森田草平 「共産党に入るの弁」
1948年5月「前衛」に発表された「共産党に入るの弁」より以下抜粋:
我が国の民主革命による諸変革は全て他から与えられたものだ。国民が自ら要求して奪い取った物ではない。それだけに、国民のそれに対する関心は極めて薄い。まるで他人事のように考えている。例えば「主権在民」というような重大事に関してすら、本当にその意識をつかんで、それを活かそうとしているものは、私の周囲に殆どないと言っても、敢えて過言ではない。この国民の虚脱状態こそは、いやしくも国を憂い、日本の再建を念ずる者にとって、最も寒心すべきことではあるまいか。
それに付け加えて、もう一つ、私をじっとしていられないようにさせたものは、近頃の去勢された日本の報道機関の態度だ。彼らはもはや自分の言いたいことも言わなければ、我々読者の知りたいようなことも聞かせてはくれない。どこから指令でも受けているように統一され、すっかり自主性を失くしてしまった。だから、全ての記事が一色になり、平板になる。読んでも退屈なばかりでなく、嘘ばかり聞かされているような気さえする。一体、この虚脱状態に陥ている国民と自主性を失った報道機関と、二つのものが相寄り、相援けて、どこへ日本を連れて行くつもりであろうか。そう思うと、私はイライラして、すぐにも何かせずにはいられないような気持に追い込まれた。もしこの二つの圧迫さえなかったら、私もこの年齢をして共産党入りというような、多少でもセンセーションをけしかける嫌いのある挙には出なかったろうとさえ思うのである。
前にも言ったように、私の近所のお百姓は天皇から、統治権をはく奪してこれを人民に与えるといったような一大変革も、全くの無関心を以て見送った。がとにかくこれで制度の上では、天皇制は一応廃棄されたものと見ていい。私はそう思っている。しかし、高倉テル氏も言っておられるように、「天皇制は二重橋の中にあるのではない、私たち全国民生活の中にある。上は天皇から下は村役場、農業会に至るまで、一切の官僚的な仕組みを通じて、全人民に封建的な、また資本主義的な、二重の圧迫を加え、これを極端な貧困に陥れ政治的な、経済的な、あらゆる自由を奪って無理矢理に戦争に駆り立て、とうとうこんな悲惨な有様に突き落とした。世界のどこにもない、野蛮極まる絶対専制政治の形」である。さればただ軍閥の廃止や、一部財閥の解体、戦犯官僚の一部追放だけでは済まされない、県庁をはじめとして村役場、農業会まで入り込んでいる天皇制を根絶しなければ、本当に天皇制を廃棄したとは言えないのである。そして、そういう私どもの生活に直接影響のある天皇制を絶滅することこそ、本当の意味において天皇制廃止の目的にかなっているものではあるまいか。
で、もしそういったことが完全に行われさえすれば、私はすでに主権を放棄された天皇一家をこの上深く追求しようとは思わない。正直に私の気持ちを多くのお百姓と同じように、天皇一家に対する、いわれのない親愛の情を心の底のどこかに持っている。それが支配者に対する奴隷的崇拝の残滓以外の何物でもないということは考えないではない。そしてまた、それが明治以来の為政者によって故意に育成された感情で、それ以前には全然なかったものだということも知らないではない。現に老妻の母なぞは、江戸に生まれて江戸で育ったために、一生天皇よりも公方様をより多く崇拝していた。そういう例も傍らに見ていながら、明治時代に生まれて明治の空気の中に育って来た私は、何としてもこの感情を理屈では清算することができない。で、東条以下の戦犯人を憎むにも、私一個の利害よりは、天皇一家を今日の悲運に陥れたものとしてより多く憎んでいる位である。それは矛盾であろう。が、この矛盾ばかりは私にはどうすることもできない。
同じ意味において、私は近頃の天皇側近の人々並びに府県当局の行動に対していうべからざる憤りを感じている。何の目的か知らないが、これらの人々は終戦後用もないのにたびたび天皇を連れ出して、各府県を巡回させ天皇御自身をも退屈させるばかりか、徒に人民に迷惑をかけている。これがもし失われた天皇の人気を回復して、天皇一家に対する人民の親愛の情を増させようとする意図の下に行われたとすれば、こんな間違った話はない。そんなことをしたって、有難がるのは、ものこの世に用のなくなったような、意識の低い爺さん婆さん達に限る。そんな連中の涙を誘って回って、それが何になろう。真に心からなる人民の愛情を取り返そうと思ったら、天皇は一日も早く退位して、たとえばロボットであっても、間違った戦争をして人民を塗炭の苦しみに陥れた、その責任を取らせるべきである。そうさえすれば、天皇を惜しむの情は台頭して、天皇一家に対する愛情も湧然として再び人民の間に盛り上がって来ることは請負だ。これをもなしえないで、徒に人民の目を眩ますような挙措に出ることは、これはどうしても宮内庁と府県のお役人が狎れ合いのうえ、天皇を利用して、少しでも自分たちの地位を固めよう、在来の封建的勢力を維持しようと企んでいるものとしか、私には思われない。私は天皇一家を愛惜するがゆえに敢えてこれを言うのである。そして、こういう企みと言うものは、機会さえあれば、天皇の大権を回復して、再び専制政治の世に返そうとする陰謀ともつながっている。少なくともそういう意図を包蔵しているものと見られても仕方があるまい。(略)天皇から統治権を剥奪するというような一大事をも、何の関心も持たずして、平気でやってのけた人々の中には自分の利益になるとさえ思えば、同じように無関心で、平気で天皇をギロチンにかけるような者も出るだろうと思うと、なんだかこれを言わずにはいられないような気持にさせられたのである。
>>ここで言う「天皇制」は俺の言う「日本教」だ。古い物、既成事実、先祖といったものを神と崇めることだ。これは21世紀になってもしぶとく生き残っている。
天皇の戦争責任についても同感。ただし、負けたんだから結果責任(敗戦責任)だ。
コメント
コメントを投稿