1970年代の東京

1972年に俺は東京の中央線沿線にある大学に入り、中央線沿線に住んだ。ともかく「砂を噛むよな味気ない」受験生活を終えて、親元を離れて東京で自由を満喫しよう、と思ってた。

 1964年の東京オリンピックの準備のため、表参道を中心に、北は国立競技場、西は代々木公園、南は恵比寿、東は六本木に至る半径2.5kmくらいのエリアは”モダン”な街並みになった。この界隈がオリンピックの中心地だった。

ワシントンハイツと呼ばれたアメリカ軍居住地が日本に返還され、代々木公園となり、選手村や放送センター、国立代々木競技場(体育館)が建設され、放送センターはオリンピック後、NHKになった。ワシントンハイツなんて存在は、日本が占領されていた遺跡であり、日本人にとって早く忘れ去りたいものだった。(アメリカにとっても、「米軍基地は本土から出ていけ」という反米・反戦思想が日本人の間に盛り上がっていたから、遺跡を早く消したかった)俺も代々木公園には何回も行ったが、そこに以前何があったのかなんてあまり詮索しようとは思わなかった。多分、詮索しようという人は少なかったろう。

赤坂~青山~表参道と続く国道246号線沿線はオリンピックで訪れる外国人に日本の復興を見せるため、また、日本の文化・民度の高さを示すために整備され、古い町並みは一掃されて新しいビルが立ち並んだ。

1972年と言うと、1960年代に始まった上述のような戦後復興・再開発の波が高度成長のおかげでますます大きくなっていた時だった。まだ全国どこにでもある大型店舗チェーンは少なく、東京にしかない、オシャレな店が多かった。一つはスーパーの紀伊国屋だった。確かにダイエー、西友といった全国チェーンのスーパーはすでにあったが、そういったスーパーとは全く違う高級食材が並んでいた。輸入食材も多かったし、自家製のパンもヤマザキパンとは次元の違う洋風な代物だった。広島出身のパン屋のアンデルセンも東京に出店したばかりだったが、それまでは見かけたことのない、フランスパンやデニッシュなどというパンが店頭に並び、また、それを客が選び取る、などという売り方は全く新鮮で格好良かった。アンデルセンは青山か表参道の店の2階にレストランがあって、そこで初めて食ったオニオングラタンスープとフランスパンはおいしくて、オシャレで忘れ難かった。50年以上たったが、いまだにオニオングラタンスープとフランスパンは俺の冬の定番の食い物だ。コロンバンなんてのも実際には戦前からある洋菓子屋だが、表参道に新しくできた、おしゃれな洋菓子屋、というイメージだった。

一方で、1972年2月(だったと思う。受験と同じタイミングだった)連合赤軍という過激学生運動・暴力的左翼運動の集団が警察に追われて山中を逃走する途中で何人もの仲間をリンチして殺す、という残虐な事件が発覚した。これにより、学生運動、左翼の過激な暴力闘争は急速に下火になった。

俺がたまに学校に行っても集会したりデモをする人がいるわけでもなく、また、アジ演説もなく、ベニヤ板の看板に、独特の学生運動文字で「〇〇粉砕」とか「△△阻止」などと書いた”タテカン”とよばれる看板が立っていたくらいだった…学生運動をひとしきりやったら「憑き物が落ちた」ように就職する、つまり、学生運動も学生のかかる「はしか」みたいなもので社会的・政治的な意味なんてない、というシラケた、自虐的な気持ち・敗北感を歌ったのがユーミン(当時荒井由実)の「イチゴ白書をもう一度」だ。

俺自身はクラブ活動に熱心だったので、学生運動には無縁だった。上述のような事情で過激で暴力的な左翼活動は不人気で、共産党系の「民青」という学生組織だけが生き残っていたようだが、共産党だって非暴力を建前とする「民主的」な集団になっていた。暴力革命を捨てた共産党・民青もやはり格好悪い敗残者だった。

1969年、パリでは学生運動がピークを迎え、アメリカではベトナム反戦運動が盛り上がり、またウッド・ストックというヒッピー文化やカウンター・カルチャーを象徴するロックフェスティバルがあった。今振り返れば、1969、1970年が学生運動・左翼運動のピークだった。日本では1970年が安保条約の自動延長を迎える年で学生(全共闘)共産党や社会党も加わって条約自動延長反対のデモをした。当時受験勉強で忙しかった俺が今になって後知恵で考えると、反対してデモしてる当人たちも「こんなことしたって自動延長になるさ」と確信し、冷めていたに違いない。それでもデモしたり「反対!」とか「阻止!」と叫ぶことが自己目的化していたのだ。1972年の連合赤軍事件を待つまでもなく、1970年安保をピークに、左翼運動熱は冷めていたのだ。そこに持ってきて連合赤軍事件が起き、急速に人心が離れていった。1972年には学生運動はオワッていた。

一応学生運動のマネをし、平気で会社に就職する、これが俺たちより数年年上の「団塊の世代」だ。俺たちの世代はシラケと呼ばれる。俺は、団塊の世代のご都合主義を馬鹿にする。「バスに乗り遅れるな、と我先にバスに乗ろうとするが、そのバスがどこに行くのかなんて構わない」のが、団塊の世代。

学生運動に代わり、日本ではヒッピー(と言ってもピースサインとかフリーセックスとか、ドラッグといったもののマネゴトをするのが精一杯)や、カウンターカルチャー、反戦運動に関わったボブ・ディランやジョン・レノンが流行っていた。俺もジョン・レノンの金ぶち眼鏡のマネをした。髪の毛も長くした。ジョン・レノンの1970年のアルバム、”ジョンの魂”はよく聞いたものだ…もっとも、ビートルズの”ホワイトアルバム”(1968年)の方が楽しいからもっと聞いたが。

中央線沿線は米軍立川基地があって、そこまで燃料を運ぶ貨車が中央線を走っていたこともあり、反米闘争が盛んだった、ということを最近知った。(他のエリアに住んだことのない俺は、1972年当時、特別そういう意識、印象はもたなかったが)

そんなこともあってか、吉祥寺はリベラルでカウンターカルチャーOKという雰囲気だった。ジャズ喫茶というジャズレコードを聞かせる喫茶店が何軒かあり、そこに何時間もいた。(当時コーヒーは一杯200円くらいだった)。ジャズを楽しむというよりはジャズを勉強する、そんな感じだった。しかし、1972年夏はChick CoreaのReturn to foreverという、エレキジャズ(後年ヒュージョンなどと呼ばれた)が大流行して、俺の好きなアコースティックでトラディショナルなジャズは下火だった。

反戦、ロック、カウンターカルチャーといった社会現象がジャズにも影響を与えたのだ。このころは、Miles Davisがジャズ界の”帝王”でChickもMilesのバンドに参加してMilesの影響を強く受けた。1970年代のアメリカはベトナム戦争で疲れ、経済的にも疲弊し、明るい展望が描けずにいた。そういう世相がジャズにも反映し、また、Milesがロックが格好いい、流行ると煽ったので、保守的な俺から言わせればおかしな方に行ってしまった。(1980年代にはその反動でトラディショナル・ジャズへの回帰も試みられたようだが、俺は1970年以降のジャズには興味を失った)

ということで、以下に「ジャズ」と言うのはアコースティックでトラディショナルなニューオーリンズ・シカゴ、スイング、モダンといったジャンルのものだ。上述の、アメリカの経済や世相との相関で言えば、アメリカのジャズは1928年、1940年、1956年と3回ピークを迎えた。1928年は翌1929年世界恐慌が起こるが、その前のバブル全盛期で、Louis Armstrongのバンドも全盛期を迎えた。1940年はヨーロッパ大陸の第2次世界大戦のおかげでアメリカ経済は盛り上がり、Duke Ellington、Count Basieのバンドも全盛だった。1956年、アメリカは第二次世界大戦から自由世界を救い、大量生産で豊かになって自信満々の時だった。Miles DavisのCool Jazz,西海岸ではArt Pepperが格好良かった。

ジャズを聴き、ジャズレコードを買うのが東京で暮らす一つの目的になった。結果論だが、国分寺~新宿~お茶の水~東京にかけて中央線沿線にはジャズ喫茶およびジャズレコードを沢山扱っているレコード屋が集中していた。思い出すまま店名を羅列する。

ジャズ喫茶:

国分寺 モダン、ピーター・キャット

吉祥寺 ファンキー、メグ、アウトバック

高円寺 サンジェルマン

新宿 木馬、(DIG、DUG、PONY)

水道橋 スイング

神保町 響

レコード屋:

新宿 オザワ、トガワ、ユニオン、(ディスクロード、帝都無線)

お茶の水 ユニオン

神保町 TONY、レコード社、(富士レコード社)

秋葉原 石丸電機

銀座 ハンター(ヤマハ)

※上記のうち( )なしのものは記憶していたもの。その頃のスイング・ジャーナル誌をパラパラとめくって思い出したものが( )内。

国分寺のジャズ喫茶「ピーター・キャット」は1974年にあの”村上春樹”がオープンした店。何回か行ったが、いつもカンターの向こうに彼がいた、と思う。

水道橋「スイング」は、村上春樹さんが、若い時(学生時代?)アルバイトしていた、という店。モダンジャズはなく、ニューオーリンズ、デキシー、スイングだった。

吉祥寺「ファンキー」は所有しているジャズ・レコードが都内で一番多かったように記憶する(今、当時のスイング・ジャーナル誌で調べると、3800枚)

休みの日は中央線に乗って新宿に行って西口のハルクの奥のオザワにまず行って、青梅街道の上にかかった歩道橋を渡ってトガワに行ったものだ。それから新宿駅に戻ってお茶の水のユニオンに行って、神保町のTONYからレコード社と回って歩き疲れて最後に水道橋のたもとにあるスイングでコーヒーでも飲む…これで朝から夕方まで時間がつぶれた。オザワ、トガワ、ユニオン、TONY、レコード社といった店で何枚レコードを買っただろうか?4~5百枚は買ったんじゃないか?

これらの店はいずれも、中古と輸入盤を売っていた。学生時代は、いくら欲しくても2000円より高いアルバムは買わなかった。(買えなかった)つまり、日本のレコード会社が出す新譜の価格より安くないと買わなかった。今は稀少価値の高い中古レコードだと何万円もするが、当時はどんなレア版でもせいぜい1万円くらいだったように記憶する。

買ったレコードは部屋に置いとくと勝手に友達が見て持って行く(借りていく)。逆に俺も友達が買ったレコードはチェックする。そして互いに持っていないレコードはテープにダビング。友人間で重複して買うことを避けるべく「次は何を買うか」という情報交換を行った。そうやって自前で購入したレコードと同じくらいの枚数のレコードのダビングを行った。

しからば「次に何を買うのか?」をどうやって検討・決定するのか?

一番確実な情報源はジャズ喫茶だ。リクエストできるから聞きたいレコードをリクエストする。それを聞いて自分が予想したような演奏かどうかチェックする。他の人がリクエストしたレコードについては演奏中はジャケットを見ることができるから、気に入った、あるいは気になるレコードならそのアルバム名やプレイヤー名を覚える。これを何百回も繰り返すと、ある程度、「この時代のこのプレイヤーならこんな音でこんな演奏」「こんな音、演奏はこのプレイヤーのこの時期のもの」ということが推測できるようになる…演奏を聞いてその曲名・演奏者名・レコードレーベルなどを推測して当てることを「ブラインドフォールド・テスト」という。

二番目の情報源はスイング・ジャーナル他のジャズ雑誌のレコード・レビューだ。この類の雑誌もジャズ喫茶にあるから、ジャズ喫茶に行ってレコード・レビューを読んでは、次に狙うレコードあるいはプレーヤーを探す。ジャズレビューもそれを書く評論家が、自分と好みが一緒かどうか(=信用できるかどうか)がだんだんわかってくる。俺が一番気に入った評論家は粟村政昭さんだった。

ジャズレコード蒐集道は、まさしく「芋づる式」だ。例えば、Miles Davisのリーダーアルバムを気に入ったとする。Miles DvisはCharlie Parkerのグループにいた。今度はサイドマンとしてCharlie Parkerの下でやっていたMilesDavisを聞いてみる。この時のMilesDavisのトランペットはスカスカの音で下手だ。ところが、Parkerのアルトは物凄いし、Parkerと共演するDizzie Gillespieのトランペットはいい音でテクもいい→次にDizzie Gillespieのリーダーアルバムを聞いてみる。

それにしてもCharlie Parkerのアルトはものすごいテク(超絶技巧)だ。Parkerのリーダーアルバムを次から次に聞く。そうすると、Pakerと一緒にやってるDuke Jordanのピアノがなかなかいい…今度はDuke Jordanのリーダーアルバムを聞いてみる。

Charlie ParkerはEarl Hinesのバンドのサイドマンだった。じゃあ、Earl Hinesも聞いてみよう…Earl Hinesもすごくいいじゃんか。。。

ジャズはソロ演奏もあるが、大体はグループ演奏だ。プレイヤーは何年(短いときは何か月)か、あるリーダーの下で働く。そして次のリーダーのところへ移動するか、自らリーダーになる。プレイヤーの健康状態や、一緒にやるリーダーや同僚、プロデューサーなどによって演奏の出来は変わる。あるプレイヤーがいつ、どんなリーダー、同僚とプレイしているか、によって出来不出来がある*。つまり勉強すれば、何年頃、誰と一緒にやった演奏はいいとか悪いとかが判断できるようになる。

この買い方に参考になるのがdiscographyだ。discographyにはdiscographical dataが表記されている。つまり、バンドリーダー(バンド名)別に、全ての演奏者の名前とその楽器、演奏した曲名、レコード会社(レーベル)、録音場所、年月日が書かれている。

病膏肓というべきか、学生時代からdiscographyが欲しかったが、買えず、結局会社に入ってから買った。1942~43年にアメリカではレコード録音がストライキのために中断されたが、そのせいか、discographical dataは1942年の前後で二分されている。全部で十数冊。値段は全く覚えてないが、3万円前後はした、と思う。(もちろん紙の本だ。買ってから40年以上…もうボロボロだ)今はネットで簡単にdiscographical dataを入手できるようになった。

このdiscographyに記載された曲でコレクション済みの曲に〇印を付ける。この〇が増えるとうれしい。また、この〇がついた曲は買わないように注意する。

1960年代後半から1980年代はジャズレコードの製造発売については、日本は世界一だったと思う。(ジャズの本場というか発祥の地アメリカでは、ジャズレコードがそんなに売れないせいか、あまりレコードは出なかった。日本のレコード会社は、アメリカのレコード会社から原盤と製造許可をもらって、多くの復刻レコードを出した。今思えば、売れる売れないは気にせず、網羅的に出した感じだ。もちろん、レコードの品質も良かった。

スイングジャーナルが「幻の名盤」などと煽って昔の名盤を復刻するようレコード会社に提案して復刻発売させた。復刻したレコードはアメリカ本国でも廃盤になりマーケットに出回っていなかったから、アメリカ人その他、世界中のコレクターが垂涎した。

ジャズに限らず、レコードコレクターにととって1970年代から1980年代の日本は一番幸せな国だった。

加えて、12インチ(直径30cm)のLPレコードは、ジャケットがまたよかった。ジャケットもサイズ感のいいアートだった。ジャケットを壁に飾るための額縁まで買って何枚か壁に飾ったものだ。「ジャケ買い」もした。一枚はAnita o'Dayの白いセーターを着てセーターガールぶりを発揮したpick youeself upだ。違うジャケットのは持っていたが、オリジナルジャケットのものを中古レコード屋で発見して喜んで買った。あと1枚はChet BakerのIt could happen to youだ。これは、ジャズ喫茶で聞いて気に行ったが、中々見つからない。何年か後にアメリカ製のオリジナル盤を中古レコード屋で見つけたときは「あきらめなければ、いつの日に手に入るんだ」と思ったものだ。ただし、盤の状態は最悪、盤面は傷だらけでプツ、プツ、というノイズが入って聞くに堪えない。その後にCDが発売されたのでそれも買った。

自動車もレコードも同じだが、日本人は「宝物」、傷つけないように大事にする。アメリカ人は平気でレコードの盤面を指で触りまくり、車のバンパーなどは傷だらけだ。アメリカ人が聞いていたレコードは傷だらけなことが多い。一番ひどかったのアメリカ盤レコードは、ワラのようなものが入っていた。

*もちろん例外があって、例えばEarl Hinesのように1927年のJohnny DoddsグループにおけるLouis Armstrongとの共演から晩年の1980年代まですべてのアルバムにおいてほとんど好演ばかり、というプレイヤーがいる。俺は彼の参加するアルバムは全て買うようにしてきた。(そのおかげ?で、同じアルバムを3枚持っている)

ヤク中で共演者に関わらず、出来不出来の差が甚だしいプレイヤーもいた。Charlie Parker、Lester YoungやArt Pepperだ。その手のプレイヤーについては、雑誌その他でこのプレイヤーはこの時期はダメとか、このセッションは奇跡的にいい、などという情報があった。

>>閑話休題

1983年に設立されたスペインのフレッシュサウンドレコードが1990年以降元気のなくなった日本のレコードメーカーの後を継いでジャズのアナログレコードを復刻し続けた。日本盤では手に入らないレコードが何枚かあって、六本木のWaveで買った。

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