのは「危機感、緊張感」だが、明るい未来が描けないと「自己責任」が「絶望感」につながる。
20世紀の日本で「改革」を成功させるには、強引なトップダウンではダメ。調整が必要。いくら正しくても、賛同者がいて、改革が受け入れられる”空気”が必要。つまり、天地人がそろわないと無理。
国鉄は占領軍に大量解雇を命令され、それに反発した労組が過激化し、下山・三鷹・松川事件といった、未だに誰が何を目的に起こした破壊工作・殺人なのか分からない労使間の事件が起き…という暗黒の歴史がある。それを分割・民営化という形で実現した、というか清算した。それは画期的な素晴らしい出来事だった。戦後の清算の大きな節目だった。
ただし、JR北海道だけは取り残され、組合が相変わらず無責任・放蕩であった。これに経営側も迎合した。2011年には改革派の社長が自殺に追い込まれている。
これから、日本で国レベルの”改革”は行われるのだろうか?それはどんな天地人がそろった時なのだろうか?
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