西部邁「日本人とは、そも何ものぞ」その11 戦後
日本の非武装・不交戦憲法は、日本側が「もう武器を待ちたくもありません。戦火を交えるのはこりごりです」と思ったのは本当だけれども、同時にある期間、マッカーサー自身がそう思っていたからできた。その意味では、ある短い期間の極東米軍と敗戦属国・日本の合作みたいなものです。ところが、すざまじい冷戦が始まっていることを、マッカーサーも遅ればせに知ることになる。朝鮮戦争が5年後に起こり、その前後になるとマッカーサーのGHQは、「あんな憲法を作ってみたけど、国際情勢は変わった。やはり日本を戦争に巻き込みたいし、再軍備させたい」となってきた。そこで、時の宰相・吉田茂に「お前の憲法なんだから、変えてもいいんだぞ」とアドバイスする。吉田茂はずるいから、それをやれば、日本中が国論を二分する争いとなり、保守と革新のケンカになる。第一、日本人は食うのに精いっぱいだから、軍備にカネを回している暇がない、と拒否して、経済優先に傾いた。
吉田は社会党に激しいデモをするよう暗に仕向ける。そうしておいて、GHQが強引なことを言ってきたら、パっとカーテンを開けて、「分かりました。だったら、我々を追い詰めて退陣させたらどうですか。窓の向こうの彼らが政権を取りますよ」と言う。
日米安保があるし、しかも憲法には戦争放棄と書いてある。もう冷戦があろうと、アジアが不安定になろうと我が国は大丈夫である、戦争反対だ、反対だ、と言っていれば関わらなくて済む、という奇妙な態度が、平然とまかり通るようになった。
田中美知太郎が皮肉なことを言っています。平和を願うのはいい。私だって平和な方がいい。だからと言って「憲法に戦争放棄と書けば、戦争をしなくて済むのなら、憲法に我々は台風を放棄します、と書けば、台風は来襲しないのか」と。
閑話休題:
西部さんも、「平和憲法は変えられませんよ」と言う。俺も同感。日本人は憲法が政治・軍事の大元だ、という風には思わないから。ただし、憲法にしろ他の法律にしろ、書いてあることにあまりこだわらないから、今の自民党みたいにじりじりと平和憲法破りを続け、既成事実化して行けば、実質上平和憲法を捨てることはできるのではないか。
田中美知太郎さんの言うことは「戦争ってこちらから突っかけるばかりじゃあないよ、向こうから攻め込まれたらどうするの?」である。これに対して上岡龍太郎は「攻め込まれて滅ぼされてもいいじゃあないか。そんな馬鹿な憲法を作り、その憲法に命を預けた馬鹿な国民がいた、と語り草になればいい」、と言う。
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