東條英機大将言行録(廣橋メモ)より
昭和40年、東條の元秘書官廣橋眞光が発表した東條英機言行録:
昭和16年10月18日
秘書官たちから内相兼務の理由を聞かれた東條は「お上より日米交渉を白紙にもどしてやり直すこと、なるべく戦争にならぬように考慮すべきこと等、仰せ出され、これが実行に当たり、このまま戦争をせずアメリカの申し出に屈した場合には、2.26事件以上の暴動も起こるやも知れず、その際には断乎涙をふるってこれを弾圧する必要あり、これがためには、陸相と警察権を有する内相とを兼務する必要があったからだ」と。
昭和17年元旦
庭の芝生でお嬢さんたちと羽根を突いたとき、お嬢さんたちが中央にラインを引いて羽根をついているのを見て、「ラインを引いて羽根を突くことは既に勝負という事に捉われている。欧米式のマッチになっている。日本のは相手の受けやすいように羽根を突いてやる。」と。
昭和18年12罪28日
陸大・古賀大尉に対する言葉:
戦争を遂行している現在、現在の法令に不満があるのは分かり切ったことだ。理想としてかくあるべし、という事も分かっている。これを直に直すこと、これは革命であって私は身命を賭して我が国体に反する革命は絶対にさせぬ。現在の法令、これには明治以来の歴史があることを忘れてはならぬ。諸外国と対等の条約を結ばんとした当時の先覚は事情は百も承知の上で欧米に習って欧米式の法制を整えたのである。帝国大学ではこの欧米流の法律を教えて来た。しかし古来の日本の法制は三条をもって足りる。人は善人なりと言う前提で出来ているのが日本の特色である。これに反し、欧米の法制は人は悪人なり、この悪人は排除しなければならぬという立前から法制が出来ている。それゆえ、日本の法令ではこれを運用する裁判官に良き人を得なければならぬ。
<<東條は『米英は小乗的』と何回か批判している。
大乗仏教が「『南無阿弥陀仏』と唱えて身を投げ出せば万人誰でも救われる」という教え、つまり、「みんなを一緒に救おうという集団主義」なのに対し、小乗仏教は「仏陀の教えをロゴスとし、修業を通じてそれを究めた人だけが救われる」という「個人主義」である、と。日本は集団主義の大乗仏教、一人一人が個別に神様と契約する米英のキリスト教は個人主義、という観点からの批判だ。
ラインを引いて敵味方の陣地を切り分けて勝ち負けを決めようとする欧米式のマッチは日本式の「試合」(=双方の技、力を出し合う)とは違う。日本人にとって、勝負と試合は違う。「勝負に勝って○○に負ける」という言い方がある。勝った者の一人占めではなく、勝ち負けより力や技をいかに発揮したか、に重点がある。
古賀大尉に対する言葉も日本人論として興味深い。日本人の法律・規則の軽視。欧米に習って不本意な法律を作っておいて「運用」で何とかしよう(=誤魔化そう)・・・結局この矛盾を抱えていたから日本は負ける戦争を始めざるを得なかった・・・???
コメント
コメントを投稿