西部先生、「保守思想」でいかに日本を守りますか?

  2006年 イースト・プレス刊「アメリカの日本改造計画」より:

(略)アメリカですら「アイツはパシフィストだね」なんておよそ悪い言いなんです。何が起ころうとも、どんな場面になろうとも、一切武器は手にせず、まして戦いを交えるなんてしませんと宣言するのがパシフィストなんです。これはもう、だれがどう見たって卑怯者、あるいは臆病者という意味なんです。実は、日本という国家は戦後61年、そういう意味での臆病者国家、卑怯者国家で、それに道徳的正義を感じるなどと言う、ほとんどある種の病理にかかってきたんです。(略)しっかり思考して、日本は堂々と核武装へ歩を進めるべきだ、進めざるを得ない、と考える日本人は1万人に一人くらいはいるはずです。最低限、スウェーデンを見習うべきで、核武装の一歩手前まで進めたと宣言している。(2001年3月20日)日本もプルサーマル発電計画をもってますから、知識や技術として言えば一歩、いや、十歩手前までは来てるんです。あとは核を撃ち込むためのミサイルや潜水艦も必要だし、そういうことも含めて、文字通り一歩手前まで進めるという事ですよ。レットウ人はすぐ、軍隊は信じられないから核を持つのは危険だと自国の軍隊を疑う。日本の軍隊を疑うんなら、他国の軍隊を疑ったっていいわけです。ましてや北朝鮮、中国となれば大いに疑ってしかるべきです。軍隊なるもの一般を疑うことも必要だが、それ以上に必要なのは、他国の、ましてや怪しげな政治体制を持っている国々の軍隊が、いつなんどき混乱なり暴走なりに陥らないとも限らない、その混乱なり暴走の果てに、核の脅威が日本列島をめぐって具体化せんとも限らないと考えるべきであって、それならどうするかと考えると、「俺たちだって持ってるんだぜ」という、相手に対する威嚇による抑止力を持つことの意味が確認されるわけです。(略)結局のところはアングロサクソンと言いながら、アメリカがアングロサクソンの中の一種の精神的奇形児であるという事が分からないまま、日本人はGHQ方式というものになびいたということです。だから、安倍晋三君が憲法改正と教育基本法改正とかを謳って総理総裁になった、そのこと自体は結構なことだけれども、あの連中たちも改正問題の神髄と言うものを少しも理解していないだろうと僕は思うんです。もちろん、憲法9条第2項、例の非武装・非交戦を改正するのは当たり前のことだし、自衛隊を国軍として認めることも当然ですけど、それ以上に大事なのは、やっぱり憲法前文や第11条、12条、13条の人権至上主義、自由主義、個人主義そういう歴史的前提なきところに、人間の権利、自由、個人の存在というものをアプリオリに想定するアメリカニズム、それがいまの憲法にも教育法にも、色濃くどころか一色で塗りつぶされている。そのことに対する批判精神と言うものが、あの連中にはない。でも、あの連中たち、つまり自民党ご一党だけど、あの連中たちを批判してもしようがないわけ。日本国民もなんにもないんだから。さしあたり、GHQ方式の根本思想と言うのは、もちろんその主流が流れ者のニューディーラーたちの、政府が関与するといういわゆるソフト・ソーシャリズムであったわけです。これ、昔からの僕の持論なんですけど、20世紀後半の冷戦体制の本質と言うのは、歴史破壊のソ連と歴史不在のアメリカの、要するに左翼同士の内ゲバにすぎなかった。簡単に言えば個人の自由とか理性、科学とか合理性といったものを崇拝して、それさえあれば歴史なんかは旧体制にすぎないから、これを破壊するのが進歩だと構えた人たちです。それをレフト、左翼と呼ぶわけです。そういう意味ではアメリカもソ連も実は左翼なんです。GHQ体制というのは、単に占領処理の政治技術の問題ではなく、もっと深い、アメリカニズムの体質そのものなんだと思います。

僕の持論なんですけど、自由・平等・博愛というのは価値ではあるけど「理想的価値」であって、「現実的価値」とは別物なんです。現実的価値と言うのは秩序、格差、競合と言ったもので、現実的に言えば人々の間に秩序は必要だし、人々の間の格差は当然ながら存在するし、人々は当然ながら競い合わなければならない。ただ問題は、この理想の価値と現実の価値とのバランスを取る事なんです。自由と秩序、平等と格差、博愛と競合とのバランス、そこで初めて保守思想が出て来るわけですが、このバランスだけは厄介なことに状況依存的なんです。アメリカの経営学でTPOってあったでしょ。物事をどうやるべきかは、時と場所と場合によると言う、あれなんです。理想と現実のバランス感覚こそが上位の価値なんだという事は思想的に言えるわけ。具体的状況の中でどういうポリシーを発するのかということは、合理主義なんかでは出てくるわけがないんです。

そうなってくると、それを明確には教えられないけれど、さりげなく示唆してくれるものを指して、伝統というふうに言うんだと思うんです。あるいは歴史の常識と言うものだと思うんです。たとえば、聖徳太子は、あの時代に、ああいう状況下で、ああいうことをやったとか、歴史を振り返り、それを参考にしながら、いまの状況の中でなにをしたらいいか、ということが本当の保守感覚、歴史保守の感覚なんです。ところが、人間と言うのは間違える可能性があるので、そこでどうしても議論が必要になってくるんですね。かつてのイギリスが議会政治を大事にしたのは、単に民衆の権利はどうとか、そんな民主主義の問題ではないんです。人間は歴史感覚を今の状況で生かさないといけないが、それぞれ間違いやすいので、どこがお互い行き過ぎているか、足りないかを、議論の中で少しでも確認しなければいけない。ある問題、一定の議論をする努力を払て、このあたりで多数決で決めようと言うのがデモクラシーなわけです。

アカデミズムだって、ジャーナリズムだって、本来そう言うもののはずなんです。議論の場がその根本になければいけないんです。それを結局のところ、アメリカもソ連も中国も、戦後日本も、全部デモクラシーの名において水に流してしまったんです。民衆の欲、たまさかの欲望、行きがかりの振る舞い、思い付きの意見、それを多数決でもって民主主義だと称して、議論なんか一切行わていないんです。議論の封殺を巨大な仕掛けでやっている。これを指して、僕は「大衆社会」と呼ぶことにしているわけです。

「大衆」というのは、別に教養と財産がない人のことでも、指導者の演説に首をうなだれてついて行く人のことでもなく、歴史感覚とはなんぞや、ということを人々との議論の中で確認する、そういう態度を微塵も持っていない人を「大衆」と呼ぶならば、いまの政治家のみならず、どっかの大学の学長も、どっかの経済団体の長たちも、ほとんどがすべて、いわば大衆のエージェント、代理人にすぎないんです。

現在の日本の「大衆」の圧倒的なマジョリティは、あと何十年か後には、茫然自失、思考停止、判断停止、そして行動停止にまで至るわけです。そのとき、奴らは、必ずやマイノリティーに、「おい、お前たちは、俺たちと違ったことをなんか言ってたようだな?」「いったい、何を言ってたんだっけ?」「いったい、お前たちは何を考え何を言ってたんだ?」と尋ねてくるはずなんです。そのときに「お前たちが聞きたいって言うから喋るけども、こうだったんではないの?お前らは60年前、ピンからキリまで間違え続けたんではないんですか?」ということを諄々と言ったときに、ひょっとしたら、なるほどという風にうなずくかもしれない、僕はそのわずかな可能性を認めるという意味で大衆別紙論者ですらないわけです。

いわゆる歴史の進歩か進化か発展、その時代の歯車を回した手段はほとんどすべて暴力なんです。フランス革命だって、ロシア革命だって、暴力です。アメリカ独立戦争だってイギリスに対する暴力ですよ。明治維新だって暴力です。

>>何故、議論しないでいきなり多数決・大衆社会になってしまうのか?タイパか?議論なんてバカバカしいのか?議論することを前提していた民主主義が多数決を内包していて、議論せずに多数決、という手順を促すのか?こうして民主主義がオワコンになった。インスタとかショート動画なんて言われるものが議論を面倒にさせるのか?逆に言えば議論が面倒だからインスタやショート動画が流行るのか?考えてもいい答えは見つからない、と絶望して考えなくなるのか?


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