西部邁「日本人とは、そも何ものぞ」その1
西部邁「日本人とは、そも何ものぞ」(2018年飛鳥新社)に、7世紀の日本と19世紀の日本は似ているとある。以下、それに影響された俺の意見。
7世紀19世紀の日本の類似点は:
・外圧というか、進んだ外国文明にやられてしまうという恐怖があったが、この恐怖を逆手に取り、進んだ外国文明=合理主義を取り入れて真似することによって日本を守ろうとした
・進んだ外国文明に反対する保守勢力と賛成する改革派勢力に二分された
・それまで地方分権だったのが天皇を中心とする中央集権となった
・天皇には政治的実力はあまりなく、取り巻きに政治的に利用された。天皇は、一方で、進んだ外国文明=合理性からこぼれ落ちた日本人の感情・精神性の中心としても祀り上げられた
7世紀の日本:
仏教を取り入れるべきとする蘇我一族が優勢となり、天皇を殺すなど政治を私したので天皇と藤原氏が手を組み、645年蘇我氏を滅ぼした。それまでは天皇の後継指名に豪族が口を出していたが、以降、藤原氏と天皇だけで後継を決めるようになった。海外では朝鮮の新羅が唐と組んで、660年百済組を滅ぼした。逃げて来た百済の残党と日本は663年新羅・唐連合軍と戦って惨敗した。日本は百済の次は自分だと思って国防に力を入れたが、唐と新羅は仲間割れして670年に戦った。同時期、唐はチベットその他と紛争を抱え、朝鮮から手を引いた。日本は唐の律令政治を真似し、仏教による天皇中心の中央集権国家とした。7世紀に始まり、8世紀に完成した万葉集や古事記は合理的な海外文明に染まる前の日本人古来の情緒、神話が描かれている。
19世紀の日本:
政治的には尊王・佐幕、外国文明に対しては攘夷・開国と二派に分かれた。尊王攘夷派が勝て1867年、徳川幕府は滅び、それまで藩が地方自治していた政治体制が天皇中心の中央集権国家となった。佐幕派にはフランスがつき、尊皇派にはイギリスがついて外国勢が互いにけん制し合ったこともあって日本は独立を保った。尊王攘夷派の中心で明治政府を支配した薩長は明治維新前にイギリスなどと戦争し惨敗して攘夷を捨て、外国文明を取り入れることにした。1890年年施行された明治憲法が合理的に政治の仕組みを書き表したものであるのに対し、同年出された教育勅語は、自由民権思想や外国文明に反発し日本古来の徳を教育の基本にして「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以って天壌無窮の皇運を扶翼すべし」と、天照大神が言ったとされる『天壌無窮』を引用して永久不滅の天皇を頂く日本国を守り盛り立てろ、と言っている。
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