何故、若者は闇バイトで強盗する?
闇バイトで強盗して”素人”の若者が捕まるという事件が後を絶たない。
本当のところは分からないが、とても割のいい”仕事”とは思えない。
メディアに取り上げられる事件は氷山の一角で、実際はめったに捕まることはなく、結構割のいい仕事なのか?…少なくとも元締めにとっては割がいいのか?…この「素人の若者にろくな訓練もせず、行き当たりばったり強盗をさすせる」という”ビジネスモデル”は誰が得するのか?
どうして若者は経験も(多分訓練も受けていないだろう)したことのない強盗なんてするのか?全く理解できぬ。個人情報を握られて”元締め”から言われた通り強盗せざるを得ないのか?割の悪い仕事をせざるを得ないのも「自己責任」とあきらめてるのか?捕まったら一生を棒に振る、というリスクもさることながら、「悪いこと」「賤しいこと」「恥ずかしいこと」をする、という抵抗感はないのか?
最近の若者で理解できないことは多い:
・まじめに政治をしようとしてるようには思えない石丸は何故人気があるのか?(俺には彼はYouTubeの再生回数を増やして金儲けするため、市長パフォーマンスをやり、都知事立候補パファーマンスをやってるとしか思えない…少なくとも市民や都民のことを考えてるとは思えない)その点、ジョーカー議員(河合悠祐)や、つばさの党と同じだ。違うのは絶望の表現の仕方だけだ。
・スキルとは何か?成長とは何か?サッカーでも、料理でも、営業でも、経理でも「その道を」を何故究めようとしないのか?フラフラと転職することを「スキルアップ」とか「成長」と呼ぶのか?「華麗な」転職を重ねる石丸に若者は憧れるのか?
通底しているのは日本への絶望だ。あるいは民主主義とか資本主義、会社への絶望だ。だから他人のこと・公のこと、会社のことなど考えずに自分のことだけ考えればよい、それが格好いい、ということか?かつて日本の会社では「その道」を究めることで一生飯が食えたが、それももう無理だから「その道」は会社外のスポーツ、料理、芸能など限られた世界で奇特な変わり者の若者によってだけ追及されるようになったのか?
敗戦後、日本では会社というものは政府の代わりに会社員の:
・老後を含む死ぬまでの生活保障(退職金、年金、健康保険)
・徴税(給料からの天引きとし、個人個人で申告しない)
・雇用保障(新卒の一斉雇用~生涯雇用)による社会秩序維持
の実務を担った。そのため国際競争力・生産性なんて無視し、競争より平等優先でスキル・能力による待遇差を小さく(そもそもスキル・能力を測る基準が曖昧)し、なるべく多くの雇用を確保した。つまり、「会社」は「国のもの」に近かった。それがグローバル・スタンダードとやらに合わないと言われて変えさせられた。同時に会社は社員のために存在するのではなく、株主のものとされ株主利益のために存在する、となった。
結局、「会社」に替わる強固で信頼できる仕組みが生まれないから、「会社」に頼らず自分でリスクを背負って金を稼ごうとすることが新しくて格好いいとなったのか?自己責任とは「会社があてにならない」ということの裏返しか?俺にとっては、会社に入って20年間くらいは会社ってあてになるものだった。それから会社が怪しくなって残りの20年間くらいは「こりゃダメだ」となった。でも「会社に替わるもの」は生み出せなかった、と言うより「なんとか会社を再びあてにできるものに戻せないか?」と考え、無駄なことをしていた。
閑話休題:
スキル・能力を測り評価する基準が曖昧なまま、JOB型雇用を始めるのは間違っている。日本人得意の「アメリカでやってるから」ということだけを理由にした上っ面のマネだ。アメリカでは、経理なら経理、営業なら営業…それぞれのJOBに求められるスキル・能力・経験・責任限度が社会で共有されていて、スキル・能力を測る基準も明確だから「このスキルレベル・責任限度ならこのくらいの給料」と自己評価できるし、転職も容易で、「そのJOB一筋」でも一生飯が食える。
成果主義も「成果の評価基準」がないまま導入され、評価をめぐって不満がくすぶり、自分(自部署)さえよければよい(=部分最適)という風潮が現れた。JOB型雇用もしかり。JOB型で雇用された新人は何年か経てばJOB遂行能力はそれなりに出来上がるだろう。しかし、彼らを評価し指示を与え、彼らの責任限度をどこまでと決め、そこから先の責任・リスクを負う「経営者」はどうやって育成するのか?JOB型雇用を成り立たせる経営者をどうするのか?
もっとも、日本における会社というものの社会的使命・寿命はもう終わっているから、経営者をどうするのかなんて、さほど重要なものではないかも知れないが。
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