特攻について考えた

 早田ひなの「特攻平和会館」発言で中韓国人からネガティブな反応があったようだ。日本人にも特攻隊については「国に命を差し出した」という事に対してネガティブな考えもあれば、美しい自己犠牲という肯定的な考え方もある。早田は特攻隊を肯定する気はさらさらなく、平和会館には、あとに残る日本人が平和に生きることを祈りながら死んでいった人たちの思い出があるのでそれをかみしめたい、というニュアンスで発言したのだと確信する。この事情を中韓国人にどう説明するか、考えてみた。

①日本教

日本には日本教という宗教があって多くの日本人は日本教徒だ。日本教の第一の教えは「家」を神と思い、家を信じて守ろうとするという事だ。家とはご先祖さまから自分、そして子孫へと綿々と続く鎖のことだ。家と自然という二つの神様のおかげで人は生まれ育まれる。これを「縁」と言い、また「恩」と言う。日本教では「親が勝手に子を作った」などとは言わない。子は縁と恩に恵まれて、親から自然に生まれ育つ。

親・自然の縁と恩で生まれ育った個人は家という鎖を形成する一つ一つの「リング」であって、一つ一つのリングは家より軽い。日本教第二の教えは個人は子という自分の次のリングを生み育て、鎖をつないで家を存続させるために存在する、ということだ。子が一人前になって後を継げるようになれば親は死んでもよい。というか、子が後を継ぐことができるようにするために必要なら親は死ぬことも厭わない。また、死なないとリングは完結しない。

日本には様々な家があるが、一番由緒正しそうな家が天皇家だ。1000年以上前に書かれた日本書紀や古事記に登場する。日本書紀、古事記その他日本の記録や文書の記述が史実としてどこまで正しいかは別にして、天皇家はそんな大昔から今に至るまで営営と途切れずに続く(とされる)家だ。日本教第三の教えは「古いものほど価値がある」で、天皇家は日本で一番古くから続く家と見なされるから、すべての家のご先祖様で一番価値がある家だ。したがって、天皇(家)は神の中の神で、天皇はすべての日本国民の親だ。

戦後、天皇は自ら神ではない、と言い、神の座から降りたが、まだ「象徴」だ。象徴の意味するところは数ある家の中で一番古く、由緒正しいということだから、敬虔な日本教徒はあいかわらず天皇は神様と思っている。戦前、天皇は神様だけではなくて、日本国の主権者だった。戦前の日本教の教えでは天皇は最高の神であり、天皇家の否定=日本中のすべての家の否定だった。ご先祖様から始まり将来の子供世代に続く家を守るためには個人は命を差し出さなければならない。

先の大戦は日本という家を守るための戦いであり、日本という家を守るために死ぬことは日本教の殉教者であった。以上が日本教の建前で、その通り信じていた人もいた。信じてない人も信じているフリをせざるを得なかった。特攻隊員の中にも敬虔な日本教徒もいたし、そうでない人もいた。そうでない人も特攻を止めることはできず、自分の生死の意味を問い詰めた。多くの特攻隊員は敵に損害を与えるなんてことができるとなどとは考えず、それじゃあ自分は何のために死ぬのだ?と問い詰めて、家や国のために死ぬのではなく、愛する人、子供や次の日本を託すべき人たちが自分たちのような目に遭わないように自分の命を差し出すのだ、と考えて何とか自分の死を意味あるものにしようとした。

特攻平和会館に行くと、このような特攻隊員の苦悩・葛藤、「次のリング」に託す思いにふれることができる。決して特攻隊賛美のための平和会館ではない。

以上が俺の説明だが、日本教が中韓国人に理解できるか?それ以前に日本人に理解されるか?

閑話休題:

俺は決して敬虔な日本教徒ではない。家より自分の方が大事だ。家なんて言うフィクションは好きではない。一方で、子供が一人前(というか俺より上等な人間)に育ったので安心して「いつでも死ねる」と思っている。子どもが育ったのはすべて上さんのおかげだ。俺は会社に精一杯というか夢中だった。今思い返せば、21世紀に入って、学校ー会社という安心安定の仕組みがオワコンになりかけていたのに、それに気づかず、子供たちが学校ー会社というレールの上に乗るのを止めようともせず指をくわえて見ていた。悔やまれる。でも俺の子たちは大丈夫、しっかり生きて行くことだろう。上さんのおかげでまともで賢く育ったもん。

実は会社、政党その他の組織も「家」だ。かつては入社は会社という家の一員になることを意味し、いったん受け入れたら家はその人を見捨てることなどしなかった(神さまなんだから)。その「神話」が2000年頃音を立てて崩れ去った。俺は「話が違うよ」と会社を憎んだが、かといって会社を見限ろうとまでは思わなかった。2000年頃神と信じていた会社から見棄てられた人たちや会社が社員を見棄てるのを目撃した人たちの子弟が会社を見限り、会社は長くいるところではなく自分のキャリアの単なる1ステップと考えるようになった。

「改革」が叫ばれたが、何せ、神だから会社は中々変わらない。会社に限らず日本中にある様々な組織は神だ。変革しにくいよね。今までは外圧あるいは外圧を利用した日本人が変革してきた…占領軍や明治維新の志士たち。いずれも追い詰められた日本のトップである将軍や天皇が自らを自己否定して改革は始まった。戦後日本のトップにいて自己否定すべきは「会社」だろう。会社は2000年頃社員を見捨てて神様の座を降り、自己否定したのか?会社は株主のものと前提した会社法の成立を持って自己否定とするか?ではその後の改革の担い手は会社に勤めないで稼いだり、会社を踏み台に転職してキャリアを積む者たちか???なんか粒が小さいが…


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