”マッカーサーと吉田茂”(下)リチャード・フィン著 1993年、同文書院刊 より
マッカーサーと吉田茂(下)には、俺も知らなかった(学校でも教えてくれなかった)今に続く戦後日本のさまざまな問題の原因というか起源が明らかにされている。アメリカ人の書く日本の戦後史は必読だ。日本人では書けない史実が述べられている。
①1945年8月の広島・長崎への原爆投下でアメリカは世界に圧倒的な軍事力を誇示したが1949年8月のソ連の核実験成功によりアメリカの優位は揺らぎ、10月の毛沢東の中国成立、1950年6月朝鮮戦争勃発に至り、冷戦は本格化する。日本の左翼運動もソ連からの引揚者の力もあって盛り上がった。これに危機感を感じたマッカーサ-はそれまでの容共的とも言える態度を豹変させ、反共となった。マッカーサ-は、アメリカの核兵器独占を前提に、余裕をもって「いずれソ連は譲歩してくる。ソ連がおとなしくするなら日本は再軍備不要。日本人もそれを望んでいる。」と考えていた。
岸信介が統一教会に近づいたのも共産革命が実現することを真剣に恐れたからだろう。
②しかし、左翼運動(政党)はどうして離合集散を飽きずに繰り返すのか?そもそも発足の時から様々な組織がくっついて始まる。それが必ず喧嘩別れする。(アメリカなり日本政府なり自民党が分裂を仕組んでいた、とうことは考えられる)
③マッカーサーが共産主義・社会主義を「民主主義と相容れない」としたのは、選挙を否定し、一党独裁を旨としていたからだろう。吉田首相も共産党の非合法化を考えたようだ。今、共産党の綱領は共産革命とその後の一党独裁を歌っているのだろうか?そうなら非合法化すべきだろう。
④韓国・朝鮮人差別から脱しきれないと指摘される日本人。アメリカの黒人差別に比べれば歴史も浅いし過酷でもないように思うが。日本国籍がなければ社会保障を受けられず公務員や国会議員になれないというのは差別ではなかろう。(社会保障は納税していれば受けさせてもいいか?)ただし、朝鮮人に対する管理強化のため、創氏改名を強制したのは朝鮮人の誇りを大きく傷つけるものだった。日本の朝鮮統治の方針は「日本人と同じ=多様性の無視」だったように思う。それを強制された朝鮮人は誇りを傷つけられた。慰安婦とか強制労働も「日本人と同じように」した結果のようにも思われる。ハラスメントと同じく、「差別だ」と感じられたら終わり、ということだろう。無邪気に同化しようとして傷つけたことへの謝罪は不十分だと思う。
⑤「かつてアメリカもイギリスの植民地だったが、いまでは逆に強国になった。それと同じく、日本もアメリカの植民地になることがあっても、最終的にはアメリカをしのぐようになるだろう」…吉田茂らしい、物凄い負け惜しみ。
⑥日本の賠償が現金でなかったのは、第一次大戦後のドイツによる巨額の現金賠償に対する批判を受けて、現金ではなく、資産の没収や労働力や加工などによる賠償というのがトレンドだったから。日本を味方にしておきたいアメリカの思惑でドイツに比べると、日本の賠償は比較的短期間で軽く終わった印象。ただし、韓国は例外。21世紀に入ってもまだ未解決。(北朝鮮は拉致問題もあって日本が一方的に悪いわけではなくなった)韓国に対しては悪意があったかどうかは別にして民族の誇りを傷つけたという大きな間違いを犯したから、そこを踏まえて謝罪する必要がある。
⑥日本軍と日本駐留アメリカ軍はいずれもアメリカ軍の指揮下で共同作戦行動をとるという条項をアメリカが求めてきた・・・これはアメリカ軍が日本に駐留し続ける限り続く。いざとなったら米軍司令官は完全な自由も求めるだろう。だって自衛隊はもちろん、日本の政治家も戦争に関する実戦経験も能力もゼロだからやむを得ない。いやなら米軍に出て行ってもらうしかない。
⑦日本が民主的で、武装せず、平和を愛する国であるという事実を世界に示せば、日本の安全保障は手に入ったも同然である。なぜなら世界の世論が日本を守ってくれるからだ・・・どこまでまじめに考えてのことか?俺は、こんな説得力のない屁理屈を並べなくても、単純に「滅ぼされたっていいじゃあねえか、『そんな馬鹿な国もあったね』と語り継がれればいい」のではないか?(上岡龍太郎の受け売り)
⑧自衛隊はその生まれから不幸だ。マッカーサーも吉田もあくまで国内治安虹の為の警察だと言い張った。
⑨日本不在で米英両国政府は、最終的な領有権は決めないまま、台湾、南樺太、千島列島に対する主権を日本が放棄することで合意・・・戦争に負けるもんじゃあない。だから尖閣も北方領土も、竹島も・・・解決したければ日本がもう1回戦争して勝つしかないだろう。
以下、抜粋:
・(1948年当時)米陸軍には日本が「小規模な防衛力」を持つべきだと考えている政策立案者もいた。これに対してマッカーサーは、アメリカは早期の講和会議開催を求めていくべきだと力説して応答の口火を切り、条約の交渉が始まれば結局のところソ連も歩みよらざるを得ないだろうと示唆したうえで、極東諸国の分裂を深める日本の再軍備には「一貫して反対」であると断言した。日本の再軍備は連合国最高司令部の基本政策に反するばかりか、さらに日本が再軍備を進めようとしても、経済的に大きな負担を強いられ、「ソビエト・ロシアの好餌となってわざわざむさぼり喰われるような」もっとも弱い軍隊しか持ち得ないだろうし、それ以前に心から戦争放棄を誓っている日本国民は再軍備を受け付けないだろうと続けた。
・封じ込め政策は軍事的なものではなく政治的な方針だとする自己の見解に従って、ケナンは、日本が軍事力を保持する必要があるとか、アメリカが講和条約調印後も日本に軍隊を配備すべきだなどという勧告はしなかった。回顧録の中でケナンは、「私が望んでいたのは・・・その時点ではマッカーサー元帥と同じ考えだったと思うのだが…太平洋北西部の安全保障について、最終的にはソ連とある程度理解し合うことができ、その結果として日本の再軍備なども不必要となる、という筋書きだった」と述べているが、こうした考えは冷戦思考とは程遠かった。ただケナンは、重要な日本の再軍備問題に関しては逃げ道をつくってあった。すなわち、ソ連の脅威を無視できず、内部的にもまだ不安を抱えている(マッカーサーよりケナンは、日本は共産主義勢力の影響をずっと受けやすいと思っていた)日本は、講和条約調印後も無防備のままでいるというわけにはいかないだろう。そして、講和条約を締結しないか、さもなければ「他国の軍備的脅威にならない程度の軍備をもう一度日本が保持することは認めねばならない」と主張した。ただし将来、ソ連の軍事的、政治的な脅威が小さくなれば、日本と非武装条約を結ぶ可能性すらあると付け加えた。
・ドッジラインは財政支出の削減に大きなポイントが置かれていたので、吉田首相はこの指示を大いに歓迎したが、かといって簡単に従うというわけにもいかなかった。というのも、1949年初めに政府は163万人の労働者を雇用していたのだ。政府官庁は失業対策としてしばしば大量の職員をかかえこむ事態を免れず、帰還者と復員者を優先的に雇用していた。マッカーサー元帥は1949年3月に、公共および民間の雇用者名簿は「必要な従業員数より20ないし40%も多い労働者を載せているため、いたずらに膨れ上がっている」という見解を出した。1949年4月19日、吉田首相は連合国最高司令官に親書を出し、削減案によって政府は年間賃金換算で約70億円(ほぼ2000万ドル)を節約できると述べている。また国有鉄道では1949会計年度に500億円(約1億4000万ドル)の赤字を出したので、61万486名にのぼる職員の大幅な削減が予定された。新たな法律によって定員の上限が50万6734人と定められた国鉄は、10万人以上の労働者を削減する必要に迫られた。1949年初めに国鉄労働組合は日本で最大の労組となり、政治的にももっとも活発な動きをしていた。1949年と1950年に発生した労働争議に際して指導的役割を果たした国鉄労働中央委員会は、穏健派と左派にほぼ二分されており、そのなかのある部分はのちに共産党員となった。
政府の「行政緊縮」政策が実施に移されたと同じ時期に、民間でも、大量の人員削減が実行され、さまざまな事業緊縮計画に従って、1949年中に解雇された人は、公務員が約16万人、民間の労働者が約33万人にのぼった。さらに1950年になると、民間企業で約10万人が解雇されている。こうした解雇の理由はほとんどが業務の能率化と合理化のためと発表されたが、左翼的思想の持ち主だとみなされて解雇された労働者の例も少なくなかった。政府が人事の緊縮方針を決定すると同時に、一連の事件が発生した。つまり、就労拒否、労働者による列車運行の管理、デモ行進、ストライキ行為による威嚇などである。実際、連合国最高司令部の担当者たちは、1947年1月31日に出された実施目前のゼネストに対するマッカーサーの禁止命令をあらゆるストライキに運用できると解釈していた。官民を問わず左翼と組合活動家が真っ先に首を切られるという共通認識が広がり、社会不安が増大した。鉄道妨害行為の大部分は1949年に発生しているが、なかでも7月は最悪で1574件が報告されている。徳田球一が陣頭指揮を執っていた共産党が、真っ先に政府計画への反対を決定した。6月18日、19日と開かれた同党の中央委員会で、徳田は「9月革命テーゼ」を発表、9月までに吉田内閣を打倒しようと呼びかけたが、党として具体的な闘争案を持っていたわけではなかった。1947年2月にゼネストが禁止されたときと同様、今回もストライキは禁止されるだろうと予想された。だが徳田は、反動的資本主義に抗してすべての左翼勢力が結集するよう求めた。この徳田のアピールは当時、絵に描いた餅だと思われていたが、まもなく起きた一連のテロ行為ののろしだったことがすぐに判明した。1949年6月27日にソ連から2000人の抑留者が日本に帰還してきたが、彼らは、赤旗を振りインターナショナルを歌っていたので、世間では共産主義革命が現実のものとなる日もそう遠くないかもしれないという期待と不安が一層高くなった。いまなお真相をめぐって取りざたされる3件の事件が1949年夏の6週間にうちに相次いで起きた。まず最初は、下山国輝総裁が7月5日か6日に謎の死を遂げた。それまでにも脅迫状を受け取っていた下山総裁は7月4日、3万7千人の鉄道従業員に最初の解雇命令を出している。下山は7月5日朝、仕事に出かけ、午前中に東京の繁華街にある三越百貨店へ買い物に出かけたあと行方がわからなくなり、真夜中を少し回ったころ、東京市街地の北部に当たる千住付近の鉄道軌道上で遺体が発見された。現場の状況が曖昧で列車に轢かれる前に死亡していたかどうかもはっきりしない状況だった。吉田首相は非常に心配して警察庁の長官を呼び「なぜ事故現場に行って捜査の指揮をとらないのか」と尋ねたが「地方警察が支援を要請してこない以上、国家警察は介入できません」という答えしか返ってこなかった。二つ目の大きな事件は、国鉄労働者6万3千人を対象とした2回目の解雇通知が出された二日目の7月15日の晩、東京西郊の三鷹駅で発生した。停車していた無人の電気機関車が、なぜか動き出して車庫から出、800メートルほど傾斜を下ってガードレールを乗り越え、駅構内に突っ込んだのだ。警察は、「故意による人間の行為でない限り、機関車がひとりでに動き出すことはありえない」ため、この事故は政治的意図による破壊行為であると断定して10人を逮捕したが、そのうち9人は共産党員だった。長い取り調べのあとで、一人だけ共産主義でなかった容疑者が自供して有罪を宣告された。三大事件のうち最後に起こった松川事件は、8月17日の早朝に起きた。630人が乗った旅客列車が東京から270キロメートルほど北にある福島県の松川で脱線し、機関士と二人の助手が転覆した車両の下敷きになって死亡、乗客に多数の負傷者を出し、3名が重体に陥った。現場には何者かが線路に工作した跡があり、ボルトと連結板が外されて、作業に使用したと思われる工具と一緒に近くの野原に投げ捨てられていた。この事件で20名が逮捕され、そのなかの一人が自白、さらに多くの容疑者が共産主義者であることを認めた。公判でさらに7人の被告が自白し、全容疑者が福島地方裁判所で有罪となったが、再審となり、最高裁による2度の審理を含めて通算で10年にも及ぶ法廷闘争と上告の繰り返しの末に、再審で新たに重要な証拠が出たため全員が無罪となった。下山事件と三鷹事件の後、国鉄労働組合の中央委員会で主導権をめぐる争いが起きた。同中央委員会は、17人の共産党員がかろうじて過半数を占めていたが、国鉄当局が17人全員を解雇した結果、民主化同盟派が中央委員会を牛耳るようになった。ともかく、一連の対応にみられるように、占領軍と日本政府は、1947年1月のゼネスト当時とは打って変わって迅速かつ断固たる処置を取ったわけである。多くの民間企業でも当時深刻な労働争議を抱えていた。例えば、戦後何とか立て直しを図ってきたトヨタ自動車は、1949年には製造した車の一部が売れ残り始め、給与を全額支払えなくなってしまった。1949年春に会社側が給料の減額と解雇案の作成に着手しはじめるや、戦後発足した同社の組合はストライキに入った。1950年6月になって、やっとストライキ収拾をはかる協約がまとまったときには、会社は倒産の瀬戸際に立たされていた。組合は労働者を8000から6000に減らす案をのむ代わりに、創立者の豊田喜一郎をはじめとする最高経営幹部が辞職して、トヨタの歴史上、唯一のストライキは終わった。労働争議が最高潮に達した1949年7月、マッカーサーは声明を出して共産党を名指しし、「民主主義と相容れない綱領を公然と掲げ、たえず規制の秩序を破壊しようとする団体が、合法政党として機能することが許されるだろうか」と問いかけた。
1949年8月29日、ソ連は初の核実験に成功した
(略)さらにマッカーサーは、1950年5月3日、日本国憲法施行3周年記念日に一層強硬な声明を出して、共産党は、「これまで装ってきた合法性という衣装を脱ぎ捨てた。日本人でありながら国際的な略奪勢力の公然たる下僕となって、国外政権の方針のもとに、帝国主義的目的及び破壊宣伝活動の手先を務めている。共産党がこのような姿勢を取る以上・・・日本の憲法で定めれれた政治活動と見なしていいものだろうかという疑いを抱かざるを得ない」とまで決めつけている。連合国最高司令部筋によれば、1948年の日本における共産主義勢力は、党員が約1万6200人、シンパが8万人であった。
1950年上半期に起きた2つのできごとによって、こうした恐れは一層広まった。すなわち1月6日にソ連共産党の宣伝機関コミュンフォルムの機関紙が、日本共産党議長、野坂参三の掲げる「愛される共産党」路線を「反民主主義的、反社会主義的、反日本人民的」と名指しで批判するモスクワの見解を発表したのだ。この論文は、日本共産党はこれまで以上に軍事的、活動的な路線を取る必要があり、連合軍による占領体制を甘受しているがごとき現在の方針は放棄すべきだ、という立場をとっていた。野坂はすぐさま日本共産党の誤りを反省し、「国際革命運動の鉄鎖として日本共産党に課せられた重要な任務」を果たさなければならないと認めた。だが共産党の総本山からこうした非難を受けながらも、野坂の地位が弱くなる気配はなかった。第二の出来事は5月30日に起こった。この日、東京の中心地にある皇居前広場でデモ行進が行われていた。占領期間中としてはきわめて珍しい事件の一つだったが、その現場で写真を撮っていた5人のアメリカ人兵士が左翼のデモ隊員に暴行を受けたのだ。8人のデモ隊参加者が逮捕され、アメリカ軍事法廷で裁判にかけられた結果、5年から8年の重労働刑が宣告された。吉田は、この「恥ずべき事件」をめぐって共産党員を厳しく非難する強い調子の声明を発表、政府は共産党の非合法化を考慮することもありうると述べた。朝鮮戦争が勃発する数週間前の1950年6月6日と7日には、共産党の中央委員および党機関紙「アカハタ」の論説担当者ら24名が、連合国最高司令部から首相に宛てられた親書に基づいて公務から追放され、6月26日には「アカハタ」の発行そのものも無期限に停止された。日本政府は、占領軍の指令をすぐさま実行に移し、共産党の指導者は公職から追放された。24人の中央委員のうち、1953年に北京で死んだ徳田を含む9人が地下に潜った。同様に中国に逃亡していた伊藤律は1980年に帰国、野坂は日本にとどまり、占領期間終了後に復帰した。占領期間中発行停止の状態にあった「アカハタ」は1952年に復刊されている。レッド・パージとして知られるマッカーサーの親書は、政府、産業界、および報道機関の内部に根を張る左翼主義者の解雇、および共産党指導者の公職追放が始まる一連の措置の幕開けとなった。正当な法的手続きや何の説明もないまま、政府や民間企業によって実行されたこの公職追放では、約1200名にのぼる教育、鉄道、および通信関係の国家公務員が、また民間では約1万1000人が最終的に職場を奪われた。マッカーサーの共産指導者に対する公職追放令は、共産主義者の活動や演説に伴う暴力的要素に不安を覚えていた吉田や多くの日本人にはたぶん歓迎されたであろう。というのも、1949年1月の総選挙で共産党が躍進を遂げたため、一般に動揺が広まり、同年の後半の中国での毛沢東による政権奪取とソ連のっ核兵器実験は、国際共産主義勢力の大きな成長を示す先触れではないかと考えられていたのだ。1950年、マッカーサーが共産主義者に対する態度を一変させたのを見て、吉田らは以前から自分たちが抱いていた観念の正当性が認められて安堵するとともに、アメリカの方針に必ずしも一貫性がない事実を如実に示していると思った。
・マッカーサーの承認を受けた総評と呼ばれる新しい評議会が1950年7月1日に正式発足した。総組合員数377万人、つまり全組織労働者のほぼ半数を抱える組織として誕生したこの組合は、指導部によって「非共産主義者の集まりで中道路線をとる」という方針が予定されていた。もっともこの総評を「総司令部(GHQ)の産んだ私生児だ」と呼んだ人もいる一方で、占領期労働運動の権威である竹前栄治などは、日本の労働運動の真の始まりを示す組織だと考えていた。かくして総評は日本の労働運動の支配的な勢力になったが、連合国最高司令部やアメリカの思い通りになる労働組織とはとても言えなかった。やがて総評は、アメリカ政府や日本政府の見解とは関係なく独自の立場を取り、共産主義的な教義には与しないまでもかなり進歩的な左翼組織となっていく。総評の対抗勢力として穏健派の労働連合である同盟が設立されたのは占領が終わってからであった。組合は二つの社会主義政党の政策にかなりの影響力を及ぼしているが、最近は法と秩序を脅かすような存在ではなく、労使は協調して労働問題の効果的、平和的な解決にあたる傾向が強くなってきており、政府も解決に手を貸すような役割を果たしている。1989年末に総評と同盟は多くの中道派労働組合を結集、日本の組織労働者の3分の2に当たる800万人の組合員を擁する新たな労働組織として「新連合」を結成した。
・大韓民国が建国され、東京にいる連合国最高司令部との連絡事務所を設けた1948年当時は、在日韓国・朝鮮人の半数以上が左翼の影響下にあった。連合国最高司令部と日本政府は、韓国の連絡事務所ができることによって在日韓国・朝鮮人の反抗的で左翼的な傾向が抑えられ、やがて弱くなっていくだろうと望みを持っていたが、1948年から1950年にかけての不穏で騒々しい日本の社会情勢のもとでは、この期待もむなしかった。マッカーサーは「連合国最高司令部が朝鮮人の国籍問題を部分的にいじると、二次的問題が派生しかねないので放置しておいた方がいい」と考えた。吉田は1949年に全ての在日韓国・朝鮮人は日本の費用で帰還の面倒を見るが、日本に留まりたいと希望する人々は日本の再建に貢献できる人物の場合に限り、残留を認めてもよい、と提案した。ところが1950年になると、政府は、日本人の父から生まれたものだけが日本国籍を有すると規定した国籍法を成立させた。この法律は、事実上、韓国・朝鮮人を締め出すものだった。この法律に従って1952年、サンフランシスコ講和条約の発効日である4月28日付けで政府は、日本にいる韓国・朝鮮人と台湾人の日本国籍を奪う外国人登録法を発布した。現在、多くの韓国・朝鮮人は日本の法律下で永住権を有する外国人という立場にあり、2世、3世もほとんどが永住権を得ている。根本のところでは今日に至っても日本社会は韓国・朝鮮人差別から脱しきれないでいるので、韓国・朝鮮人が政府の要職に就いたり、社会保障などの給付を受けたりするのははなはだ困難ではあるばかりか、居住地の警察に絶えず監視されている。
・吉田は1950年4月7日、アメリカ国務省の高官に次のように述べている「日本が独自の軍備を持たないからには、アメリカに頼らざるを得ない」日本がアメリカの植民地になりはしないかと恐れる声が国民の間から出始めたときには、吉田は自分の考えを粉飾誇張して次のように答えている「かつてアメリカもイギリスの植民地だったが、いまでは逆に強国になった。それと同じく、日本もアメリカの植民地になることがあっても、最終的にはアメリカをしのぐようになるだろう」
1950年6月6日ダレスは、「日本を自由世界につなぎとめるためには、自由諸国の対等な一員でいたいという日本の願望をうまく利用しなければならない。と書いている。彼の考えによれば、講和条約は、日本が受ける制約を最小限にとどめ、賠償金の支払い義務を伴わない平和な経済発展の追及を可能にし、日本国憲法に定める戦争放棄を遵守する義務を条文に盛り込まないものでなければならなかった。加えて、日本には、国内の破壊活動に対応するために強力な警察力が必要であり、国連憲章に基づく協定によって日本の安全保障が整備されるまで、連合国占領軍の日本駐留は続けられるべきであるとも考えていた。
1950年6月、ダレスの求めに応じ、マッカーサーは次のように述べた。「アメリカが基地を置く権利については」日本全土が防衛作戦の潜在的基地であるとみなすべきであり」、アメリカ軍指揮官は「無制限の自由を与えられ、」有事の場合を除いて、首相との事前協議に従って最善と思われる日本のあらゆる場所への部隊の移動が可能であるとした。また、日本の自衛権は「略奪的攻撃を受けた場合には無条件で認められ、かつ不可譲のものである」、そのような場合には「日本はあらゆる可能な人的・物的資源を求めて、防衛に当たる部隊を支援するであろう」と断言している。
吉田は、日本の安全保障はアメリカが日本の威信を守ってくれさえすれば何とかなる、という事に尽きる、と言った。日本が民主的で、武装せず、平和を愛する国であるという事実を世界に示せば、日本の安全保障は手に入ったも同然である。なぜなら世界の世論が日本を守ってくれるからだ、と。ダレスは日本の再軍備を望んでいたが、吉田は反対だった。というのも国に再軍備の余裕はなく、国民の反対は強かったし、アジアの近隣諸国もそれを警戒していたからだ。一方ダレスはアメリカの友好国や同盟国である以上、自衛のためには自らできる限りの努力をすべきだ、と考えていた。これは、1949年設置されたNATOで同盟国とする際に、アメリカのとった立場だった。
1950年6月25日、朝鮮戦争勃発
1950年7月8日、マッカーサーは首相に書簡を送り、日本の警察隊を「7万5000人からなる警察予備隊」によって補強するとともに、海上保安隊は8000人の増員を行うべきだと述べている。当時、正規の日本の警察隊は総数で12万5000人、大都市警察と東京に本部を置く統一「地方」警察に分かれ、全警察を指揮する中央司令部はなかった。海上保安庁、すなわち沿岸警察隊は1万人を擁していた。日本の再軍備を決定したのは、1946年に日本の永久武装解除を命じたと同じ連合国最高司令官マッカーサーだった。元帥が明らかにした理由は、「国内の治安並びに秩序維持にふさわしい法の執行機関を斬新的に育成し、日本沿岸の安全を確保するため」に必要だ、というもので、朝鮮戦争については何も触れていない。首相は一時、この新しい計画に大賛成だった。増強されるのが軍隊でなく、警察隊だと考えたからだ。この組織は内閣の直属とし、現行法の制約を受けず、設置に際して新たな法律の制定を必要としないものだとホイットニーは伝えた。当初、マッカーサーは親切部隊の軍事的性格を隠す隠ぺい工作を考えていた。が、このプロジェクトを進めるアメリカの高官が、予備隊は軍事方針に従って4個師団で編成されると公表してしまった。吉田はこの新設部隊が「本質的に再軍備とは全く関係ない」と議会で答弁した旨を回想録に記している。だが、彼の予想した通り、再軍備であるか否かという点が日増しに争点になっていった。歴然たる証拠を突き付けられてもなお、吉田は彼の政治経歴の最後に至るまで、警察予備隊は憲法に放棄が明記された「戦力」ではなく、再軍備には当たらないと言い張った。
1951年4月11日マッカーサーの解任発表
・ダレスとイギリスのハーバート・モリソン外相は、イギリス内閣の承認を得たうえで、1951年6月12日、どちらの中国にも調印を要請せず、どちらの中国と講和条約を締結するかは日本が自らの意思で決定すべきであるという合意に達した。さらに講和条約発効から3年以内に、非調印国と同様の条約調印を日本が望めばそれを認める。両国政府は、最終的な領有権は決めないまま、台湾、南樺太、千島列島に対する主権を日本が放棄することで合意し、もう一つの厄介な問題をうまくかわした。
・(講和条約で)最後まで残った最も重要で厄介な問題は賠償条項だった。この問題はひどい被害を受けたフィリピンやほかのいくつかのアジア諸国の怒りを呼び覚ました。ダレスはこの件で、「生産、海難救助、その他の事業に日本国民の技術力を提供することで、それら諸国の損害修復費用を補償するため」日本が占領して損害を与えた諸国と協議するよう日本に強く迫って、1951年1月8日にやっと同意を取り付けた。そしてそのために関係連合国が必要な原材料を供給することになった。こうして日本は戦時中に占領した大半の国々と賠償協定を結んだが、この協定は結局、日本にとっても被賠償国にとっても有益な取引となった。このなかには商品、用役(条約に規定された)、技術援助、長期貸付など、様々な援助形態が含まれていた。日本の支払総額は11億5千万ドルに達し、その大半は受け入れ国の提供する原材料を日本で加工した製品の提供という形で支払われた。結果として、日本製品は東南アジア各国に広く知れ渡り、その後の日本の経済進出を下支えするとともに、戦時中の日本に対する被害国の怒りを多少とも鎮める効果があった。
・1952年2月15日、東京のアメリカ政治顧問執務室で、日韓両国政府代表が会談の席についてから、交渉は断続的に10年余りも続き、ようやく国交正常化条約が調印されたのは、1965年になってからだった。
もっとも紛糾したのは、有事に際して、日本軍と日本駐留アメリカ軍はいずれもアメリカ軍の指揮下で共同作戦行動をとるという条項をアメリカが求めてきた部分である。日本側はこの条項の受け入れを拒んだが、最終的には、有事の場合、両国政府は取るべき措置を協議するという曖昧な表現で妥協が成立した。皮肉なことに朝鮮戦争の勃発直後、ワシントンは実質的に同じ措置をマッカーサーに提案したが、軍事的にその必要はなく、かえって日本の精神的支援が得られず、またアメリカの威信を傷つける結果を招くだろうという理由から彼が強く反対して実現しなかった。
戦後の初期でもっとも重大な変化は警察予備隊が軍隊に変わったことと、日米安保条約が強化されたことである。警察予備隊は、1952年「保安隊」に、1954年には公認兵力15万2115人を擁する「自衛隊」にと改変された。しかし、約30万人の兵員、13個師団編成の軍隊を求めたアメリカの圧力は実らなかった。世論の反対を盾に取る一方、莫大な軍事支出を支えるには経済力があまりにも脆弱だという理由で、吉田が巧みに時間を稼いだからだ。
コメント
コメントを投稿