西部邁「日本人とは、そも何ものぞ」その7  「道」

 仏教には「往還」という発想があります。学問を究めるために高い峰に登るように学習する。しかしそこにあるのは、自問自答の、孤独な世界です。これを極めたあと、今度は衆生(しゅじょう)世界に還っていく。民衆と触れ合い、その苦しみを理解しながら、救いの道を実践する。鎌倉時代の仏教者たちがそういった往還の果てに宗教家として成熟した。これなどは、孤独な個人の思索者から他者性の獲得へという、仁斎的なドラマといえないか。

それで」思い出すのは勝海舟です。勝は言います「世間は生きている、理屈は死んでいる」と。「世間」と言うのは仁斎によれば、「もって往来するところ」です。「往来するところ」とは何かといえば、要するに「道」です。すると「道」を究めるということは、つまり人との「往来」を極めるということになる。コミュニケーションを極めるということです。こんな「道」の概念は、朱子学のような理念的な道徳観からは出て来ない。人付き合いのなかで他者感覚を養うこと、他者との適切な距離感覚のなかで礼儀作法を見につける事。それが仁斎の言う「道」、つまり本当のコミュニケーションではないか。

閑話休題:

道とは往来。なるほど。修行と言うと山にこもって一人で・・・というイメージだが、それだけでは「道」は究められない。相手がいないと道は究められない。ライバル、仲間、師、先輩後輩・・・道を究めるにも、道を究めた後も道を実践する相手が必要だ。道を究めるために道を究めるというのは間違っている、あるいは単なる自己満足。

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