佐藤愛子「九十歳。何がめでたい」 痛快!(11)
テレビの音と映像がずれて直らない。そのテレビを買った古いつきあいの電気店に電話をかけて相談したら、そういう故障は製造元が修理することになると思うので、本社へ連絡します、といった。まもなく本社から青年が来た。説明を聞くか聞かないうちにリモコンをチョコチョコとさわる。あっという間にテレビのずれは直っていた。「何かの弾みでここが押されたんですね」と彼はリモコンの表面を押していった。「それだけのことで・・・?なーんだ・・・」思わず言った。その鼻先にさし出された紙きれ。修理出張費、四千五百円。リモコンチョコチョコで四千五百円!
その金額は私の頭の中で渦を巻いた。しかしそれが決まりの金額であることは、平然としている相手の態度で明らかだ。
本社から来てくださいと私は頼んんだ覚えはない。私は馴染の電気屋の親父に「何だか知らないけれど映像と声がバラバラになるのよ」と言っただけだ。そう言えば今までなら、「分かりました。後で行きます」という返事が来たものだ。あるいはいちいち質問して、「もしかしたらリモコンのボタンが押されたのかも知れないね。ちょっと押してみてくださいよ、とその個所を教え、どうです、直った?よかったね。アハハ」ですんだものだ。
それが勝手に本社に連絡し、修理係がスクーターで走って来て、チョコっとさわって四千五百円!
電気屋の親父が丁寧に事情を聴いて、それならば、と思い当たる処置法を教えてくれればそれが一番早道の解決法だ。それを合理的というのではないか?広辞苑を改めると、こうある。合理ー道理にかなっていること。単純明快な答えである。だがつづいてこうある。
合理化ー無駄を省き、目的の達成に好都合なように体制を改善すること。
その通りだ。だから本社から技術者が来たりしなくてもいいのだ、と頷きながらさらに見ていくと・・・
④労働生産力をできるだけ増進させるため、新しい技術を採用したり企業組織を改変する事。実質的には超過利潤獲得の一手段となる。
要するに、古い人情、習慣なんて無駄は捨てて本社から人を派遣すれば、チョコチョコさわって四千五百円の利潤獲得が成り立つということか!
>>客の心情や都合を無視して売る側が売る側の都合、理屈でその標準を押し付ける・・・これが合理的なんだ。売る側の人間は、客の不平不満などには取り合わない。マニュアル通りに受け答えするだけ。自分の頭で考えることを禁じられているかのようだ。日本人のいいところは(そして悪いところだが)相手の顔色見ながら対応を変える事だ。さて、どっちが合理的か???客の言い分を聞かずに売る側の標準を押し付けるのは全然「合理」ではない。ユダヤーアンゴロサクソン流の自分の標準を押し付け合うのは際限がない争いになる。そろそろご本人たちもそれに疲れてきたように思う。
日本人の場合、「合気道」と同じく、相手の理屈を理解してそれに近づく・合わせるのが”合理”なのかも知れない。そうやって衝突を避けながら相手をコントロールする知恵。
これは断じて、法治でも民主でもない。
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