鎖国
894年、遣唐大使に任じられた菅原道真は、唐はすでに衰え、乱れていて見習うべきところがなくなっていると、遣唐使の廃止を提案した。実際、唐は907年に滅び、遣唐使は自然消滅した。
一方で、古今和歌集が905年に出来る。選者の一人、紀貫之は仮名表現にこだわり、後年女性として仮名で土佐日記を書くくらい、漢字から仮名へ、(中国から日本へ)という人間だった。
古今和歌集は枕草子や源氏物語にも引用され、紀貫之による「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まる仮名序は、漢意(からごころ)からの脱皮の象徴であった。
また10世紀には軍事力の弱い宋が覇権を握り、大陸からの襲来も少なくなった。10世紀初頭~13世紀後半の元寇までの3世紀半の間は鎖国状態だったと言える。さらに言えば、元寇は鎌倉幕府から室町幕府への交代という変化はもたらしたが、武士による支配は変わらなかった。もっと言えば、16世紀に鉄砲やキリスト教が伝来しても武士の支配は変わらなかった。江戸時代は17世紀初頭から19世紀前半まで2世紀半の間、鎖国が続いた。「外圧で大きな変化がもたらされることがなかった」ことを「鎖国」と言うならば、10世紀から19世紀は鎖国だった、と言えないこともない。
この鎖国が続いた9世紀半の間に特筆すべき「大きな変化」は12世紀に貴族の支配(古代)から武士の支配(中世)への変化だが、これが不思議なことに、元寇も鉄砲も黒船もなしに起こった。外圧なしに日本の政治(支配層)が代わったというのは非常に珍しいのではないか?逆に言えば、外圧なしに変革が起こせない日本人が例外的・自発的に変革を行った、ということだ。なぜこんなことができたのか?
天皇という切り口で見れば、12世紀までは一応名誉職にとどまっていたのが、武士の時代になってパワーを失って単なるお飾りとなり、19世紀に明治維新で復権する。
この、「貴族から武士への政権交代がなぜ外圧なしに(自力で)実現したのか?」と
「パワーを失った天皇がなぜ消滅しなかったのか?」は
日本史の2大ミステリーではないか?そしてその答えは日本人の本質ではないか?
特に、外圧なしに、自力で変革がなぜできたのか?は今の日本の変革のヒントにならないか?
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